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灰色の境界  作者: 宵時
第四章「……ええ。時を経て、俺は殺人者になった」 「〝英雄(ヒーロー)〟とは言わないのだな」
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4-20 正邪のひとひら

 結局、教師は何も言及することなく己の職務を終えて教室から去った。

 俺は濡れた尻の気持ち悪さに耐えつつも、表情には出さず教科書やノートを片付けて席を立つ。流石にこのまま授業を受け続けるわけにもいかないだろう。

 一歩足を前に出す。数名のクラスメイトが立ち上がった。立っただけでなく進路を妨害するように机と机の間に陣取り、円形に囲いを作り出していた。

 薄ら笑いを浮かべた和久が臣下に導かれる王のごとく、壁を割って入ってくる。

「おいおい来々(くるるぎ)くん、いきなりどうしたんだい?

休み時間は十分しかないんだぜ。トイレか何かかい?」

「……少し、気分が悪くて」

「おー、そりゃいけない。いけないよなぁ、お前ら」

 思ってもいないことを、とは口にしない。表情にも出してやらない。ただ眼だけは抑え切れず和久を睨みつけていた。視線に気付いているのだろう、笑みにさらに(あざけ)りの成分が足されていく。

 取り巻きの数人も気味の悪い笑みを浮かべていた。

 状況を、楽しんでいる。制止するどころか進んで悪に加担している。連中も立派な悪だ。それなら、まだ怯えて関係ないと突っぱねている方がいい。

 いや、どうなのだろう。それもまた逃避になるのか。触れなければ、近付かなければ被害に遭うことはない。だが、恐らく自らに回る番が後回しになるだけだ。

 推測通りならば俺が来る前に犠牲となっていた存在がいるはず。

 怒りの感情は消え失せた。違う、抑え込んだ。より強く発する使命感、正義に向かう冷たく固い意志がただ暴虐を振りまくだけの狂える炎を鎮めたのだ。

 ここで無為に怒り、暴れまわったところで何も解決しない。

 数では圧倒的不利で、いかに親から受け継いだ基礎力があるとはいえ過信するほど馬鹿ではないし、何より連中の思う壺だ。推測だけであって椅子への細工に教師ですら畏怖する威圧感や影に潜む脅迫も物的な証拠がなければ明るみに出せない。

 何より、最初に和久が口にした脅し文句に出た父親の姿。常倉一家がどれほどの権力を持っているのか分からない。まだまだ情報が少ないのだ。

「ふぅん。何か、考えてるようだけど。そっかそっか」

「いえ、できれば保健室にいきたい、と」

「そうだった、来々木くんは転入生だから知らなくても仕方ないよな。おい、誰か来々木くんを保健室に連れて行ってやれ。えーっと、保険係は誰だっけ?」

 声と共に和久が教室内を見回す。本来は、こういった事態への対応は教師が行うべきなのだが期待できそうにない。特に先程のあれはダメだ。

 目上の人を敬う、という当然と言われる事柄も時と場合による。傀儡(かいらい)と成り果てたモノを尊敬することなどできはしない。

 肌が痛い。教室という狭い世界が恐怖で縛られ委縮している。俺自身の体も圧搾され、潰れてしまいそうなほどの濃密な(おそ)れと(けが)れを感じ取っていた。周囲を見渡す。すっと男子生徒が真っ直ぐ手をあげた。

