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灰色の境界  作者: 宵時
第四章「……ええ。時を経て、俺は殺人者になった」 「〝英雄(ヒーロー)〟とは言わないのだな」
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4-22 精神を切り刻むもの

 翌朝、重々しい音が耳を叩く。おぼろげな視界で手近にあるはずの時計を引き寄せると、針は明け方の四時半を指していた。小さく頭を振る。

 起き上がり、立ち上がろうとしてふらつく。尻もちをついた。

 気持ち悪い感覚が蘇る。嫌悪感が湧き上がる。自然と舌打ちをしていた。

 唇を()む。単純な情動で行動してはいけない。下唇を噛んで堪える。

 何に耐えているのか分からない。

 頭は重く、いくつもの事柄が頭を巡っていて一つのことに集中できない。

 眠たかった。報道の映像と堀川のことが頭から離れず、まともに睡眠を取れなかったせいだろうし、話したい対象である父親とすれ違っているのも苛立ちを募らせていた。

 重力に縛られるかのように朦朧(もうろう)とする思考の闇を振り払うように、首を動かし頭を振る。今度は振りすぎて吐き気を催してきた。

 耐えれず立ち上がり、走る。

 足をもつれさせながらも、奇跡的に転ぶことなく立ち直って廊下を抜けて洗面台に辿り着き大きく口を開ける。

 吐く。散らす。鼻の粘膜を突き刺す臭い。両目が捉えるのは己の吐瀉(としゃ)物。ほとんど食事が喉を通らなかったのが幸いしたか、黄色の胃液だけが広がっていた。水を流す。

 流水によってかき混ぜられ、胃液が排水溝に吸い込まれていく。

 それがきっかけとなったか再びの嘔吐感。抗わずに吐き出す。

 何度も、幾度も、繰り返し同じように体を追って黄色の液体だけを白い洗面台にぶちまけていく。胃液を吐き切ってしまったら胃は空になるのだろうか。空になったらどうやって消化を行うとか。どうでもいい事柄が思考を濁す。

 ようやく吐き気は収まった。肩で息をし、浅く短く呼吸を繰り返す。

 自らが吐き出して空気中に撒き散らす異臭が不快だった。

 パジャマの裾で口元を拭う。

 立ち上がり、手を洗ってバスタオルで拭く。ふらつきながらも柱や壁を支えに居間へと歩いていく。机の上に紙とペンが乗っかっていた。

 父親の字で走り書き。しばらく自宅には戻らないらしい。何かあれば携帯に電話するように、と書いていた。が、恐らくかけたところで反応はないだろう。

 これまでもそうだった。

 父親も母親も忙しく、忙しすぎて俺のことなど二の次であった。

 参観日に親が来たことなどないし、運動会にも当然のように姿を現さない。家にすら滅多に姿を残していないのだから、それ以外の場所で姿を見せる道理もなかった。俺自身も己を磨くためにその他は余計なことだと認識していた。

