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灰色の境界  作者: 宵時
第四章「……ええ。時を経て、俺は殺人者になった」 「〝英雄(ヒーロー)〟とは言わないのだな」
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4-26 ナイティーンレッド

 学校を出る。肌に不快感。産毛を焼き焦がされたような、かすかな痛みがある。建物の構造上、下駄箱から正門へ向かうには必ず通らなければならないゲートがあった。

 以前から気のせい程度には感じていた、痺れるような感覚は電磁機器を狂わせる信号を発する機構によるものなのだろう。

 俺だけでなく、この小さな王国で起きた全てが外部に漏れないように。

 仮に漏れても飼い犬の警官が全てをなかったことにする。

 一見すると情報統制は万全のように思える。それでも隙があり、穴がある。

 人間は機械ではない。感情があり、意志がある。

 だからこそ立ち向かうことができる。

「忘れるものか……」

 言葉にして自分自身へと刻み込む。外から入ってきた俺に対して親切にしてくれた堀川という少年、そして犠牲となってしまった家族を忘れてはいけない。

「忘れない」

 重ねる。意思の炎を燃やす。常倉 和久が吐いた暴言は一字一句余さず残る。

 深層意識に深く根付き、(うごめ)いて呪いを叫ぶ。

 悪しきものだと認識している。

 あらゆる感覚を周囲に走らせ警戒する。和久は手段を選ばずに攻勢に出ている。

 恐らくは堀川と同じように家族や友人の命を手のひらで転がし、害し滅することをちらつかせて従わせている。殴りかかってきた男子生徒も、燃やそうとしてきた女子生徒も近しい人の命と俺の命を天秤に乗せて判断したのだ。

 機械に感情はない。命じられた通りに動き、殺せと差し向けられれば躊躇することなく平然と刃で切り刻み、銃器を乱射して命という輝きを粉砕するだろう。

 機械には代わりがある。型さえあればいくらでも増産できる。だが人間には代わりなどいない。奪われる恐怖、失う想像の痛みに耐えられず迷ってしまう。

 当たり前にある感情で、だからこそ利用する連中が許せない。

 俺自身は自らの環境を守ってきたモノを前に傾けることで攻勢に寄らせることはできた。それでも足りない。圧倒的に情報源が足りていない。

 父親のように組織や長年の信をおける者はいない。

 かといって、新たに協力者を作ることはできない。

 和久の耳に入れば、また堀川のような必要のない犠牲が生み出される。

「一人じゃ、ないんだ」

 確かめる。分類すれば新たな協力者と言えなくもないが、妙な安心感があった。

 その肢体は余りに白すぎて、儚く脆く易々と砕き壊されそうなほど弱々しい。反して、放つ言葉は鋭く茨の杭のように体内に根付いて貫く鋼の(くさび)となる。

 あれから何度会いに行こうとしても辿り着くことはできなかった。

 何故なのか。今は少しだけ分かる。叩きつけられた言葉は、ただ刺し貫くだけではなく実を結んで俺を変化させてくれた。背中を押してくれたのだ。

 立ち止まり俯く者に差し伸べる手はない。そういうことなのだろう。

 今の俺ならば、きっとまた遭うことができる。

 歩みを早める。(ひび)の目立つアスファルト、申し訳程度に敷かれたビニールシートの上を歩いていく。周囲の空気が(よど)んでいる。

 重く、息苦しさを感じさせた。

 街を眺める。歩く人影はない。最初にこの地に来た時にも思ったが、余りにも人通りが少なすぎる。道路を走る車も殆どない。輸送トラックが一台こちらへ向かって走っているだけ。一般道路であるにも関わらずかなりのスピードが出ている。

「……そういう、ことかっ」

 気付き、駆け出す。なるべく道路から離れて、車の入って来れない場所へ向かわねばならない。頭で理想の逃走経路を思い浮かべても現実には都合のいいルートなどない。地響きを鳴らしつつ大質量が背後に迫る。

 破砕音が混じり、無理矢理に曲げられる鉄の悲鳴が聞こえた。ガードレールをぶち破ったのだろう。もうすぐ後ろまで来ている。

 考えろ、考えるんだ。考えないと思考することすらできなくなる。


――こっち。


 声。聞こえた方へ視線を飛ばす。寂れた床屋があった。以前見た時と変わらず、サインポールは割れ砕けて雑誌が突っ込まれた状態。隣にはシャッターを下ろしたままの書店。隣接しているのはぽっかりと入口を開けたビル。

 迷っている暇はなかった。

 文字通り重荷である鞄を背後へ投げ捨てる。可能な限り身軽になるために、不要なものは全部置き去りにしていく。タイヤに粉砕される鞄の断末魔が聞こえた。

 脚に力を込める。今持ちうる力を全て出し切れと命令する。滞りなく血流が酸素を運び、常人以上の筋力を生み出し加速していく。自分でも驚くほどの力を発揮していた。少しずつだが、迫っていたはずの爆走音が遠ざかっていく。安心などしない。さらに前へ、前へビルの入り口を目指す。

 自らが地面を足で()んで走っているのか、それとも見えざる手に脇を抱えられて運ばれているのか判別のつかぬ状態でビルへ駆け込む。

 背後で轟音が響き渡った。突っ込んできたトラックに砕かれた壁の破片が空を駆け抜け、背中を叩く。粉塵が舞い散る。前のめりにビルの内部へ侵入した俺は立ち止まることもできず、振り返ることも許されず石のつぶてを喰らいながらも本能的に頭だけは両手で抱えて守り、床を転がっていく。