「ああ、堀川くんだったか。堀川くん、来々木くんを保健室まで頼むよ」

「わかりました。務めさせていただきます」

「うんうん。くれぐれも、よろしく頼むよ」

 礼儀正しく深々と頭を下げた堀川の動きに満足したように頷いて和久が手を振る。虫が散っていくように人の壁が道となって教室の外へと繋がった。

「さ、行こう。来々木くん」

「……はい」

 先を行く堀川が手を差し出してくる。数瞬だけ迷ったが、俺は素直に手を出した。心の中では何がきてもいいように覚悟しておく。

 何もなかった。握った堀川の手には汗が(にじ)んでいる。

 背中、恐らくは濡れた尻に浴びる視線を無視して歩いていく。気味が悪いほどに教室は静かだった。和久の追撃もなく、扉が閉められることもなく感覚だけが遠ざかっていく。

 廊下をゆっくりと歩いて進む。余り歩幅を大きくすると濡れた部分から染みが広がり、重力に引かれて落ちてきてしまう。それでも替えないわけにはいかない。仮に違う罠が仕掛けられていても同じものとは限らないし、何より肌に張りつく粘着質の感触にいつまで耐えられるか分からない。一つでも(わずら)わしさは除外したかった。

 教室だけでなく廊下も静かすぎる。

前の学校では休み時間が短かろうが授業の合間は常に賑やかだった。

 思い思いにグループを作って昨日見たテレビやら人気漫画やゲームの攻略についてなど、とりとめのない話を延々を繰り返していた。俺がその輪に入ることはなかったが、そんな喧騒が存在しない世界というのも異質なものを感じさせた。

 廊下を靴が叩く音だけが響く。俺と堀川の二人分だけ。教師の姿も見えない。

 まるで世界に二人だけ置き去りにされたかのようで、静寂が逆に耳に痛い。

 代わりに拾った音は機械の駆動音だった。歩きながら天井を見上げる。

 染み一つない白く綺麗な天井には一定の間隔をあけて半円のプラスチックに包まれた機械が設置されていた。施設に設置することが義務付けられている緊急時避難誘導装置の、赤く光を宿す部分に形は似ている。が、内部に細かな機器が見えた。

 人通りの多い場所には必ず設置されている、という監視装置だ。半円の球状で設置されているのは全方位をくまなく見渡すためと、容易に破壊されないため……と文献だか報道特集でやっていたように思う。

 静かな空間において機械の駆動音は耳障りだった。自分自身が見られている、監視されているという感覚を強める。が、それも和久による手管なのかもしれない、と考えて激情を抑え込む。爆発させるのは今ではない。

 先導されるまま、階段を下りて静かにすぎる廊下を歩いていく。

 奥まった空間で堀川が立ち止まった。鼻の粘膜を撫でる刺激臭は薬品のもの。視線をあげると何の部屋か示す白いプレートには簡素に黒い文字で保健室、とあった。堀川がノックもせず引き戸に手をかけて開く。

 より濃密な薬品臭が鼻先を(かす)める。

 目で促され、先に室内に入ると堀川は後ろ手で戸を閉めて鍵をかけた。戸の覗き窓を塞ぐようにかけられている札を裏返す。開放中の文字がこちら側を向く。

「あの……一体、どういう」

「さて、と来てみたものの先生はいないみたいだね」

「そう、みたいですね」

「そんなに他人行儀にしなくてもいいよ。気軽に話してくれた方が俺も楽だし」

 そう口にしながらも堀川は警戒するように周囲に視線を配っている。口元に人差し指を当てる仕草。余計なことは喋らず、合わせろということなのだろうか。

 何故、何のために、どういった目的で……数々の疑問符が頭の上に浮かぶ。

 問いたいことを素直に口にするべきなのか、それとも様子を見るべきなのか。

 俺が密室のより狭い脳内で考え迷っている間も堀川の目は何かを探していた。俺と同じくらいの小柄な体が動く。薬品を収めた棚を通り過ぎ、さらに奥の保健室という空間にしては異質な和箪笥(たんす)と向き合い一つずつ引き出しを開けては閉める。

