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灰色の境界  作者: 宵時
第四章「……ええ。時を経て、俺は殺人者になった」 「〝英雄(ヒーロー)〟とは言わないのだな」
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4-19 少年王の洗礼

 初の登校。新たな地で、俺は季節外れの転入生として一人小学校に向かった。

 八歳、三年生の俺を見送ってくれた元クラスメイト達は程度の差はあっても、誰もが涙し別れを惜しんでくれた。教室に入るまでは、どんな顔で迎えてくれるのか楽しみであった。胸にはかつてテレビで見た優しい風景を抱いて。

 物語の中心にいる人間は仲間内でも中心として動き、周囲の人間を引っ張っていく力を持っていた。今までは己を研磨するために必要以上に他者と関わるのは避けていたが、これからはなるべく多く付き合い情報を集めなければならない。

 どうすれば自然なのだろう。

 どういう切り口で話せばうまく受け入れてくれるのだろう。

 そんな幼くも打算的な思惑は肌に触れた空気によって吹き飛ばされてしまった。

 暗雲の中、(うな)り吠え(たけ)る雷を(はら)んでいるかのような一触即発の空気。寒気を感じた。季節の影響もあるかもしれない。

 俺を連れてきた担任教師の顔を伺う。何故か、その顔に張り付いていたのは強張(こわば)った笑顔だった。本来、圧倒的上位の存在で生徒から尊敬と羨望を集める理想的な大人を魅せるはずの教師が、悪の親玉に命令され行動する一般兵のような小さい存在に見えた。

 教師が軽く一礼。

 さらに中央へ向かって深々と、たっぷり五秒以上お辞儀してから背を伸ばす。

 促されて俺も同じように一礼し、後ろから無理矢理に頭を下げさせられた。

 背中を押されて顔をあげ、教壇の上にあがる。教師が俺の後に続く。

「えー……その、では。来々(くるるぎ)くん、挨拶を」

「はい」

 遠慮がちに、途切れ途切れの声に短く答えて壇上から生徒達の顔を見渡す。

 制服着用義務のある学校のため、俺も含めて生徒達は揃って同じ格好をしている。男子生徒は褐色のシャツに短パン、女子生徒は褐色シャツの上に紺色のブレザーを着た上で同じ紺色のスカートを穿いていた。

 女子生徒からすれば男子生徒の服装は異常に見えるかもしれない。

 だが規則は規則。大方寒さの中でも素足を晒すことで肉体を鍛えようとというカビの生えた旧態依然とした思考を持つ者がトップなのだろう。

 俺も足元に奇妙な寒さを感じる。慣れない短パンによる物理的な問題に一月という季節の影響もあったが、内側に圧迫感があった。

 息苦しさを表情に出さぬよう堪えつつ、瞳だけを動かし根源を探す。

 先程教師が深く頭を下げた地点、教室の中心に位置する席に恰幅のいい少年は座ってた。まるで王様だと言わんばかりの尊大さが全身から溢れており、事実他の席に比べて彼の席だけはレストランのテーブルのように純白のクロスが敷かれ、椅子の背もたれにも柔らかい布が張られている。

 少年は真っ直ぐ俺を見ていた。直接視線を交わさずに他の生徒達を見る。

 誰も、俺を見ていなかった。

 全員が真剣に睨めっこをするようにそれぞれの机を睨んでいる。

 おかしい。うまく言葉では言い表せないが、何かがおかしい。

 これでは少年が本当に王様だ。他の生徒に、教師も含めて周囲にいる人間は少年に付き従い、命令を聞いて走るだけの一兵卒だ。

「来々木くん、早くっ」

 鋭い声で叱責され我に返る。そうだ、最初が肝心なのだ。

 小さく咳払いして、気を落ち着かせてから口を開く。

「初めまして。来々木 亮と言います。字は――」

 振り返り、白いチョークを手に黒板と向き合う。

 縦書きでは背が届かないので、横書きで自らの名前を刻み込む。

「こう書きます。趣味は読書とテレビを見ること。ゲームも好きです。シューティングは苦手でアクションはそこそこ、どちらかと言えば頭脳系やスゴロク系が好きです。運動もそれなりに好きです。よければ、仲良くしてください」

