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灰色の境界  作者: 宵時
第四章「……ええ。時を経て、俺は殺人者になった」 「〝英雄(ヒーロー)〟とは言わないのだな」
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4-24 棄てられし君へ

 痛みの後に続いたのは余りにもストレートな罵倒だった。

 歩道と道路とを隔てる縁石近くに座り込んだまま、無為に時間が過ぎていく。

 正確に状況を把握できていなかった。

 瞼を閉じて、開く。幻影ではない。目の前に立つ少女が目を細める。

「どうしたっていうのよ、まったく」

「……あ……う、あっ」

「まるで幽霊を目撃したような反応しちゃって。

この通り、ちゃんと足はあるからね」

 ワンピースの裾をはためかせ、くるりと少女が一回転してみせる。先程も確認した通り、確かに少女は俺の目の前に存在している。語りかけてくれている。

 右手で自らの頬肉を掴む。捻り千切る勢いで回転を加える。痛い。

 俺の手が払われ、両頬に違和感。目の前に立った少女によって頬肉を掴まれていた。一切の手心なくつねられる。

 少女にしては異常な力だった。堪らず痛みを叫ぶ。

「いたっ、いたたたっ!」

「どう? これでもまだ夢幻だって言うのかしら」

「で、でもなんで、そんな」

「なんだったら、もう二発か三発いっておこうかな?」

「わ、わかった! 現実だってわかったからやめてっ」

「まったく……」

 解放された。痛む頬をさする。少女の目は本気だった。おたふく風邪をひいたかのように頬を膨らまされるところであった。痛覚も空恐ろしい(おそ)れと共に得ているということは生きて存在しているということ。何度も何度も頬を撫でていると、視界に華奢(きゃしゃ)な手が映る。

「ほら、早く立ちなさい。また車がくるかもしれないから」

 顔をあげる。どこか気恥ずかしそうに少女が俺へと手を差し伸べていた。

 自然と応じて手を取る。温かい。久しく忘れていた人間的なぬくもりを思い出すことができた。そのまま一気に引っ張られ立たされる。

 はたと我に返ると恥ずかしい話だ。こんな少女に助け起こされるとは。

「悪かったね、こんなガリッガリの女の子でっ」

「えっ……いや、別に俺は何も言ってない、けど」

「わかるのよ。何となく、ね」

 小さく微笑む。顔に書いている、というやつなのだろうか。

 太陽の光など知らぬような青白い肌、まったく力を発揮しえないだろう、ほとんど骨と皮だけと思しき肢体。先程怒られたばかりだというのに、俺の目は少女の体を隅々まで観察してしまっていた。

「あのねぇ……」

 小さな手で拳を握り、わなわなと震わせて少女が怒りを示す。

 俺自身もそれほど高い方ではないが、少女の背丈は頭ひとつ分ほど低い。こんな弱々しい肉体のどこにそんな力があるのだろうか。

「あの、色々と聞きたいことが、あるんだけど」

「勝手ね。私の都合はお構いなし?」

 呆れたように少女が握った五指を開き、振ってから肩を竦める。

 ただ一人だけ世界に置き去りにされた世界で、それでも俺を認識してくれた存在。気持ちが昂りすぎて、相手のことを気遣う余裕などなかった。

 だが、逃がしたくない。ただ一つの希望、たったひとつ繋がるかもしれない可能性の糸を手放す気はない。少女が小さく溜息を吐いた。

「いいよ。私もそのつもりで話しかけたのだし」

「それって、どういう……」

「とりあえず、場所を替えましょ」

 十年来の友人を誘うように軽く言って少女が歩き出す。表立ってはできない、ということなのだろうか。学校や量販店での反応を見る限り、恐らくこの場所で俺の存在を認識してくれる存在は他にいない。

 いや、気付いてくれた人がいるのだ。もしかしたら、他にも認知してくれる存在がいるのかもしれない。気力が蘇ってくる。ついさっきまで死にかけていたというのに、たった一つのことで現金なものだと自分でも思う。

