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灰色の境界  作者: 宵時
第四章「……ええ。時を経て、俺は殺人者になった」 「〝英雄(ヒーロー)〟とは言わないのだな」
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4-21 カラーレス

 廊下を駆け抜け、上靴のまま校門へ繋がる廊下を駆け抜けていく。背後では始業の鐘が鳴り響いているが無視。呼び止める教師の姿も声もない。

 大きく黒い校門から飛び出した後もなお全速力で走り続ける。

 目的地は決まっている。世界の平和を守り、守っているはずの正義に殉ずる者達が詰める場所を目指す。先に来た時に近辺の地図は頭に入れていた。

 学校は住宅街の近くに位置し、俺と父親の住むアパートも徒歩五分圏内にあった。歩道も道路も震災による爪痕が色濃く残り、ブルーシートや緩衝材で一応の応急処置がされている。

 そうした急ごしらえの処置は立ち並ぶ家々の各所で見られる。金銭面で修復できないのか、そもそも修繕する業者がいないのか情報のない俺に分かるはずもない。

 しばらく進むと、まるで別世界に迷い込んだように景色が変わった。

 傷一つない一戸建てが整然とそびえたつ。門構えも立派で何件かは玄関口に濃く黒い毛並を見せつける番犬を飼っていた。

 俺が傍を通るのを見てけたたましく吠えたてる。

 音に襲われる。意識から飛ばし、走ることだけに神経を注ぎ込む。

 連声に響く獣の咆哮は肌を突き刺し、引き裂いていくが堪える。

 幼少期から発揮している鋭敏な五感は諸刃の剣であった。

 かつての場所では主に厄介事を回避するための手段として活用し、必要なだけの関係を構築し必要以上に踏み込まれる前に身を引くのに役立っていた。

 危険な香りや心の機微を読み取る力は、裏を返せば強い臭気を放つものが常人以上に各種感覚器官を通して心身にダメージを与える。

 それもコントロールしきれていない。尻で弾けた汚泥も意識していれば回避できたはずだった。だが、現実には回避できていない。

 教壇に立った時から異変には気付いていたはずなのに、自身に被害が及ぶ速さを読み違えていた。

 違う。読んではいたが、どこかで感覚が伝える情報を信じたくなかった。

 平然と悪意を振りまく存在を認識したくなかったのかもしれない。悪は駆逐されるべきであって、野放しになっている状況などあってはならない。

 ましてや、正義を執行するための機関を信用してはならない、などと伝えられても困惑するだけだ。

 有り得ない。父親のように、平和のため法の世界を守るために正義は正義であり続けなければならない。体現すべき存在であるからこそ、父親は自らの使命を果たすためにわざわざ居を移してまで行動している。

 俺はそんな存在になりたい。正義を体現するモノになるべきだ。

 メモ帳に書かれたクラスメイト、堀川の言葉は俺自身が心の中で作り上げた像を揺るがすものだ。ない。有り得ない。それを証明するため、信じたモノを貫くために俺は走っている。

「おやおや、どうしたのかな。そんな恰好で」

 呼び止められ、反射的に足が止まる。肩で息をしながら、声をかけてきた人物へ視線を向ける。人物よりも先に、屹立(きつりつ)した建造物が視界に広がった。

 白を基調として悠然と金色の旭日章を構える正義の砦、警察署だった。優しく肩に手を添えてくれたのは若い警察官。心配の言葉とは裏腹に警察官は柔和な笑顔を浮かべている。

「はっ…………はっ、はっ、はっ……あの、そのっ!」

「まずは落ち着こうか。さ、呼吸を整えて」

「はっ、はっ、はっ、はっ……」

 言われるがままに浅く早く呼吸を繰り返し、(たかぶ)った気持ちを静めようとする。が、確かめるべき対象がすぐそばにいるのだ。(たぎ)らないはずがない。

 心臓が早鐘を打つ。吐き出すべき言葉を選ぶべく思考回転する頭は重く、熱い。

「参ったな。今日マラソン大会なんて告知あったかなぁ」

「ち、が……」

 否定の言葉はより大きな音、銃声にかき消された。運動会などで使われるスターター・ピストルに似た長く尾を引く音。続けて短く二発分が響く。

 さらに遠く怒号が連なる。

 遠い、が声と声がぶつかり金属音が鳴り響く。戦の音色が鼓膜を震わせる。

 自然と音のする方へ視線が動いていた。追うように警察官も首を動かす。

 が、何事もなかったかのように戻して両手を俺の肩に乗せてきた。

 聞く必要はない、と暗に押さえつけけるような圧迫感を覚える。

 警察署表にある駐車スペースで待機している車両は少ない。相変わらず人通りはないが、接する道路には車が走っている。一般車両に道を譲らせ、赤色を基調とした消防車と、白の救急車両がけたたましくサイレンを鳴らして走っていく。