 一気に言って頭を下げる。普通ならばここで拍手が起こるはず。

 が、何も起こらない。

 誰一人手を叩くどころか新たな仲間に対して小声で話し合うこともない。

 俺が声を発しなくなったせいで教室内が静寂に支配された。

 こうした異常事態、緊急時に制御するはずの教師も何も言わない。

 俺は下げた頭をあげるかどうか悩んで、ひとまず下げたままにした。

 きっかり三十秒はそうしていただろうか。正面から小さく手を叩く音。

「おい、どうしたんだお前ら。新入生くんがシッカリ挨拶してくれたんだから

快く受け入れてやれよ。こんなに真っ直ぐ気持ちをぶつけてくれたんだから、

答えないと失礼じゃあないか」

 堂々とした声だった。担任の教師よりも迫力がある。

 声に従って一人、また二人と拍手をし始め教室内に音が溢れ鳴り散った。

 俺は喝采(かっさい)を受け入れられたと判断して顔をあげる。が、目に飛び込んできた光景は想像外の異質なものだった。

 生徒達は、俺を見ていない。俯いたまま、両手を打ち鳴らしている。

 そのさまはシンバルを叩く猿の玩具に見えた。一人だけではなく、全員がだ。揃って予めそうプログラミングされたように乱れることなく拍手の嵐を巻き起こしている。

 ただ一人だけ拍手をしていない生徒がいた。

 教室の中心に座する、あの恰幅のいい王様風の少年だった。

 違う。誇張なく彼がこの教室という空間において間違いなく王者だった。横を見ると教師も生徒達に倣って、ただ拍手を発生させるだけの装置と化している。

 なんだ、これは。何なのだ。何が起こっているというのか。

 理解できない俺はただ異常な光景を前に硬直するだけだった。

 視線を感じる。物理的に痛覚を刺激し、刺し貫く圧倒的な力を持ってぶつけられる視線の持ち主へと向き直る。王様の少年と正面から向き合った。

「いいね。すっごくいい顔してるよ、お前」

 既に打ち解けた親友と話すような気軽さで王様の少年が口にした。

 奇妙な息苦しさを感じる。王様の少年の顔には笑み。他の生徒達にはないものだが、決して気持ちいいものではなかった。

 悪役の視線だ。これからどんな悪事を働くのか思案している類の、陰湿な笑みだった。視線は形を持って蛇のように俺の体を這いまわり、絡みつく。

 俺は胸の圧迫感を堪えつつ言葉を絞り出す。

「どういう、意味ですか」

「ははっ、そんな硬い言葉はいらんよ。もっと気楽に話そうや、なあ」

「で、でも僕と……その、あなたは会ったばかりですし」

「あなた、だって? ふくっ……くくっ、あははははははっ!」

 鳴り止まぬ拍手の中で交わされたにしては、鮮明に鼓膜を打っていた。

 拍手に負けない大きさで王様の少年が高笑いを響かせる。何故不気味な薄笑いを浮かべながら話しているのか分からないし、笑い飛ばしてるのか理解できない。

 分からないことだらけの、(やかま)しい世界でも時間だけは流れ続ける。

 これまで自分だけのために使ってきた時間が、何の意味もなく垂れ流され浪費されていく。少しの苛立ちと腹立たしさを覚えるも、表情には出さない。

 譲歩し、受け入れることが第一歩だ。

 この程度のことでいちいち腹を立てていては始まらない。

 王様の少年はひとしきり笑うと、大きく二度手を打った。瞬間、ぴたりと拍手が鳴り止んだ。粘つく笑みを浮かべたまま、王様の少年はその二重顎を行儀悪く立て肘をした右手の上に乗せる。