 いや、そう思い込むしかなかったのだ。願っても祈っても、それらが届くことはない。子供らしい幻想は最初から存在すらしていなかった。

 サンタクロースも、特撮ヒーローもなかった。

 きっと父親は現実だけしか見えていないのだろう。自分が立ち向かい、同僚と共に追いかける犯人を、引き起こされる罪を滅することしか頭にない。

 母親も同じだ。罪を犯した者を裁き、然るべき罰を与える。

 それは正しいことだ。絶対的に正しく、間違ってなどいない。

 たとえ一人の少年に冷たさを強いることになっていても、仕方ない。

 仕方ないと自らに言い聞かせ、仕方なくないようになるように自らを研ぎ澄ますことしかできなかった。今は、どうなのだろうか。

 ああ、頭が重い。いや痛いのだ。頭蓋骨を無視して、中身だけ掴まれゆるゆると握り潰されているかのような圧迫感に(さいな)まれる。

 痛みが強くて再び眠る気にはなれなかった。

 見る気もないのに手は流れるようにリモコンを掴む。テレビの電源を入れる

 朝の報道番組が流れる。俺の目は画面を見てはいないし、耳は音を拾っていない。どこか遠くを見ていた。俺は、何故ここにいるのだろう。

 鈍痛。頭の中で太鼓のような音が断続して鳴り響いている。

 疲労と寝不足と精神的な(きし)みが魂を汚染していた。

 それでも。痛みを我慢し、唇を噛み締めて立ち上がらなければならない。

 何のためにここにきたのか。父親ともっと近づいて、その存在に等しくなるためではなかったのか。和久の、常倉の悪事を世界に晒すためではなかったのか。

 意識がはっきりとしてきた。自分自身を縛り付ける鎖を引き千切る。

 報道はあくまで情報を得るための一つの選択肢でしかない。流されるものをそのまま受け入れるのであれば凡百の一般人と何も変わらない。

 犠牲を受け入れて、不満を飲み込んでこれまでを生きてきたのだ。

 今更逃げ出しては、振り返ってしまっては過去を全て無意味にしてしまう。

 違う。自分に関わり失われたもの、取りこぼしてしまった存在が無駄であると断定したくないだけだ。自己防衛の一種だ。

 頭を振る。ネガティブな思考を振り払う。

 テレビが丁度五時を知らせていた。まだまだ出かけるには早い。

 今日もまた学校へ向かおう。現実と向き合おう。たとえ、そこにあるはずのものがなかったとしても。尊いものを消費してしまったとしても。

 嫌な予感を抱えながらも、俺は無理矢理に仮眠を取りに自室へと戻った。




 身支度を整え、家を出て施錠する。道行く人に挨拶をし、(ある)いは挨拶を返しながら朗らかな笑顔を貼り付けて学校へと向かう。

 一歩ずつ進む歩道や、道路は修復されず舗装する業者の車も見えない。

 道と違って建物にはそれほど被害がないのは耐震基準を守っていたからで、道を補修しないのは後回しにしても問題がないからだろう。

 俺はそれ以上の事柄が絡んでいると考えていた。

 遠く銃声が響く。怒号が鳴り渡る。昨日と同じような状況だった。

 警鈴を鳴らして背後から自転車が俺を追い抜いていく。地域を巡回する警察官は何事も起きずに平和だと、鼻歌混じりに自転車を()いでいた。

 呼び止めるようなことはしない。多分、無駄なのだろう。きっと徒労に終わる。

 気持ちは変わらない。落胆はしたが、そんな人間ばかりではないはず。

 父親のように自発的に動き、見えないものを炙り出し事件を解決しようと動く者がいる。堀川のように陰ながら応援してくれる者もいる。だから、頑張れる。

 しばらく歩いて学校に着いた。昨日のこともあるので、様々な準備はしてある。

 靴を脱ぎ、上履きに履き替えようと割り当てられた靴箱に手を伸ばす。内部に気配。視線を上にあげると当然のように天井に設置された監視カメラが無機質な目で俺を含む世界を見ていた。

 小さく息を吐く。鞄から革製の手袋を取り出し、両手に装着。ゆっくりと靴箱の扉を開く。甲高い鳴き声を響かせながら数匹の黒い(ねずみ)が飛び出した。飛びかかってきた一匹を手で払って落とす。小さな悲鳴をあげながらも、どこかへと走り去っていく汚れた害獣。

 靴を取り出そうとして、諦めた。差し込む電灯でてらてら光っている。上履きの中で体をくねらせているのは、どちらが頭で尻か分からぬ風貌の紐のような生物。ミミズだった。何匹も何匹も絡み合って球体のようになっている。

 靴の内部をミミズが占拠している一方で外にはミミズと同じく紐状の生物が(うごめ)いていた。頭部には細く長い触覚に小さな(あご)をかちかちと噛み合わせて空気を()んでいる。続く肉体はいくつものパーツを組み合わせたように節で連なり、左右に一本ずつきっちりと脚がついてる。甲羅のようで鱗のようでもある甲殻が黒く光っていた。本当に百本あるのかどうか数える気にもならない。何匹もの百足がいた。

