4-25 造られし世界
歩道を進む。割れ砕けたアスファルトが見えている。俯いていた。
顔をあげる気力がない。勇気がない。見渡す限り真っ白な世界かもしれない。
右肩に鈍痛。視線を向けると停車した車から若い男性が下りようとしていた。ガードレールに阻まれたわけではない。障害となるものが何もないのに、開かない扉に苛立つように強引に押し開く。右から左へと力が動き体が跳ね飛ばされ、転がっていく。壁に額をぶつけて止まった。
鼻先に干からびた犬の糞がある。小高い山に居座る蠅が忙しなく足をこすり合わせていた。複眼がこちらを見たり見なかったりしている。
悪臭はない。ただ痛みだけが残っていた。
「えほっ……げほっ……」
咳き込む。視界が晴れる。喉に引っかかる不快さに突き動かされるまま吐き出す。床に血混じりの粘液がへばりついていた。不快指数があがる。
起き上がると、自宅のフローリングの上だった。自室のベッドから転げ落ちていたらしい。右肩が痛い。無意味に痛覚が増幅されていた。
ベッドの縁を掴んで立ち上がる。
蒼の少女、久我 小百合と会ってから三日経った。
生活は何も変わらない。学校へ行くも、あらゆる存在から無視される。道行く人々は隙あらば俺を亡き者にしようと襲撃を繰り返す。凶悪犯罪をやらかした指名手配犯のような気分だった。一秒だって気を許すことはできない。
現実と夢の境が曖昧だった。今こうして、荒々しく呼吸している俺が本当に生きているのかどうか。あやふやだった自らの存在は小百合によって確定はされた。
だが救いの手を差し伸べてくれたわけではない。
希望に思えた細い糸は何の慈悲もなく断ち切られてしまった。
何度か小百合のいた場所に向かおうとしたが、どうしてか見つけることができなかった。それほど複雑な経路を使ったわけでもない。どこを通り、何度曲がったか記憶を何度も反芻したが、それでも辿り着くことはできなかった。
まるで会うことを拒絶されているようだった。
頭痛が酷い。頭の中で延々と鐘の音が鳴り響いている。何故こんな目に遭っているのだろう。何の因果でこのような仕打ちを受けねばならないのだろう。苦汁をなめ続けなければならないのだろう。何者にもなれず、何物にも否定され続けているのだろう。
小百合の言葉を思い出す。
真っ直ぐ過ぎる。正義を盲信している。正しさの走狗となっている。
それの何がいけないのか。何が悪いのか。
他者を無為に痛めつけるのは悪だ。蔑み、笑いものにするために陥れて、報復の恐怖で人々の精神を縛り付ける和久の行為は悪逆そのものだ。
抗うことのどこに間違いがあるのか。
こうも言われていた。
「俺には、何も……ない?」
頭痛は増すばかりだった。ふらつく。腰を落とし、床に座り込む。肌を晒した左足が自ら吐き散らした粘液に触れていた。ねっとりとして気持ち悪い。
それよりも頭が痛い。
思考すれば思考するほど激痛に苛まれる。脳髄が、あらゆる細胞が考えることを拒絶しているかのようだった。凡夫のように無駄に思い悩むほど抜け出せぬ闇の沼にはまっていく。もがけばもがくほど、動き焦るほど体が沈んでいく。
「何も、ない」
繰り返す。薄闇の中で視線を彷徨わせる。
視界に入った時計が示すのは明け方の四時。
肌寒かった。ベッドに上がり、もそもそと布団をかぶって芋虫となる。
枕の位置を直していると指先に硬い感触。小さく舌を打つ。黒と赤の感情が再燃して脳を焼き始める。取り出したのはポケットに忍ばせるタイプの小型録音機。
一見すると印鑑のような形だが、蓋を開けても印など出てくることはない。
本来ならば蓋をスライドさせ隠れた印を表に出すための機構に触れる。
録音された音声が流れ始める。ザルの上で砂利を転がしているような耳障りな音が漏れている。延々と記録した部分は全てノイズ音で埋め尽くされていた。
「ははっ…………はははは」
渇いた笑いと共に録音機を適当に投げ捨てる。
何の役にも立たない道具なんて要らない。
床に落ち、滑っていった録音機は小さな音を立てて止まった。受け止めたのは、こちらも鞄に細工をして偽装した隠しカメラ。記録されていたはずの映像については何も言うまい。
「本当に、何もない」
何一つ証拠らしいものは得られていなかった。これからも得られないだろう。
様々な手法を使い、肉体的にも精神的にも追い詰めようとしてきた和久の自信、もとい根底にあるものは背後につく常倉一家という巨大な後ろ盾の存在だろう。
警察に何を言おうがどうにもならないことは分かった。
俺がどれほど危険な目に遭わされ、その瞬間を記録した映像を提出しても取り合ってくれなかった。あっても厳重注意を行う、程度のものでその後どうなったかはさも当然のように教えてくれない。被害に遭って損だけしている。