 天上天下唯我独尊、傲岸不遜、自己中心的。そんな言葉が頭に浮かぶ。

 王様の少年は俺を見ていなかった。視線はその隣、教師の方へ。

「おいコラ。さっさと来々木くんの席を用意しろよクソ教師」

「は、はひっ! ただいま……」

「クッソノロマがよ。何呆けてやがんだ。親父に言いつけるぞ」

「も、申し訳ありませんっ」

 これが生徒と教師の会話だろうか。教師が慌ただしく教壇から降りていく。

 案内されずとも、檀上にあがった時に向かって右側の最後尾に空席があったから、恐らくそこが俺の席になるのだろう。別にどこだっていい。

 言ってしまえば王様の少年から離れていればどこでもよかった。

 彼とは近付きたくない。既に最初に抱いた志を曲げることになるが、少しくらいは付き合う人間を選んでもいいだろう。いや、本当にそれでいいのか。

 眉根をひそめる。俺の変化に気付いたのか、王様の少年がまた俺を見た。

 顎を手に乗せたままで口を開く。

「驚かせて悪いね。本当に間抜けが多くて困る」

「……いえ、その勝手が、わからなくて」

「おっと、自己紹介がまだだったね」

 どう答えるべきか迷う俺に対しての言葉遣いは礼儀正しく綺麗なものだった。

 教師に導かれて空いた席へと向かう。王様の少年が指示するかのように小さく顎を動かすと一斉に左右から挨拶が飛び交い始める。

「俺は斎藤。よろしくな、来々木くんっ」「あたしは福島っ」「大越だ」「堀川です」「新田五右衛門って言うんだ。時代劇みたいな名前だろ?」「一ノ城桃って言います。ヨロシク」

 一つ一つ答えられないので、取りあえず微笑んで返しておく。

 案外普通なのかもしれない。王様の少年が特殊なだけで。

「で、僕が常倉 和久。ここら一帯は常倉一家のものだから、

その辺りを踏まえてくれ。くれぐれも、気をつけてくれよな」

 最後に王様の少年が名乗った。映像再生機器で停止ボタンを押したかのように、世界の時間が凍りつき教室が静まり返った。

 王様の少年、和久が頬杖をついたまま笑う。爽快さとは程遠い、体の至る所を這い回りまとわりつく粘着質の視線と、言い知れぬ不快感を内側に巻き起こす笑み。

「怖いなぁ。どうしたんだい、来々木くん。そんなに睨んで」

「……ごめん、なさい。ちょっと頭痛が」

「ひょっとして一斉に話しかけちゃったからかな? おい、お前ら」

 小さな悲鳴があがる。

 和久が放った言葉の語尾にはドス黒さが(にじ)み出ていた。

 古臭い任侠映画や作り物の世界でしか見ないような率直な恫喝だった。

「お前らは一か百か、どっちかしかできないのかよ。馬鹿ばっかりか」

「いや、その……だな。出迎えはパーッとやった方がいいかな、って」

「盛り上げていったほうがいいかな、って思ってさ」

「最初が肝心だろ、なっ」

 男子生徒が口々に理由を口にする。重い音。和久が机を叩いていた。

「はぁ? 誰が言い訳しろって言ったんだよ」

「す、すみません常倉さんっ!」「ご、ごめん」「悪かったって」

「謝る相手が違うだろうが、ボケナス共っ」

「い、いい。いいですって!」

 精一杯声を張り上げ、生徒達を怒鳴りつける和久に割って入る。周囲の生徒達の反応は二種類。自らにも被害が及ばぬよう祈る恐怖と、絶対強者に割り込む蛮勇への驚愕。

 和久が俺を見た。表情にまた仮面の笑みが浮かぶ。

「来々木くんがそういうなら仕方ないな。お前ら温情に感謝しろよ」

「有難う御座いますっ」「すみませんしたぁっ」「有難きお言葉っ」

「だ、だからいいですって……」

 苦笑いで取り繕う。何よりも先に出てきたのは気持ち悪さだった。

「あ、あのぅ……そろそろ授業に戻りたいのですが」

「うん。続けて、どうぞ」

「有難う御座います。それでは、続けさせて頂きます」

 最上級の敬意をもって奉り、教師が授業の準備をしていく。

 俺も何気なく、自然と自らの席に腰を下ろす。尻の下に違和感、足元からは異臭。ズボンの生地に侵入し肌に伝わる冷たさがあった。上履きは小さな水音を奏でる。剥き出しの足に跳ねる飛沫(しぶき)を感じた。