 明らかに何かが起きている。が、警察が動く様子はない。

 俺は自らを拘束する警察官を見上げる。

「あの、事件……が」

「サボリかな。いけないなぁ、小さい時から癖つくと色々まずいよー」

「そう、ではなくて救急車や消防車が――」

「ふむ。特に怪我はないようだし、早く学校に戻った方がいいよ。どうせ

サボるなら仮病使って保健室でグッスリ休んでいる方がいいよ。あはははっ」

 何がおかしいのか分からない。おかしいのは目の前の警察官だ。

 目が見えないはずがない。耳が聞こえないはずがない。

 通り過ぎた緊急車両を認識できず、状況を理解できないはずがない。

 何故、どうして。次々と浮かぶ疑問符が脳を埋め尽くしていく。

 意味が分からない。訳が分からない。

 この世界は厳然と守るべき法律によって成立し、警察官は法律に則って逸脱する者を捕縛しなければならないはずだ。

 事件が起きているのであれば動かなければならないはずだ。

「怖い顔してどうしたんだい? おなか痛いのかい。

でもここは病院じゃないからねぇ。弱ったなー」

 状況と全く噛み合っていない言葉を吐く警察官の思考が理解できない。

 警察署内部からも人が出てくる様子は全くなかった。

 俺は脳から溢れる疑問をそのまま垂れ流す。

「どうして、現場に向かわないのですか」

「うん? 何のことかな。今日も至って平和だと思うけれど」

「だ、だって救急車が、」

「あらあら、小学生がこんな時間にこんな場所でどうしたのでしょ」

 また発言を遮られてしまった。落ち着いた女の声。柑橘(かんきつ)系の香水が鼻先を(かす)める。匂いは体臭やフェロモンを撒き散らすというより俺の不快感と不信感を増幅させた。

 声の方を見る。妙齢の女性が立っていた。薔薇を象った豪奢(ごうしゃ)な着物、漆黒の長髪を薔薇を模した(かんざし)で留めている。孔雀が描かれた扇子が口元から鼻筋までを隠しているため、表情は読めない。だが、闇よりもなお暗く輝く瞳が語っている。