 回転していき、長年使用されていない証左である埃の山を吸い込み、気持ち悪さで吐き出しながらも呼吸のためにまた吸って、再び吐く。曲がり角の壁へぶつかり、一気に肺から空気が抜けていった。

「がはっ……」

 視界の端々に星が舞い踊る。まともに現実を認識できていない。息を吸って、吐く。埃やカビの臭いも気にしていられる状況ではない。吐いては吸って、短い間隔で繰り返し呼吸を整えていく。粉塵が立ち込め、まだ視界ははっきりとしない。

「げふっ、ごほっ」

 咳き込みながらも、手を床につき上体を起こす。接地する際に肉体の調子も確かめておく。床に手のひらをつけた左腕は痛みもなく健常そのもの。

 体の埃や破片を払う右手にも異常はない。

 背中が痛いが軽い打撲程度で耐えられないほどではない。

 衝突の際に引き起こされた音は建物の中で反響し、聴覚に情報収集を任せるのは少し心もとない。視覚もあてにならない以上は肌の触覚を頼りにするしかないか。

「こほっ……ふっ、ふっ、ふっ……」

 小さく咳払いをし、息を潜める。自走システムでも載せていない限り、トラックには運転手がいるはず。誰が何のために俺に向かって突っ込んできたのか。

 大型車に乗り込み、速度を上げて走らせるならば判断能力のある立派な大人であるはずだ。大人だからといって、やることなすこと全てが正しいわけでもないが。

 目をこらす。

 最悪の視界で入る情報を余さず捉えて、次の行動に生かすために凝視する。

 トラックの運転席は高い位置にあり、破砕したビルの入り口と重なってほとんど見えない。だが扉は開いていた。フレームを歪めることなく激突にも耐えていたらしい。ならばもうこれ以上の追撃はないか。

「けふっ」

 埃っぽい空気に(むせ)る。研ぎ澄まされた感覚は大気中に混じる僅かな不純物にも反応して、不快感を示すと共に体内から排出しようと反射的に咳き込ませる。

 静寂。反響していた爆音が止んでいく。砥石にかけるように戻りつつある感覚を研ぎ澄ませる。使えるものを総動員して世界を知覚する。

 つと鼻先を掠めたのは火薬と油の混じった悪臭。使えるようになってきた聴覚が拾った秒針が刻まれる音。得た情報が導く予測に背筋が凍り付く。

「……っ!」

 言葉を吐く時間すら惜しかった。苦鳴を叫ぶ脚の筋肉に鞭打って再び力を引き出させ、全速力でビルの奥へ奥へと走る。

 とうに電気の供給を失ったであろう建物の内部は、蓄電式の非常灯が申し訳程度に足元を照らすだけ。どこへ向かえばいいのか、そもそも出口は存在するのか。

 初めて入る場所で勝手を知っているわけではないが、肌に感じた空気の流れが外に繋がっていることを教えてくれていた。けたたましい爆発音が追い(すが)ってくる。地響きを立ててビル全体が軋み悲鳴をあげていた。振り向くことなく駆け抜けていく。

 破砕音と大気を焼き、粉塵を燃やす熱波に押し出されるように四角く区切られた光の枠を蹴破る。脱出した勢いのままアスファルトの上を転がっていく。

 長らく世界から隔絶された室内とは違い、空気の澱みはない。代わりに全身がアスファルトに叩きつけられて激痛で意識が飛びそうだった。寒空に短パンという奇妙な学校指定制服も影響している。

「かはっ……はっ、はっ……はぁ」

 仰向けで寝っ転がる形でようやく止まった。くすんだ曇り空が見える。

 足音。ゆっくりと近づいてくる。反応しようにも主要筋肉が悲鳴をあげていた。

 動けない。動くことができないが、鼻腔をくすぐる甘い香りが強張った体細胞が和げてくれた。気持ち、楽になった気がする。

 視界の端にひらめく青い布。すぐに見えなくなって代わりに声が落とされる。

「随分と、素敵な歓迎を受けたみたいね」

「他人事みたいに、言って」

「ええ、その通り。私の体に何かが起きたわけではないもの」

 辛辣な物言いだったが、声の主はアスファルトに膝をついて気遣うようにそっと俺の頬に右手のひらを置いた。冷たい。冷え性を通り越して、おおよそ人体では有り得ないほどの温度だった。

 視界に少女の顔が入ってくる。黒く長い髪が重力に従って真っ直ぐ垂れている。静かに見下ろす黒瞳は相変わらず底が見えず、吸い上げられそうに深い色合いを魅せる。美しく整った鼻筋に影でも分かるほど病的なまでに白い肌。

 薄い唇には微笑。嘲笑や侮蔑を含むわけではなく、無事に対する安堵と期待に応えてくれたことを喜ぶ情動が伺える。

「見つけたみたいだね。君の中に宿る力を」

「……ああ、多分。な」

「何だかすぐにでも天へ召されそうな顔してるけど?」

「そうか?」

 笑ってしまう。唇の端が痛い。トラックの衝突時か、それともビルからの脱出時か切ってしまったらしい。苦痛を見せずに無理矢理に笑みを浮かべる。

 見透かしたように蒼のワンピースを着た少女、久我(くが) 小百合の微笑が悪戯を思いついたあどけなさを全面に出す。

「まずは治療から、だね」

「よろしく……お願い、します」

「素直でよろしい」

 口にして、小百合は太陽に向かって咲き誇る向日葵のように笑った。

 小百合は敵ではない。味方だ。今の俺が寄りかかれるたった一人だけの。

 どちらにせよ今の体にこれ以上の行動を命じるのは無理だった。

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