 左の窓枠を支えに尻をあげる。椅子と尻の間で潰れていたのは泥のような粘ついた物体だった。感覚ではなく、今度は真に肌で不快感を覚えている。

 足元で広がる水たまりは、どうやら獣の尿らしい。

 周囲から俺を突き刺すモノ。俺の目は前を、黒板を見る。

 あえて気付かないように、気付いていない演技を続けていく。

 教師が教科書を読み上げる声に椅子の(きし)む音が混じる。

「なぁ、来々木くん。ここには一人で? そんなわけないよね」

「……常倉、くん。授業中」

「いいからいいから。お父さん? それともお母さんに連れられて?」

 誰もが前を向いて授業を受ける中、和久だけが椅子に逆向きで座って俺を見ている。重ねられた問いに正直に答えるべきか。尻の下の不快感が思考を妨げる。

「お父さんと、二人で」

「そっかそっか。何してる人?」

「えっと……公務員、って言ってた」

「たとえば警察官とか?」

 今度は俺だけの世界が止まった。矢継ぎ早に投げつけられる問いに条件反射的に答えてしまった失敗か。和久がまた怖気(おぞけ)の走る笑みを浮かべる。

「なるほど、ね。ふふん、うまくいくかねぇ」

「どういう、ことですか」

「さてね。まずは確かめてくるといいよ。うん、それがいい」

 言うだけ言うと和久は体を前に戻して机に突っ伏した。数十秒もしないうちに寝息が響き始める。どこまでも自由奔放、いや自己中心的な少年だった。

 結局、今俺の身に起きていることに関して問うことはできなかった。

 証拠があるわけではない。だが、直感的に脳髄に響くものがあった。

 視線を感じる。

 刺すような鋭さではなく、遠巻きに愉しんで眺めていると取れる生温かい感触。

 熱くも冷たくもない、中途半端なところで留まる気持ち悪さがあった。

 物心ついた時から、俺にはこうした常人よりも優れた感覚があった。

 人より多くを聞き取り、嗅ぎ分けて視覚情報を分解していく。何故かは分からなかったが、この特異な体質もまた俺自身がなさねばならないことを再確認させていた。力を持つ者は、その責任も負わねばならない。

 特別な人間には常に苦難が付きまとう。

 立ちはだかる壁をぶち抜き、障害をねじ伏せ叩き潰してこその英雄。

 そんな存在になりたい。誰かを守り、悪を駆逐する存在になりたい。

 この教室という狭い空間を支配している常倉 和久という男は大別すれば間違いなく悪に属する存在だ。見えざる力で生徒だけでなく教師をも支配している。

「えー、次のページを堀川くん、読んで」

「はい」

 異変に気付かず、和久を注意することもなく時間は流れ、授業は進んでいく。

 明らかな異臭を放っているはずだが周りの誰も目立った反応を見せない。あるのは貼りつくような気味の悪い感触だけ。誰かが、俺を見ている。

 ただ一人で全員を支配下におけるはずがない。きっと仲間がいる。

 悪の秘密結社はいつもそうだ。徒党を組み、(ある)いは配下をあくどい手段で増やして尖兵を送り出す。こんなふざけた世界は叩き壊さねばならない。

 そのためにはもっと情報を集めなければならなかった。和久の言葉も気になる。

 何を確かめるのか、何がうまくいくのか。

 違う。あの何も恐れていないという目はなんなのだ。

 どこから湧き出る自信なのだろうか。

 俺自身を思い返す。父は警察官だ。母親は検事だ。どちらもこの世界を律する法を操り悪を裁く正義の存在だ。正義と正義の申し子であれば、当然より強く硬い正義の意志を胸に抱き、悪を貫く槍を研ぎ澄ますために切磋琢磨しなければならない。それが俺に与えられた役割で、意味だと思うし俺もそうなりたいのだから。

 この程度の妨害で挫けるわけにはいかない。まだ始まったばかりなのだ。

 新しい学校での初授業の内容は余り頭に入らず、ただ今後どうするべきかを模索していた。

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