 突き刺して来る視線で直感した。目の前の女は敵である、と。

「こ、これはこれは久音(ひさね)様……このような場所に、どうして」

「珍しいからねぇ。こんなところで、こんなモノが落ちてるなんて」

「も、申し訳ありません。ど、どうかご慈悲を」

「誤解を招く物言いはお止めなさいな。勘違いされても困ります」

 警察官が目に見えて慌てふためいている。学校で得た情報とすり合わせれば、この女性が何者かはおおよそ想像できる。そして、堀川のメモ帳が示す意味も。

 警察署がハリボテに見えた。白い砦は闇に飲まれて取り込まれた後なのだ。

 この女が常倉 久音……恐らくは和久の母親だ。

 着物の女、久音が口元を隠したまま俺と向き合う。

「坊や、お名前は?」

「…………亮、です」

「そう。亮くん。真っ直ぐないい瞳をしているのねぇ」

 名前だけを告げた。目立った反応は見せず、久音は扇子で口元を隠したまま、くつくつと渇いた笑みを漏らす。警察官と同じで、何がおかしいのか分からない。

 感情が渦巻く。噴出しかけるも、自らの意志で押さえつける。

 ここで爆発したところで意味はない。俺には大人二人をどうにかできる力はないし、学校で起きたことを立証する物品も持っていない。

 警察官とのやり取りで分かった。何をどう喚いても無意味なのだ。

 肌を刺すような痛みが、ぶつけられる圧迫感が悪との対峙を魂に覚え込ませる。

 この警察署の人間が使えないから、俺の父親が踏み込んでいるのだ。連中を調べ、行っている悪事を暴いて世界に晒し、法による裁きを受けさせる。

 正攻法で挑まなければならない。力に頼り、外法に寄り添うのでは忌み嫌う悪と同じ場所へ堕ちてしまう。そんなことは望みたくもないし、父親も願っていない。

 今の俺にできることは、ひらすら従順であると偽ること。

 久音と俺は無言のまま睨み合っていた。間に取り残された警察官はどうするべきか思案しているのだろう、あたふたした雰囲気をまとっている。

 ばちんと勢いよく扇子が閉じられた。整った鼻筋と毒々しい青紫のルージュで(いろど)られた唇が(あら)わになる。素直に趣味が悪いな、と俺は思った。

「ともかく、子供は勉学に励みなさい。それがあるべき立場です」

「……分かりました」

「よろしい。公のしもべたる貴方も、お疲れ様」

「そ、そんなっ! きょ、恐縮でありますっ」

 若い警察官が背筋を伸ばして最敬礼する。俺は小さく息を吐いた。

 底が知れない。ずっと視線を合わせていると心まで押し潰されそうだった。

 手も口も出さなかった俺の判断は正しい、と思う。

「亮くん。くれぐれも、お気をつけて」

「……はい。有難う御座います」

 物憂げな表情で言葉を落とすと久音はアスファルトに下駄を鳴らして去って行った。警察官が慌てて俺の頭を掴んで頭を下げさせてくる。

 抗わずに、そのまま(こうべ)を垂れた。

 敵の全貌は見えない。だからこそ今は耐えて情報を集めることに集中しなければならない。抗うのは全ての証拠を揃えてからだ。

 正しく物事を積み上げれば、きっと与えられるべき罰が下る。

 そう信じていたし、一片たりとも疑うことはなかった。

 警察に対する落胆はあったが、まだ絶望には至っていない。

 父親がいるし、何より全ての警察官がこんなものではないはずだ。

 そんな純朴な祈りもまた、幻想(ユメ)でしかなかった。




 学校に戻った俺は一旦自宅に戻って取ってきた予備の制服に着替え、何食わぬ顔で残りの授業を受けた。汚泥の爆弾以外は目立った変化はなく、一日が終わった。

 疲れを覚えながら自宅の扉を開ける。父親がいるかも、という淡い期待は返事のない空っぽの部屋に打ち砕かれてしまった。

 疲労していても、手は自然とテレビをつけ報道番組にチャンネルを合わせる。

 テレビという家族が語りかけてくる。

『――市の住宅から発生した火災は先程鎮火し、焼け跡から

三人の遺体が見つかりました。亡くなったのは自宅にいた

堀川さんの妻と幼い子供とみられ、身元の確認を急いでいます』

 思わず画面を凝視する。

 ハザードキネマを見ているような紅蓮地獄が広がっていた。

 一戸建ての家屋が激しい炎に包まれ、火の粉が散って爆ぜる。隣接する家屋にも延焼しており懸命な消火活動が行われているものの、激しい火勢に押し負けている状態で完全に鎮火するまで時間がかかりそうだ。

 流されていた映像から現場の映像へと切り替わる。

『こちらが現場です。火は消し止められましたが、建物の損傷が酷く――』

 映し出された空間に家はなく、焼け落ちた残骸があるだけだった。

 骨組だけが残り、見事に燃え落ちている。映像の端に泣き叫ぶ少年が映り込む。

 どこかで、見た気がした。

 そういえば、焼けた家の住人である被害者は何という名だったか。

「まさか、ね」

 希望を口にするも、体は重い。久音の言葉が脳裏に蘇る。

 あれが、そのままの意味だとしたら。

 俺の考えていることが全て現実で発生していたら。

「くそっ……」

 テレビを消して黙らせ、リモコンを乱暴に投げ捨てる。

 違う。違ってくれ、無事であってくれ。

 願うだけだった。祈るだけであった。

 堀川の顔を思い出す。報道が伝えた泣き顔が重なる。

 大きく頭を振る。脳を揺らし気分が悪くなるまで、それでも汚泥のようにへばりつく映像をかき消したかった。思い出して、汚れた衣服を持って洗面所へ浮かぶ。

 全てを投げ捨てる勢いで俺は洗濯機に持ち帰った袋の中身を叩き込んだ。

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