 大人しく見守っていると堀川は脇に体操着と真っ白なブリーフ、シャツを抱えて戻ってきた。空いたベッドの上へ静かに置く。

「ひとまず、これ」

「……いいの、かい?」

「いいも悪いもあるものを、必要とする人間が使うのに問題でも?」

「ない、けれど」

 何を迷う必要があるのだろうか。罠だと疑っているのか。

 堀川はどちら側の人間なのだろう。和久に付き従う者か、それとも怯えて逃げるだけの傍観する者なのか。または共に嘲笑う悪なのか。

 首を振る。少なくとも、今この場では俺のために行動してくれている。

 一旦疑念を捨てる。何よりこのままでいることに耐えられそうになかった。

「ごめん。それと、有難う」

「いいって。後ろ向いてるから」

 軽く口にして堀川がまた何かを探しに動き始める。男同士恥じらうこともないが、下着姿を見せるのと全裸を見せるのは別だろう。

 恐る恐る汚れた衣服を脱ぎ始める。

 汚れたズボンを脱いだ後に、汚れたモノを拭うための何かが必要だと思い至る。が、下半身は既に素っ裸で汚泥は重力に従って足元の靴下まで侵蝕している状態で、まともに動けず動けば動いたで汚れが広がっていくだけ。

 つと飛んできた物体を受け取る。使い捨ての除菌布が入った箱だった。

「有難う」

 礼に対する返事はない。気にせず、自らの体を清潔にしていくことにだけ集中する。足元から上にいくように拭いていき、太ももの内側や骨のない未成熟な人体急所も裏側の皴や筋の部分まで綺麗にしていく。こうしてると、まるで漏らした後の片付けみたいだ。

 恥ずかしさまでも一緒に取り除くように清拭を続ける。

 刹那、聴覚が僅かな機械の駆動音を捉えた。嫌な汗が生み出され、法則に従って背中を流れ落ちる。ゆっくりと俺は視線をあげて天井を見た。

 視界に入ってきたのは廊下にいくつもあった半円のプラスチックに包まれた監視装置。廊下に設置されているだけでも数が多すぎると感じていたのに、ここまで徹底していると最早慎重を通り越して病的なまでの猜疑心(さいぎしん)に恐怖する。

 違う。何も装置は俯瞰できるものを監視するためにあるとは限らない。

 教室で和久が見せた絶対的な自信、追従するしかなかった者達。

 安易に責め立てられないかもしれない。

 堀川は、知っていて俺に監視装置の存在を教えなかったのか。

「終わったかい?」

「も、もう少し……」

「あまり時間がないから、手早くね」

「う、うん。ごめん」

 考えがまとまらず、ごちゃ混ぜになって言葉遣いに気を配る余裕もなくなっていた。消費を考えず除菌布で股の間や、各部に付着したモノを拭ってまとめてゴミ箱に投げ入れる。手近に見えた替えの袋と取り換えて、元々あったゴミは持ち帰ることにする。