 上履きを取ることは諦める。予測していたことなので、荷物から予備を取り出して履く。ここまで履いてきた靴は上履きを入れていた袋に仕舞う。

 周りの生徒が奇異の眼差しを向けてきている。それが荷物の多すぎることへの不自然さか、それとも和久による指示なのかは分からない。

 分からないが、監視装置がある以上は恐らく前者なのだと判断する。

 声には出さないが逸話は行き届いているようで、誰も彼も視線は向けるが言葉を発することはなく逸らしていく。彼らの日常へと戻る。

 それでいいのだ。今は余計なことに頭を使いたくはなかった。

 教室へ向かう。辿り着き、僅かに隙間の空いた扉に手をかけて上から落下してきた黒板消しを受け止める。

 肌に違和感。見ると、べったりとジャムが塗られていた。

 含み笑いが聞こえる。視線を向けることはない。素知らぬ顔で、俺は教室の隅にあるゴミ箱へ黒板消しを投擲、すっぽりと収まり鉄の音色を奏でる。

 どうでもいい。

「おー、ナイスシュート!」

「中々いい反応だったよな」

「でもなぁ、ちょっとつまらないよな」

 和久の取り巻きが小さい声で話し合っているが、俺の耳には届いていた。

 聞こえないふりを続けて、自らの席に向かう。机の一つを凝視してしまう。

「やあやあ来々(くるるぎ)くん、元気かい?」

 楽しげな声で和久が話しかけてくる。どんな表情をしているかは見ていないから分からない。恐らくは(たの)しげに歪めているのだろう。

 俺が見つめる机は堀川の席。花瓶が置かれていた。死者を(いた)むために捧げられる献花は椿。俗に〝首が落ちる〟と言われ演技の悪い花だ。

「知ってるかい? 堀川くんの家が燃えたらしい。いやぁ、大変だねぇ」

 何を暗示しているのか、問うまでもなく和久の言葉に表れていた。

 嘘を吐け、と心の中で吐き捨てる。声は楽しそうだった。到底故人を(しの)んでいるとは思えない。堀川当人が死んでいるわけではない、だろうが。

 小さく笑う声が聞こえる。何人分も重なって連声に響く。うるさい。

 俺は和久を睨む。

「おぉ怖い怖い。どうしたんだい? 堀川くんと君は昨日会ったばかりだろう?」

「…………彼が、何をしたっていうんだ」

「何の話かよくわからないなぁ」

 白々しい。言葉なく睨み続け、和久は涼しい顔で見つめ返している。

 予鈴が鳴り響く。クラスメイトが自分の席へ戻っていく。

 座する和久を前に俺だけが教室内で立っていた。

「あの、来々木くん……だったか。もう予鈴が鳴っているんだが」

 いつの間にか教師が立っていた。困惑の混じった愛想笑いを浮かべている。

 和久に対するご機嫌取りなのだろう。顔から思考が透けて見える。

「すみません」

 一言だけ告げて、自らの席へ向かう。座るべき椅子を確認、何もない。着席。

 下腹部から異臭。俺の体に何かが付着しているわけではない。

 椅子を引いて机の中を覗いてみる。よくは分からないが、泥が詰め込まれているようだった。何が混ざっているのか確認したくもない。教科書やノート、筆記用具を収納する機能は失われていると考えた方がいい。

 不快さを表に出さぬよう堪えて前を向く。本鈴が鳴り渡った。

「日直」

「起立」

 号令に従って全員が席を立ち、続く「礼」の声で頭を下げ一礼し、顔をあげる。

 ただ一人を除いて全員が同じ動作の後に着席。

 和久は座ったまま嘲笑(わら)っている。

「ホームルームの前に、大変残念なお知らせがあります――」

 教師が淡々と堀川家の訃報を告げる。報道で聞いた内容と同じだった。

 クラスメイトが驚いたり喚いたり泣いたりしている。演技かどうか判断する気もない。和久の表情は変わらない。俺にしても悲しげな表情を浮かべるので精いっぱいだった。腹の底から湧き上がる憤怒を押さえつけることで必死だった。