常倉の手はかなり長いようで、電話やネットを介した買い物も全滅だった。
パソコンや携帯を駆使し、通販サイトで注文してもまず発注連絡が来ない。
フリーダイヤルにかけても常に通話中で一切応じる様子がない。
近隣の配達サービスを行っている店舗へ依頼しようとしても、住んでいる地域は配送外であると門前払いにされる。だが学校からの帰りに配達のバイクを見たし、ピザの匂いや出前用の岡持ちを手に走る店員も見た。有り得ない状況が当然のように続いていた。
くぅ、と小さく腹の虫が泣く。
「ご飯、か……」
人間には食物や溜め込んだ脂肪等を分解し栄養素を吸収する機構はあっても、植物が光合成するような細胞や仕組みを持っていない。どんな人間でも人間である限りは食事をしないといずれ餓死する。
ベッドから足を下ろす。時間は早いが、他にすることもない。
部屋に窓はない。常夜灯だけが薄く室内を照らしている。
ゆっくりと外へ一歩を踏み出す。まだ外は暗い。薄暗い空間で過ごすことに慣れ、夜目もきくようになった。成長したと呼べるのだろうか。
聴覚と触覚を最大限に働かせつつ、冷蔵庫の扉を開く。
サンドイッチに御握り、何種類もの簡易調理惣菜。いつの間にか補充されてる食品達。誰が、と問うまでもない。父親が定期的に外から持ち込んでいるのだろう。
裏を返せば外側との接触を図れば常倉一家の悪事を暴くことができる。
その可能性はある。だが、それも結局は自分の力ではない。
俺は通報者や情報提供者、父親のサポート役になりたかったわけではない。
肩を並べて悪と立ち向かい討ち滅ぼす、そんな存在になりたかったはずだ。
「そう、だ」
一つの考えが浮かぶ。すっ、と頭痛が引いていった。
何故今まで気付かなかったのか。自らの不甲斐なさに激情が巻き起こるが、すぐに鎮火させる。俯いている場合ではない。振り向いて確かめるような余裕もない。
俺にも力があった。類稀なる感覚器官、常人よりも優れた情報能力があった。特別な、ヒーローの持ちうる力が宿っていたのだ。
瞳は微細な大気の変化をも見極め、嗅覚は様々な危険物を嗅ぎ分ける。聴覚は音から物体との距離を測って到達予測や行動予測を行い、触覚が目と耳の補助として機能する。これまで災厄を回避するために使ってきたものを前のめりに利用すればどうなるか。
小百合と別れてから出会う全てが己を認識せず、存在を否定している。
だが、それでも俺はここにいるのだ。父親もこの世界に存在してるのだ。
意志と意思を再燃させる。
押し付けだろうが何だろうが、他者を虐げ傷つける者が正しいはずがない。
正しくないのであれば然るべき場所で、法の断罪を受けるべきだ。
甲高い音が鼓膜を震わす。
冷蔵庫を開け放ったまま、時間を置きすぎたせいで警告音が鳴っていた。
御握りと簡易調理惣菜を手に取る。
方針は固まった。腹ごなしをしなければならない。
学校へ辿り着く。来るまでに突っ込んできた車が二台、車道へ弾き飛ばそうとしてきた青年が一人いた。車は接近前に察知して回避、青年は外へ向かう力を利用してコンクリの歩道に叩きつけてやった。後のことは知らない。
前者は居眠りや飲酒運転の事故で処理できるだろうが、青年の横暴にはどう言い訳をつけるつもりだったのだろうか。考えたくもない。
「でさあ、昨日のドラマ見た?」「見てない。今日帰ったら見るよ」「犯人がまさかあの人とは思わなかったよね」「ネタバレしないでよぅ」「あー寒いなぁ」
音の波が押し寄せては引いていく。踏みつけられないように、跳ね飛ばされないように力の道筋を見つけて受け流していく。
遠く舌打ちが聞こえたような気がした。
苦痛は耐えられる。体につけられた傷もいつかは癒えて消える。
罵倒されても聞き流せばいい。耳を塞げば何も聞こえなくなる。
これまでは耐えられた。が、誰にも認識されない世界は気が狂いそうだった。
叫んでも喚いても誰にも気付かれず朽ちていく。
存在を確かめられず、当の本人ですら疑念を抱いてしまう。
延々と先の見えぬ暗闇を彷徨っているようだった。
そんな幽霊のような俺を小百合は見つけてくれた。
その時点で、俺は救われていたのだった。
さらに気付かせてくれた。自分自身の祈りや願いだけでは届かない、まだ見ぬ世界や知識の海が広がっている。もっと多角的に物事を見なければならない。
己を守るために使っていた力を応用する。世界の歪を探し出す。
相変わらず靴箱に細工はない。上履きに履き替えて教室へと向かう。
後から追ってくる足音。三秒後、足元へのスライディング。跳躍で回避、滑って行った男子生徒は壁へ激突し呻く。無視する。続いて五秒後に首の後ろ目がけてラリアット、屈んで回避。腕を振った男子生徒が勢いのまま転がっていく。後のことなんか知らない。知ったことか。
