4-23 蒼の少女
授業の終わりを告げる電子音の鐘が鳴り響く。
平時と変わらず日直が号令をかけ、声に従い生徒達が椅子を引いて立ち上がる。
教師へ向かって正しく一礼し、頭をあげた。
教師が出席簿と教材を持って教室から出ていく。
俺は一人床に座ったままだったが、言葉どころか視線すらもらえなかった。
休み時間に入り生徒達がにわかに騒ぎ出す。ふと時間割を思い出すと次は体育だ。女子生徒が鞄を手に教室から出ていく。入れ替わりに隣のクラスの男子生徒達が入ってきた。
俺も着替えの入った体操衣類用の袋を取りに立ち上がり、教室の外へと向かう。すれ違う男子生徒と肩がぶつかった。
「あっ、ごめんなさ……」
反射的に謝罪の言葉が漏れた。が、当てられた生徒は特に気にしたふうもなく、またぶつかったこと自体に気付いていないようで肩にかけた鞄を担ぎ直していた。
たまたま鞄に当たって気付かなかったのだろうか。僅かな希望が生まれる。
そうだ。手の込んだ嫌がらせに違いない。
俺はここにいる。この場に存在している。右手を自らの胸に当てて心臓の鼓動を感じながら教室の外、廊下に面するように置かれた個人用ロッカーの前に立つ。鍵なんてものはないので誰でも自由に開けたい放題だ。机と同じように、ここにも泥やら大量の虫、猫の死骸を入れられたこともあった。
唾を飲み込む。覚悟を決めて開ける。
そこには先週と同じ光景が広がっていた。真新しい教科書には変な染みも損傷もなく、買い換えた状態のまま静かに積み重ねられている。ノートも濡れることなく、そのままの状態を保っている。
喜ばしい状況のはずだ。
別段、俺には痛めつけられ傷を負い喜ぶような特殊性癖はない。
何もないならば、平穏無事に普段通りの生活を繰り返せばいいのだ。前の学校でもそうしていたように勉学を共にし、休み時間にたまに会話を交わす。当たり前にあるべき状態を持続させていく。
何に戸惑う必要があるのだろうか。
体操衣類を詰めた袋を取り出す。思い立って封じた紐を解き、中身を確認するが虫や蛇が入っているわけでもなく異臭もない。置いていった時のままだ。
封をし直して肩に担ぎ、教室へと戻る。確認作業に戸惑っていたせいか、それとも生徒達が早めの体育に備えていたのか、ほぼ全員が着替え終わっていた。
慌てて着替え始める俺を気にも留めず、クラスメイト達が教室を後にし始める。
「体力測定だっけ?」「かったるいよな」「持久走よりマシじゃね?」「延々と走らされて何の罰ゲームだっての」「体育教師って何かあれば走らせればいいって思ってるよね」「ドラマ見すぎだろ。今時そんな化石みたいなやついないって」
音の波濤が過ぎ去っていく。人数の減少に伴い、声が遠ざかっていく。
シャツのボタンを外し、一つずつ外すのが面倒になって上部分だけ外して脱ぎ捨てる。服を置く机がないので床にそのまま投げた。荒々しく袋の口を開いて半袖の体操服に腕を通す。
「昼休み前とかならそのまま遊べるのになー」「朝一でもいいけどな」「朝から体動かしたらしんどいよ」「脳筋教師は頭が目覚めるのにいい、って言ってたぞ」
声が途切れた。教室の戸が閉められ、がちゃがちゃと音が鳴る。止んだ。
「ちょ、っと……」
静寂の中に俺の声がひとつ落ちた。ズボンを脱ぎ捨てる。窓際から外を見ると、先に降りた生徒達がジャージ姿の体育教師に率いられていた。ズボンも床に置き捨て、ハーフパンツを取り出して穿く。瞬時に衣服のチェックを行って教室を出ようと戸に手をかける。
硬い音。戸が重い。押す。引き戸なので動くはずがない。引く。動かない。狭い空間を何度も何度も往復させる。がちゃがちゃと喧しく音を立てるだけ。
逆の戸へ向かうが、やはり施錠されていた。俺だけが置き去りにされたのだ。
どうしよう……いや、悩む必要はない。鍵は外からかけているのだから内側からは開けられるはず。混線する思考の糸を解き、無理矢理に気を鎮めて戸の室内側にあるべきものを探す。すぐに見つかった。戸自体が施錠式であるため、内側にあるのも指で押し上げれば開く簡素な構造だ。一瞬迷うが、教室の戸は開けたまま校庭へ向かう。