「あっ……」

 無意識に小さく漏らしてしまっていた。逆の可能性もある。

 和久が、どん底の奈落まで叩き込んでからさらに追い込みを仕掛ける。味方だと思っていた者に裏切られてしまう。その激痛に俺は耐えられるだろうか。

「どうしたの?」

 歩道を進む少女が立ち止って振り返る。不思議そうに俺を見ている。

 変に作ったものではなく、見たままだった。自然に見せる演技か。疑心暗鬼になりつつあった。この場所は敵だらけで、何一つ誰一人味方などいない。

 思えば不遜な態度をとっていた和久は最初から狙っていたのかもしれない。

 返すべき言葉が見つからない。言葉に詰まり、喉が渇く。どう答えるべきなのか。どんな反応を示すのが正解なのか。分からない。

 ふっ、と少女が笑う。何もかもを見透かしたような顔で告げる。

「罠かどうか、考える以前に他の選択肢はないと思うけれど」

「一体、何を……」

「〝わかる〟って言ってるでしょ。大人しく着いてきなさい」

 答えられなかった。嫌だとも、分かったとも言葉にできなかった。

 内心を見抜かれた感覚は以前にもあった。和久と相対した時だ。

 今もそうなのか、これも罠なのか。

 が、少女の言葉通り他に選べる道がないのも事実だった。

 唯一の味方である父親はいつ帰ってくるか分からない。頼ってしまえば本末転倒だ。何のためにこの地へ着いて来たのか分からない。

 少女が先を歩く。今度は振り返ることなく、ゆっくりと進んでいく。

 俺はその小さな背中を追いかけるしかなかった。




 綺麗にまとまった住宅街を抜け、細い路地に入る。ただでさえ人通りが少ない町において、さらに閑散とした区画だった。

 床屋と書店が並ぶ。揃って格子を下ろし営業時間外をアピールしている。それどころか床屋のサインポールは割れ砕け、開いた穴にゴミが詰め込まれていた。

 明滅する黄色の信号を渡っていく。オフィス街らしきビルが林立していた。

 元々は白かったであろう壁は排気ガスに汚れ、卑猥な言葉が書き殴られ無残な姿を晒している。一階部分の窓ガラスが割れたまま放置されていた。

 空き缶や空き瓶、タバコの吸い殻に雨風に晒された成年雑誌。

 前を歩く少女は一瞥することもなく進んでいく。まるで、この光景が当然であるかのように、(ある)いは世界など視界に映っていないかのように歩みを止めることはない。

 小さく咳き込む。空気が(よど)んでいるように感じた。

 喉の奥に棘が引っかかったような不快感を覚える。

 一体どこへ行くのだろうか。周囲に人気はない。

 さらに人間のいない区画へ連れられているような気がする。

「空気悪いでしょ。でも、仕方ないの」

「……どこへいくつもり、で?」

「そんなに警戒しなくても、とって食ったりしないから」

 軽い笑いを共に答えるも、少女は足を止めることも振り返ることもない。

 再びの沈黙。車の通りもなく歩く人もない町は、たった二人だけ世界に置き去りにされたような気持ちにさせる。今の俺には似合いなのかもしれない。

 退廃的な雰囲気の街並みにはごろつきが似合いだが、人の姿は全く見えない。

 立ち並ぶビルは、ただそこに存在しているだけで無機質の林そのものだった。

 さらに歩く。骨組だけの建物があった。フェンスに囲まれ立ち入り禁止の札がかけられてはいるものの入口を守り人間の出入りを請け負う警備員の姿は見えない。足を止めて見上げるも、作業員の姿は見えなかった。

 開発途中で廃棄されたのだろう。

「何見てるの? そこにも誰もいないよ」

「そこに〝も〟って……」

「この区画には人なんていない。忘れ去られた空間だから」

 言いながらも少女が先を進む。慌てて駆け出し、追いついてまた背後に付き添う従者のように黙ってついていく。

 乱立するビル群を抜けて辿り着いたのは四方を高層ビルに囲まれた空間だった。

 一歩足を踏み入れた瞬間に感じたのは鼻の粘膜を貫く悪臭。そこらにゴミが放置され、羽虫や脂ぎった甲殻を見せる黒虫が(うごめ)く。

 見なかったことにしよう。

 少女はさらに歩いていく。周囲を囲むビルのせいで陽が差すことなく薄暗い。

 奥まった場所には不法投棄されたゴミが山を形作っている。旧世代の無駄に大きい銀の冷蔵庫、投影部分が割れ砕けた古い型のテレビ。ドラム式の洗濯機。オルガンにピアノ、トロンボーンと鍵盤系から金管楽器に至るまでの楽器が複雑に絡み合ってる。