「駒の分際で、俺の遊びにちょっかいをかけるから、そうなる」

 ぽつりと和久が漏らすのを聞き逃すはずもない。もう分かってたことだ。

 予感はしていたが信じたくなかった。嘘であって欲しかった。

 この地域を守はずの警察機関は、動かない。それほどまでに大きな存在が常倉一家なのだろう。俺は懐に忍ばせた録音機のスイッチを押した。

 久音との邂逅、気弱な警察官の態度で役に立たないことは分かっている。

 分かっているが組織としては、この日本であるべき立場として大きな権力を振るえる位置にいる。彼らが怯えて何もできないのであれば代わりに俺が証拠を突き出せばいい。

 そのために、まず思いついたのは録音だった。

「困るんだよなぁ。もっとゆっくり、じっくり愉しまないと。前の玩具みたいに、すぐ壊れちまっても困るし、逃げ出されても困る。たぁっぷり、やり込まねぇと」

 教師の話に混じって吐き出される毒は、まるで俺にだけ届くように仕向けられているかのように思えた。録音機が拾えているかどうかは怪しいが、後で確認すればいいだけ。

 もっとも、この後に和久がどんな妨害を仕掛けてくるかによるが。

「何事も身をもって経験しないとな。壊す加減も覚えねぇといけないなあ」

 何度も何度も繰り返してきたかの物言いだ。言葉通り散々繰り返してきたのだろう。その結果、多くのクラスメイトは従順な羊となった。

 狼に睨まれても泣き喚くことがなければ即座に食われることはない。

 俺から言わせればいつでも首を掻っ切られる、断頭台の先で両手両足を縛られているのと変わりない。

 抗わないのであれば、ただ存在しているだけでいいなら誰にだってできる。

 俺は抗わなければならない。

 何故? どうして? 疑問符が頭に浮かぶ。切り捨てる。

 問うまでもない。警察官として、この地に降り立った父親に対して俺は出来うる限りの補助をするのだ。たとえ、俺にどんな災厄が降りかかるのだとしても。耐えなければ、絶えず暴かねば正しくあれない。辿り着けない。

 決意を新たにする。もう既に戦いは始まっていた。




 が、そんな決心も空振りに終わってしまった。

 この日、新たに和久が何かを仕掛けてくることもなく一日が終わる。

 翌日も散発的な嫌がらせは続いた。靴を隠す。授業に必要なものを隠す、或いは壊す。経費はかさんだが予備を用いることで乗り切った。

 異物の混入にも慣れ、涼しげに流すことができた。

 対策さえわかってしまえば恐れることはない。

 物損は代わりを用意すればいい。偶然を装った故意の物理的ダメージも立ち向かう精神があれば乗り越えることができる。

 クラスメイトの前で(はずかし)められても、堪える意志があれば問題はない。

 起こりうる全ての事象を録音機と、新たに備えた隠しカメラに記録し続けた。確認のために中身を確認することすら忘れて、ひたすら和久のやりたいようにさせていた。

 所詮は子供の考えること。同じ子供である俺にも思いつけないはずがなく、描く考えに到達できないはずがない。

 そう思っているのは敵側も同じだったようだ。




 学校に通い始めて一週間が過ぎた。父親は時々家に帰ってはいるようだが、すれ違ったままだ。一度たりとも俺の意志を伝えられていない。相談もできていない。

 それでも着々と記録は、犯罪の証拠は集まりつつある。

 和久の行為は悪戯にしても度が過ぎている。然るべき場所に出せば、ただでは済まないはず。ふと思う。どれくらい集めればいいのだろうか。

 過剰な対策を施し、学校へ向かう。道行く生徒に声をかける。

 反応はない。何人も同じように声をかけたが、一人たりとも返事がくることはなかった。

 不思議に思いながらも学校に到着する。靴箱を開ける前に気配を伺う。特に反応はない。中を確認する。鼠もミミズも百足もいなかった。

 先週残したままの上靴がある。

 拍子抜けしたものの、少しだけ安堵して靴を履きかえる。右の頬に鈍痛。近くの靴箱が開け放たれており、取り出された上靴が振り抜かれていた。最初、何が起きたかは分からなかったが尻もちをつき、痛みを感じてから理解が追いつく。