前の学校での形式と同じであれば移動教室の際は大抵責任者、日直か体育委員が鍵の管理を行い担当の教師へ渡すことで責務の委譲が完了する。この場合は中に人が残っているにも関わらず施錠した者に責が及ぶはずだ。
考えながらも走る。追いつき、普通の学校生活に戻るために急ぐ。
「きゃっ」「うわっ」
角を曲がったところで資料を抱えた女性事務員と出くわした。
避けられず、そのまま激突。
投げ出された資料が宙を舞って、すぐに重力に引かれ廊下に落ちてきた。
「いたたた……」
「ご、ごめんなさいっ!」
起き上がり、散らばった資料を集める。女性事務員はまだ尻もちをついたままで、何が起きたのかと辺りを見回している。手を差し伸べるべきか。いや、すぐに集めて合流して……思考しながら手を動かして資料を集め終わった。
「あの、本当に……ごめんなさい。その、急いでいて」
「あれ、おかしいなぁ。何かにぶつかったと思ったのに」
「えっ……」
右へ左へと女性事務員が周囲を見渡して不思議そうに小首を傾げる。
目の前に俺がいて、手に資料を持っているのにまるで気付く気配がない。
彷徨っていた目がようやく俺を捉えた。
「あっ、よかった。資料は無事だったのね。急がなきゃ……」
言って女性事務員は資料を床から拾うように俺の手から奪うと、立ち上がり埃を払ってそそくさと立ち去ってしまった。俺は遠くなっていく背中を茫然と見送る。
彼女も俺を認識していない。
明らかに、視界に入っているはずなのに何の反応も示さなかった。
「なんだ、これ……」
教室内だけでなら、まだ理解できた。常倉 和久の世界であって、彼を中心にして教室という小さな空間が支配されていた。だが、先程ぶつかった隣のクラスの生徒といい、女性事務員といいもっと広い範囲に手が伸びているのかもしれない。
そんな思考すら、まだまだ甘かった。
校庭へ向かうと、既に体力測定が始まっていた。教師は相変わらず俺の存在に気付いているのか〝気付かぬよう振る舞っている〟のか声をかけても反応はなかった。腕を引いたりつねったり痛覚や触覚に訴えるか迷ったものの、これ以上事態を重くするべきではないと考えて却下。だが俺がどう選択しようが最悪の状況は避けられなかった。
二時間目が終わりに向かい始めた頃、けたたましいサイレンの音が響いた。
終始誰にも知覚されないまま、ぞろぞろと教室へ戻る生徒の最後尾についていくと校内は騒然となっていた。
数人の警察が廊下に面する教室の戸の前に立っている。
「戸締りはきちんとしろと、あれほど言っているじゃないか!」
「ご、ごめんなさい……確かに、閉めたはずなんですけど」
「ならどうして戸が開いてるんだ! 財布を盗まれた生徒もいるんだぞっ」
「わ、わからないです」
怒鳴り声に気圧され、萎縮する生徒から視線を外して俺は和久の姿を探す。
取り巻きと一緒に不安そうな表情を浮かべて警察の動向を見ていた。
演じている。直感的に思ったが証拠は何もない。
一瞬だけ目が合ったが、すぐに逸らされてしまった。
奴も立場上、警察組織と深く関与することは避けたいはずだ。
「それでは、もう一度説明をお願いします」
若い警察官が真剣な目つきでジャージ姿の体育教師を問いただしている。
体育教師に軽く背中を押され、施錠したと証言した生徒が口を開く。
「僕の担当だったので、皆が出たのを確認して、戸を閉めて鍵をかけました」
「そのはずが何故か鍵を開ける前に教室が開放されていていた、と」
「…………はい」
生徒が力なく項垂れる。教師に怒られ、警察からの質問攻めに遭い疲れている様相だった。罪悪感が棘となり胸の内側で痛みを生み出す。俺が内側から戸を開け、放置したために招いた惨状だ。
だが他に方法はなかった。あのまま存在を無視されたままでは困るし、何より不快だった。音声や映像記録があれば警察を動かすことができるはず……。
――ここでは、けいさつを信じてはいけない。