 軽い地震でも起きようなら一気に崩れてしまいそうな様相だった。

 そんな山を背後に、ぽつんとテントが立てられている。

 少女がその入り口に手をかけて、こちらを見ていた。

「さ、着いた。中に入って」

「中に……って。えっ、それ本気で言ってる、の?」

「本気も何もくっさい場所じゃ落ち着いて話もできないでしょ?」

 その臭い空間に連れ込んだのは誰だ、とは言えない。渋々言葉に従う。

 恐る恐る足を進めて、少女に促されテントの中へ入る。外見では想像できなかったが意外に中は広い。入口近くのマットを越えようとして手を掴まれる。

「靴脱いで。君は自分の家にも土足で上がり込むのかな?」

「えっと、これ玄関なの……ね。そうなんですね」

「私の家だから当然、玄関はあるよ」

 何故こんなところに住んでいるのだろう。様々な疑問が浮かぶ。

 促され靴を脱ぐ前に入口で軽く足踏みし落ち切っていなかった砂埃を払う。

 靴を脱いで外に近いギリギリの場所に置いた。少女も靴を脱いで中に入る。

 外は薄闇に包まれていたのに、ここは明るい。

 見上げると上部からぶらさがる丸い蛍光灯が明々と輝いている。

 マットを越えると中央に当たる部分に紺色の絨毯が敷かれていた。

 木製の机が鎮座し、向かい合うように座椅子が置かれている。

 赤に青に黒に白とカラフルに合計四脚あった。

「適当に座ってて」

「で、ではお言葉に甘えて……」

「普通に話していいよ。同い年なんだし」

「そう、なの?」

 問いつつどこに座るか考える。単純に近かった赤の椅子に座った。奥へ向かい、戻ってきた少女の手には小さなお盆。机の上にペットボトルのお茶とコップを二つ置いて向かい側の青い椅子へ腰を下ろす。座った少女の顔にはわずかな怒り。

「もしかして、年下に見えたのかしら。君よりも背が低いから?」

「い、いやそんなわけじゃ……それよりも、

その君って言うのやめて欲しいんだけど」

「名前を聞いていないから仕方ないよね。私と君は今日会ったばかりなのだし」

 それはそうなのだが。なんだろう、この何とも言い表し難い感情は。

 ここまできて雰囲気を壊すわけにもいかない。不満を喉奥に押し込める。

「俺の名は来々(くるるぎ) 亮。気軽に呼んでくれ」

「来々木くんね。変な名前。くるくる回ってるのか、

狂々(くるくる)回り踊らされているのか分からないね」

「時々、何を言っているのか分からない、のだけど……」

「そう? 私は小百合。久我(くが) 小百合」

 名乗った少女、小百合は年相応の屈託のない笑顔を浮かべた。真っ直ぐで綺麗な、心臓を鷲掴(わしづか)みにされたかのような人を引き付けるいい笑顔だった。

 鼓動が高まる。咄嗟(とっさ)に目を()らしてしまう。

 視線の向かった先には部屋の奥。小さいながらも冷蔵庫があり、加湿器に空気を循環させる送風機もあった。さらに多機能収納棚に、オーブンまで備えた一体型のキッチン。通常の家屋と比べても(そん)色ない家具が揃っている。どこから電気を得ているのか、水回りはどうなっているのか気になる部分は残るが。

「なーにをじろじろと観察しちゃってるのかなぁ」

「いや、単純に凄いな、って思って……」

「まぁ、いいけれど。それだけ元気があるなら連れてくることもなかったかな」

 そうだ。どうしたの、と小百合に問われていたのだった。

 和久に目をつけられて遊び道具とされ、様々な嫌がらせを受けた。

 それらの仕打ちを受けてもなお学校には通い続けた。

 どこかに隙がある。悪事を捉えて警察に突き出す。

 いかに圧力がかかっていようと、証拠があれば動かざるをえないはずだ。

 そのために盗聴器や隠しカメラ、使えるものは何でも使ってきた。悪を滅ぼす正義の味方に憧れていたから。正義を体現した警察という存在を信じていたから。

 だからこそ久音(ひさね)に圧倒され、(かしず)く若い警官に嫌悪感を覚えた。

 あんなものは一部だ。箱の中の林檎が一つ腐っていても、全部が腐っているはずがない。現に父親が悪を討つためにわざわざ足を踏み入れて――。

 鼻先にかかる吐息。甘い香りがした。現実に戻るといつのまにか小百合は俺の隣に座っていた。華奢な右手が俺の胸に、心臓の上に触れている。鼓動を感じるように、互いの気持ちを通い合わせるように、瞼を伏せていた。