 俺に上靴をぶつけた生徒は何食わぬ顔で靴を履き替えている。砂が舞う。砂埃が口に入って咳き込む。何の反応も示さずに生徒が駆けていく。

「なん、だ……」

 何が起こっているのだ、と疑問がそのまま唇から言葉になって落ちる。

 立ち上がり、埃を払う。口の中で鉄の味が広がる。内側を切ったらしい。

 痛みが不快感を呼ぶ。突然舞い込んだ理不尽な攻撃が何故行われたのか、解析しようとして止めた。これも和久の策略かもしれない。

 考えれば考えるほど深い穴に落ちていく。変に囚われない方がいい。

 気を取り直して教室へ向かう。背後から走り寄ってくる足音。

「あがっ……」

 後頭部を打ち抜かれ、平衡感覚を失い倒れる。地面に伏せる寸前に見えた光景は、鞄を抱えて忙しげに走っていく生徒の後ろ姿であった。

 超反応で顎から落ちることだけは避けられたが、受け身は間に合わず左手を(ひね)ってしまった。目の前に星が飛び回る幻影。再び湧き上がる不快感。理不尽に対する怒り。

 いったい、何だと言うのだ。

「ぐえ」

 背中と左腕に鈍痛が走る。また意図せず言葉だけが反応を先取りしていた。

 肺が圧迫され酸素が逃げ出す。横に転がる。すぐ傍の床を足が踏みつけた。一瞬遅れていればさらに背中に打撃を受けていただろう。無慈悲な打ち下ろしだった。

 床に倒れた人間、という障害物など最初から存在しないかのように急ぎ足に教師が駆けていく。誰よりも規律を重んじるべき教師が、だ。

 別の怒りがのぼってくるが、押さえつける。喚いても意味はない。

 和久を愉しませるだけだ。

 やってやるか。思い通りに動いてやるか。俺は執着し、固執していた。

 立ち上がる。体のあちこちが痛いが、我慢して歩く。打撲はあるが擦過傷や骨折があるわけではない。経験上、放置していても自然治癒能力で十分治る負傷だ。

 教室に辿り着いた。既に他のクラスメイトは全員着席している。

 転校した堀川の机が未だに残っていた。

 机の上には変わらず椿を生けた花瓶が置かれている。

 教壇から向かって一番右の列の最後尾。俺の席へと向かって歩いていき、そしてあるべき場所に机はなかった。当然、椅子もない。

 本鈴が鳴る。目の前の状況が理解できない。

「よし、ホームルームを始めるぞ」

 振り返る。教師が来ていた。号令がかかり、クラスメイト達が一斉に席を立つ。足を払われ転ぶ。俺の前の席に座るクラスメイトが無造作に引いた椅子に跳ね飛ばされた形だった。俺を転ばせた当人は全く気にすることなく、前を向いたまま。

 着席の声が響き、揃ってクラスメイト達は自らの席に腰を下ろす。

 俺は床に座っていた。明らかに異常な状況なのに、教師は何事もなく避難訓練の説明をしている。

「あの…………」

「訓練は訓練だが、真面目にやらないといざという時に大変ですからね」

「あの、先生っ!」

「いつ何時また巨大地震が起きるとも分かりません。くれぐれも――」

 教師の声が少し大きくなった気がする。俺の声を()き消すかのように、張り上げた声で説明を続けていた。他に教室で響く音はない。

 床に尻を置いたまま俺は和久を捉える。こちらを見て嘲笑しているだろう憎たらしい笑顔は、浮かんでおらず生真面目に教師の方を向いていた。

 さらに視線を動かす。誰もが当然のように前を向いている。

 当たり前の風景だ。教師が話している時はきちんと前を向いて聞く。

 生徒としてあるべき正しい態度であり、何も間違ってはいない。

 俺だけが、正しく回る世界に置き去りにされていた。

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