これまでも何度も繰り返されてきた〝気付かずやってしまった〟暴力行為。
当初は偶然かと思っていたが、今は確信を持って言える。
彼らは見えないのではなく、見えないフリをしている。
何故そんな行為に及んでいるのか。考えるまでもなく答えは出ている。
階段を上っていく。手すりを滑り落ちてくる粘液。危険物だと知らせる嫌な臭気が鼻先を掠める。見上げると踊場の影に女子生徒の姿。スカートを翻す残像と、投げられたマッチ。振り返ると近くに人影はなかった。背後で激しい着火音。階段を伝って垂れ流れる油に燃え移って炎をあげる。
短く息を吸って足に力を込めていく。
耳と肌は一階部分から駆け寄ってくる足音を捉えていた。下りればさらなる追撃が待ち受けている。まだ火勢は弱い。今ならば走り抜けることは十分に可能。
二段飛ばしで階段を駆け上がっていく。小さな悲鳴が聞こえた。声の方を見ると、こちらへ上ってくるとは思わなかったのだろう、女子生徒が尻もちをついて震えていた。
炎に反応して備え付けの消火装置が作動し始める。火事発生を知らせる警報と避難を促す機械音声が喧しく鳴り響く。俺は女子生徒を見ていた。
「君は、どうしてこんなことを?」
返事はない。腰を抜かしたようで、動けずスカートの裾を抑えて座ったまま。
俺がどんな顔をしているのか分からない。だから怯えたように硬い表情を浮かべて震えている女子生徒が俺を恐れているのか、それとも〝誰か〟に脅されているのか分からない。
どちらにせよ、やり口が余りにも露骨になってきていた。
恐らく痺れを切らしているのだろう。どうにも折れぬ心にやきもきしているのだろう。一度は本当に壊れかけたが、もう大丈夫だ。
湧き上がる衝動を抑え込む。彼女に当たっても何の益にもならない。
取り除くべき存在は他にいるのだから。
「早く逃げた方がいいよ」
精神は落ち着いていても、今の俺に女子生徒を抱えて逃げる力も余裕もなかった。狙われていると理解してるのだから、共にいるよりも置いていく方が安全だと思う。
正しく装置は作動しているようで、スプリンクラーが消火剤を散布していく。
返事を待たず、俺は女子生徒から離れてさらに階段を上っていく。
三階へ到達。軽く湿った体に嫌悪感を覚えつつも、何でもないと平然とした顔で教室へと向かう。辿り着くまで新たな襲撃者はなかった。諦めたか。
教室の扉を開けると同時に口も開く。
「お早う」
頭上から落下してくる古典的な罠に対し、軽くステップを踏んで二歩後ろへ下がり回避。べちゃりと音を立てて黒板消しが床とキスをした。
嗅覚が甘い香りを捉える。
琥珀色の粘液が広がっているのを見ると今度はハニーシロップ漬けか。
何度同じ手が通用すると思っているのだろう。
飛び越えて教室へ入る。生徒達は何も起こっていないかのように、俺の声には反応せずに談笑を続けている。
教室中央の席に座った少年王だけが苦い表情を浮かべていた。
「お早う、常倉 和久くん」
少年王和久からの返答はない。そのまま目を見続けていると、耐えかねたのか和久の方から目を逸らしてきた。決定的だ。敗北を認めたのと同じだった。
警報が鳴り響くのも構わず、日常会話を続けている生徒達が奇妙であり、同時に滑稽でもあった。最初からそうなると身構えていれば恐れる必要はない。現に緊急事態だというのに警備の人間や教師が駆けつけてくる様子もない。
この世界は、壊れている。輪郭を失い、崩れかけている。
一人だけ世界に取り残された状況では気付くことすらできなかっただろう。
起きていることは事実で、事実を正常に認識できない自分が狂っているのだと信じ込んだだろう。今は違う。俺は正しく造られた世界を見ている。
歩を進める。元々座っていた場所には机も椅子もない。
背負っていた鞄を下ろし、中から座布団を取り出して床に置く。
三日間、地縛霊のようにただ存在するだけだった。小さく息を吐く。
愚かしい過去の自分は切り捨てよう。手にある札が少ない分、ある程度手段は選んでいられない。関わる連中の体調や心情を気にする余裕もない。
それでも最後の一線は引いておきたい。自らは、絶対に仕掛けない。
最初に抱いた想いは変わらない。悪を討つ正義となる。人々に危害を加える者、虐げる者、不正を見逃す者を滅する。
揺るがぬ証拠を突きつけて己の罪を認めさせ、悔い改めることを願う。
常に必要なのは情報。誰が、何のために、何故……すべてに繋がる根源を探す。
俺の存在を無視する世界ならば、それで構わない。
造られた世界を破壊し、支配し巣食うものを取り除く。
救われる側ではなく、救い導く側になるために。