家族を失った……否、奪われた堀川と殴り書かれたメモを思い出す。火の不始末による火災事故として片付けられたあの件も立証さえできれば罪に問えるはずだ。
いかに和久と、その母親であり権力者と思しき久音が圧力をかけたとして、法の下に取り締まる警察が確固たる証拠を前に動かないはずがない。
動く。警察官と、聴取を受けている生徒の間に割って入る。
若い警察官にとっては聞き取りを行い、書類に記載している間に現れた闖入者だ。俺の目と警察官の目が合う。
見覚えのある顔だ。同じように思ったらしい。
一瞬だけ目を丸くしながらも、すぐに真剣な表情を顔に浮かべる。
「見たところ、無理矢理にこじ開けたような形跡はないようですが、」「違います。俺が、内側から開けたからです。責任があるとすれば、俺にあるはずです」
会話に割り込む。が、警察官の表情に変化はない。
「合鍵はあるのでしょうか」
「合鍵、というよりマスターキーがあるにはあるのですが、保管場所に
あることを複数の先生が確認しています。盗まれたこともありません」
「では、やはり閉め忘れということに……」
「そんな! 確かに、がちゃがちゃって確認して――」
俺が間に割り込んでいるのにも関わらず、教師も生徒も普通に警察官と会話を交わしている。彼らは徹底的に俺を無視するという、和久の方針なのだろう。だが、何故警察官までそんな見え透いた芝居に付き合っているのだろう。
もう一度、俺は震える精神を叩きながら声を張り上げる。
「違います! 俺の責任ですっ」
「ふむ……痕跡を残さずにやり遂げた、余程の手練れか。
それとも、残念ながら生徒さんが嘘を吐いているのか」
「そんな、ちゃんと……そうだ、一緒にいた立花くんが――」
会話が続く。俺だけが取り除かれて犯人捜しが続く。
何故だ。百歩譲って、この警察官が久音を恐れて萎縮していたとして今またありもしない事件を作り出そうとしているのか。実際に起きている事案を無視して。
「なんだよ、僕に責任があるっていうのかよ」
「違うよ! 証言してくれればそれでいいんだよっ」
「関係ないだろ。一緒にいただけだし」
「確かに見たよな、きちんと鍵かかったのをさ」
「見たような、見なかったような……」
「なんだよそれっ!」
生徒と立花くんとやらの間で見た、見ていないの論争になりつつある。
幼稚な言い争いが繰り広げられている中で、次の授業時間が近付いていることを知らせる予鈴が校内に鳴り響いた。
結局、うやむやのまま一日が終わった。事件に関しては、後で盗まれたとされた財布が見つかったことで狂言だとみなされ、警察からの厳重注意がなされた。
何のために、ここまでするのか俺には理解できなかった。
何故そこまで和久が俺という存在を憎んでいるのか。考えても考えても答えの糸口すら見つからない。ただ目障りだというだけで行うには規模が大きすぎる。
最初から常倉一家そのものが理解の範疇を超えていたのかもしれない。
違う。理解することを拒んでしまえば、放置しているのと同じだ。
あの警察官の行動も和久のいる学校だったからかもしれない。
考えはまとまらない。考えれば考えるほど混乱するだけ。
思考機関を回しながら自宅を目指す。
シャッターの降りた店舗であった建物が立ち並ぶ元・商店街を歩く。
販売者のいない魚屋、無言でこちらを睨み続ける八百屋。生気は感じられず、それどころか腐敗臭すら漂ってきそうな気配だった。肌が気持ち悪さを感じている。
唯一利用している量販店へと入る。何をするにも食事をしなければ始まらない。父親が長期不在である以上、自分のことは自分でしなければならないのだから。
買い物客とすれ違い、時折また存在を認知していないかのように足を踏まれる。学校関係者かと思ったが、全く知らない壮年の女性だった。
ふらつきバランスを崩しかけたところでカートを押してきた老人にぶつかりかける。慌てて回避したせいで卵置き場に突っ込んでしまった。盛大に棚を崩し、卵を尻に敷く。尻を濡らすのと不運ばかりが降り積もる不快と憤怒の二重奏が脳内で流れる。
モノに当たっても仕方がない。立ち上がり居住まいを正す。