 数秒経って、何かを確かめたかのごとく頷き、小百合の瞳が露わになった。

「そう……君も、()てられたんだね」

「捨てられた、なんて」

「世界に置き去りにされた。存在を無視され、誰にも認識されることなく、

触れることができずに自分自身を見失っていた。

そんな愚かで小さな自分を嘲笑(わら)っていた」

 言葉が続かない。続かせるべきものと一緒に唾を飲み込む。

 俺が語る前に心に秘めていた全てを暴かれていた。

 俺を見つめる小百合の瞳が鋭さを増す。

「君は、余りにも真っ直ぐすぎる。正論を振りかざしながらも、自らが持つものを絶対善だと信じ切り他者にも押し付ける。同じようにあれ、と正しくあれと」

「そんなことは、ない……よ。だって」

「それは誰に形作られた倫理観で、正義なのだろうね?」

「違う。何かに影響されたわけじゃなく、俺自身が持っている――」

「ない、ね。君自身には何もない。正義のヒーローに憧れ、正義たらんとし

その行いを真似れば正義に成れると思い込んだ浅はかな子供でしかない」

 君も子供だろう、とは言い返せなかった。反論する気力がなかった。

 全ての言葉が重い。

 心臓を刺し貫き、抉って精神の深き場所まで侵入してきている。

 小百合の、少女に似つかわしくない鋭さを持つ言葉の連撃は続く。

「鎧もなく盾もなく、槍すらなく戦場に迷い込んだ民草に近い。

気持ちだけではどうにもならないし、正しいことを叫べば

全てがうまくいくほど世界は台本的じゃないの」

「で、でもっ……証拠があれば警察だって動いてくれるはず、で」

「結局他人に頼っているだけだよね。

自分自身は無力だと言っているようなものね」

「ぐっ……」

 その通りだ。俺に力はない。権力もない。言葉の槍は無慈悲に俺を串刺しにして足のつかぬ宙空へと晒し上げる。無能で無価値で愚図だと照らし示す。

 何も言い返せない。が、他に何ができるというのだ。

 俺はただの子供だ。

 法を作る人間でもなければ、執行する役割を担う者でもない。

 事件を目撃すれば迅速に正しく情報を伝える無力な通報者でしかない。

 法治国家である以上は定められた決まりを越えての行動は許されない。

 重々しく小百合が溜息を吐いた。何度か耳にしたことがある音。テストで悪い点を取った時に母親が(はばか)らず(あら)わにした落胆の色が強く出ているように思えた。

「何をどうしたいのか、何のためにこの世界にいるのか。

もう一度考え直すべきね。今の君じゃ何も変えられないよ」

「そ、んな……」

 重すぎた。そして痛かった。覚えている。自らの存在を否定された痛みだ。

 今までのすべて、そしてこれからなしうる全てを無意味だと断定する言葉。

 そうならぬよう、意味を見出すために努力を続けてきたはずだった。

 言葉の乱舞はさらに続く。

「対峙しているものを見極めた方がいい。君の持ちうる手札を全て使い切って、

それでも抗いたい立ち向かうべき理由を備えたら、また来なさい。

私は、いつでも棄てられたこの場所で君を待っているから」

「…………もしかして、君も」

 答えず小百合が立ち上がった。ゆっくりとテントの中を移動していく。

 向かい側の青い座椅子に座って、自らのコップにお茶を注ぐ。一気に飲み干し、置くと静かに笑った。儚く、悲しげで今にも壊れ崩れそうな笑みだった。

「……分かったよ」

 立ち上がる。これ以上いても意味はないだろう。

 要は、今の俺には情報を提供するだけの価値もないということだ。

「必ず、絶対に戻ってくるから」

 言い捨てて靴を履き、テントを後にする。

 また暗闇の世界に戻ってきた。誰にも何にも認めてもらえない空間へと叩き出されてしまった。悲しみが溢れ出す。形にならぬよう下唇を噛む。

 嗚咽も涙も見せてはやらない。そんな資格さえ今の自分にはないと思えた。

 小百合の問いに対する答えを持って来なければならない。

「札を……確かめなくちゃ」

 一人こぼす。集めることと耐えることに精一杯で一つたりとも録音機や撮影機のデータを確認していなかった。

 例えあの若い警官が対応しなくても他の誰かが対応してくれるはず。

「違う。俺自身が動かなきゃ……」

 分からない。こんなちっぽけな存在に何ができるのか。

 希望に繋がるかに思えた導きは、さらに自らに大きな影を落とすだけだった。

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