 これらのやり取りも天井に備え付けられた目が全て収めているのだろう。

「来々木くん、終わったらちょっとこっちに来て」

 返事をする前にブリーフに足を通し、靴下を脱ぎ捨てて体操着を身にまとう。

 着替え終わって顔をあげると堀川が奥にある和箪笥の前で手招きをしていた。

 これ以上何をするというのか。何を仕掛けてくるというのか。何も伝えずに新たな罠にはめようというのか。信じていいのかどうか、判断できないでいる。

「時間がないんだって」

 急かされる。もう片足以上踏み込んでしまっているのだ。もうどうにでもなれ、と半ば自暴自棄な勢いで手招きする堀川の方へと歩いていく。

 警戒と覚悟はしていたが、特に何かが起きることはなかった。

 誘われるがまま、指で示された場所を見ると衣装が取り出された和箪笥の引き出しにメモ帳が置かれていた。既に文字が書かれている。

「一応ね、体操服を借りたことを報告しないといけないから――」

 堀川はそんな言葉を口にしているが、メモ帳に書かれているのは全く別の事柄だった。急いで走り書きされたせいで読み辛いが『てきとうに話を合わせてくれ』とある。

「う、うん。分かった。書類みたいなのがあるのかな?」

「探してたのがそれで、こっちに名前とクラスと」

 目の前で文字が付け足されていく。『もうきづいているだろうけど、この学校は常倉 和久……いや、ツネクラ一家にしきられているんだ。ぼくらはいつも見られている』

 ペンが転がされる。俺にも筆談で答えろ、ということなのだろう。

 信じていいのか。迷いがそのまま文字として刻まれた。

「えっと、こうでいいのかな」

「うん。職員室に提出する必要はないから、まぁ書置きみたいなものだよ」

 喋りながら堀川がペンを走らせる。『ハダカについては、ごめん。こうでもしないとあやしまれる。でも、キミならなんとかできるかも、っておもって』

 渡されたペンを受け取り、俺は小さく頷いて信じる意志を示した。

 残された時間は少ない。誤魔化す会話も限界があるだろう。

「わかった。机においておけばいいんだね?」

「うん。そろそろ時間だから……僕は戻るけど、どうする?」

 堀川が示した文字は『わかるかぎりのことを、かいておいたから』視線を落として意味を汲み取り、口にすべき言葉を選んで放つ。

「ごめん、少し休んでいくよ」

「うん、それがいいよ」

「有難う、堀川くん」

「お大事にね」

 言い残して、そそくさと堀川は戸を解錠し保健室から出て行ってしまった。

 俺は監視装置からの視線から隠れるよう、手のひらの内側に隠して箪笥からメモ帳を抜き出す。そのまま体操服のズボンポケットに移し、ベッドの近くまで戻る。

 自らの汚れた衣服を袋の中にまとめ、小さく息を吐く。

 僅かでも得られた手がかりは大事にしないといけない。かすかに燃え残った火種でも大事に守れば必ず正義をなすための狼煙(のろし)をあげることができる。

「とりあえず、横にならせてもらおう……」

 意識的に言葉にしておく。片付けた袋をベットの下に追いやり、素足のままで白いシーツの敷かれたベッドに潜り込む。幸いにもベッドの間を区切る仕切りのカーテンによって天井の監視装置からは死角になっている。

 少し考える。こんな分かり切った死角を放置しておくだろうか。

 念のために布団を首元まで引き寄せ、被ってからメモ帳を取り出す。暗いが、点灯したままの電気と暗順応してきたことで何とか読める視覚は確保できた。

 それでも音を立てないように、ゆっくりとメモ帳を捲っていく。

 ある程度予想していたことが書かれている。和久は常倉一家の権力を使い、王者として好き放題にしていること、監視装置で生徒だけでなく教師の弱みすら握っていること。

 やはり悪によって支配されているのだ。

 ならば、最初に浮かぶ疑問がある。これほどの事態になっていながら、何故警察が動かないのだろうか。何故父親が踏み込んできたのだろうか。

 父親の目的は常倉一家の行っている悪事を摘発することなのだろう

 ならば、余計に俺は和久と密なる関係を維持しなければならない。情報を引き出し、証拠を揃えて突き出せばいかに権力とやらがあろうと、警察が介入し事を収めてくれる。

 いつか父親もいっていた。警察が警察として持ちうる強い権力を行使するためには、揺るがぬ確固たる証拠が必要なのだと、だから得られぬものは自らが集めるしかないのだと。

 決意を語ると共に謝罪していた。何に対するものかは分からない。

 世に蔓延り違法を働くものが隠す悪を暴き、晒して糾弾するのが法を遵守する正義たる警察官の仕事。俺が誇りに思う父親の職業。

「えっ……なんだ、これ」

 思わず口にしてしまった。思ったままを吐き出していた。

 メモ帳に書かれている文字をそのまま受け取りたくはなかった。

 受け止められるはずがない。


――ここでは、けいさつを信じてはいけない。


 警察を信じるな、とある。何故、どうしてと疑問が湧き出る。いても立ってもいられず、俺は素足で上靴を履き体操着のまま保健室を飛び出した。

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