店の人間に怒られると覚悟してたのだが、何もない。
「なんだなんだ、老朽化かぁ?」
不満げに漏らしながら店員が片付けを始める。俺の目の前で床に広がる黄身と白身をふき取り、殻の残骸を片付けていく。何だ、この状況は。
「っと、お待ちのお客様。申し訳ありません。すぐに替えを……」
手早く店員達が動いて潰れた卵を廃棄籠に移し、新しい卵を載せた棚を運ぶ。
誰も俺に責を問おうとはしない。
「あの……ごめんなさい」
頭を下げる。あげると、もう店員は別の仕事に取りかかっていた。
待機していた老人が卵を取り、カートに入れる。下ろした手が俺の頬をかすっていった。気にも留めずに老人はレジへと向かう。だから、何だと言うのだ。
体が重い。少しずつ肩に錘を置かれているような感覚。心の隙間を埋めるように、絶え間なく降り積もった罪悪感が精神の部屋を圧迫してく。
自覚していようといまいと、俺の引き起こした事象が無視されていく。
解決されぬ疑問が、僅かな隙間すら汚泥のように染み込んで埋めていく。
ああ、どうして俺はこんな状況に置かれているのだったか。
「とりあえず、会計通さないと……」
ほぼ反射的に必要なものを集めてレジへと向かう。
俺が並ぼうとすると青年が割り込んできた。仕方なくその後ろへ並ぼうとするが、子供が間に入ってきた。親であろう赤子を背負った女性が後に続く。そうして、何故か次から次へと割り込みにあって長蛇の列の最後尾に並ばされた。
ようやく俺の順番がきて、レジの台に買い物籠を載せる。
「はい、次の方どうぞー」
「あの、レジ通してもらえますか」
「どうぞー」
「あの……」
壮年の女性が声を張り上げる。俺が視界に入っている様子はないし、後に続く客もまた同じだった。俺の買い物籠を押し退けて、自分の籠を置く。
「いらっしゃいませー」
間延びした声でレジ係が商品を読み取り機に通し始める。
この場でも、俺の存在はどこまでも透明でもあり続けた。
小さく唇を噛む。買い物籠をそのまま放置して、足は店の外へ向かう。
少しずつ、だが確かに精神汚染は進んで澱みを生んでいた。
俺はこの世界に存在しているのだろうか。本当は、既に死んでしまっているのではないか。使命感だけで現世にへばりついた地縛霊のような存在ではないのか。
ふらふらと、頼りない足取りで進む。
そう認識している自分自身が可笑しい。
そのまま大通りへと出た。ほぼ無意識で信号を確かめ、青であることを確認してから横断歩道を渡る。ゆるりと車が曲がってきた。道路を渡る人間がいるというのに、まるでそこに何もないかのように突っ込んできた。
跳躍し、勢いのまま転がって対岸の歩道と車道を区切る敷石で背中を強打する。
痛かった。痛覚だけは確かに俺自身に存在を認識させてくれた。
違う。その感覚すらまやかしかもしれない。
ゆっくりと体を起こす。ああ、あのまま轢かれていた方が幸せだったのではないだろうか。俺は、何のために存在していたのだろうか。何故ここにいるのか。何をするのか。
分からない。何もかもが理解不能だった。
「どうしたの?」
声。か細く、小さすぎて空耳かと思ってしまうほどの。
いや、幻聴なのだろう。とうとう、そこまで狂ってしまったのか。
「くふっ……あはっ、あははははははははははっ!」
哄笑する。狂人のように、壊れた機械のごとく自らを呪い嘲笑う。
熱。遅れて痛みが神経を響かせ、脳に叩きつけられた。
顔をあげる。歩道の隅で座り込む俺の前に少女が立っていた。
黒く長い髪、吸い込まれそうなほど深い色合いを見せる黒瞳。肌は病的なまでに、という形容を通り越して死人のように青白い。幽霊か。幻影の類か。
青のワンピースから続く足は、きちんと存在している。また頬に鈍痛と熱さ。ようやく叩かれたのだと気付く。引きつった顔で、少女が俺を殴ったであろう右手を抑えていた。
「うるさい。それと……どこ見てるのよ、変態っ!」
憤慨する蒼の少女を前に、俺はただただ放心していた。
それが〝彼女〟と出会った瞬間であった。




