4-4 受け継ぐ遺志と繋ぐ意志
穏やかな月の光が降り注ぐ中、坂敷邸ではいつになく多くの者達が机を囲み、飲んで食べて時に歌ってと宴を楽しんでいた。
邸内では滅多に使われない広々とした畳部屋が、急遽宴会場として提供され全員で準備をして料理を並べた。いくつかは晴明の手製ではあるが、阿藤学園の二クラス総勢六十人を越える学生達の胃袋を埋め尽くすほど作れるはずもなく寿司やら牛鍋のセットやら様々な注文品で賄ったのだ。
今は生徒達が手にグラスを持ち、席を移動しながら並んだ料理を消費している。
俺は大部屋の隅でコップを揺らしていた。アップルジュースが波打ちながら、器から溢れるか溢れないかのギリギリで留まり限られた空間で踊り続ける。
「しかし、本当に参りましたよ。師匠の貪欲さにはね」
ちらりと視線を左にやる。千影は珍しく藍色の着物を身に着け、非常に女性的なラインを魅せていた。遠目で男子生徒が脚線美を目にし興奮気味にコップを打ち鳴らす。女子生徒達も羨望やら陶酔の眼差しで見つめ、はしゃぎあっていた。
当の本人はどこ吹く風で、あえてそうして見せているのか自然体なのか判別し辛い。
仄かに酔いが回っているのか、とろんと揺れる赤黒い瞳が俺を見た。
「言っただろう。欲という指針があるからこそ、人はヒトとして存在できるのだと」
「いえ、でもね。流石に緊道殿まで巻き込むのは、どうかと、思いましてね」
千影が右手に杯を持ちながら右足を伸ばし、左足は引き寄せて着物の裾をずらす。
分かった、わざとだ。サービスショットというか、この手で入門を迫るのだろう。暑そうに胸元をひらひらとさせている動きも大袈裟に過ぎる。
健全な青年の視線を引き寄せる重力源から目を逸らす。
妖艶な笑みを唇にのせた千影とばっちり視線がかみ合う。
「なんだ。お前も見たい年頃か?」
「べ、別にそんなことは……というか、今更ですよ。今更」
「ふん。随分と生意気を言う。泣きべそばかりかいていた糞餓鬼が」
「……いつまでも、子供ではいられませんから」
静かに、ゆっくりと。心中に秘めたものは漏らさずに、俺は重苦しいモノだけを吐き出す。判然としないが、少なくとも緊道と響かせた剣戟の中で一つの区切りはつけられた。
俺は未だに亡霊に引きずられている。
この世界でたった一人だけ、ただ一つだけ大事にしたかった存在と、大切だった者達を奪うきっかけを作り出したもの。その二つが混在している〈死神〉の中身を見定めようとしている。
部屋中に流れる心地よい歓声は俺の意識を過去へと引っ張る。
だが、今は今だ。俺は殺人者であることをひた隠しにして日常を歩いている。普通の人間が当たり前に生きて存在し、自らの力で得られうる可能性を手にする場所を作る。
あって当然の世界で、その当然が損なわれるから不運だとか不幸だとか様々なネガティヴな言葉によって埋め尽くされ、第三者によって遺志に関係なく書きたてられてしまう。
多少強引には見えるが千影の勧誘やら入門の手続きも彼らを彼ら自身で守るため。
「分かっては、いるようだな」
「理解していなければ最初から招いたりしませんよ」
「ん。やはり、相滝と戦わせたことは正しかったな」
「もしや、それすら仕組んで……?」
「まさか。私は神などではないよ。単純に私の代わりに稽古をつけて
もらうよう頼むべく招聘したのだ。これから、また忙しくなるからな」
男を魅了する笑みを浮かべてはいるが、千影の目は笑っていない。
杯を揺らし、中身の酒が鏡となってほろ酔いの女性を映す。
果たして、ここで続けていい類の話なのだろうか。
「何、だから宴というのはいいものなのだよ。雰囲気に飲まれた者は話に
身が入らぬ。入らないから、仮に耳に入ってもすぐに反対側から抜けていく」
「だからといって、警戒しなくてもいい、というわけではないでしょう」
「平気だ。元気なものは既に相滝が連れて行っている」
剣戟が響く。早速手続きを行った者達が打ち合っているのだ。
視線を動かす。畳の大部屋から見える中庭で、緊道が木刀を握った数人の男性学生に囲まれている。囲い込んでいるはずが、まるで巨象に群がる蟻のような圧倒的力量差が見て取れた。
とにかく打ち込んで来い、とでも言われているのだろう。男子生徒が我武者羅に木刀を振り回すが、軽くいなされて石畳に這い蹲る。続く者達も同様に打ち倒され折り重なっていく。積み重ねられた擬似屍を眺め、緊道はやれやれといった顔つきだった。
「なぁ、亮。人間は……いや、生物は皆生まれた瞬間に死ぬ運命を背負う。私達はただ、それが短いだけにすぎないのだよ。容姿だとか身体能力だとか秀でている部分はあるが、根幹は何も変わらない。だからこそ、受け継がれていき引き継がれる意思は大切だ」
「師匠が教えているのは、ただ単純な強さだけじゃない。精神をも鍛え得る」
「ん。いつか、私も死ぬ時が来る。その時に私の願いが
次の世代へ引き継がれていることを願うばかりだよ」
「そんな、まるでもうすぐ死ぬみたいな……」
「分からんぞ?」
がつっと腕で首を掴まれ、引き寄せられる。控えめながらも確かな女の膨らみが頬に触れて自然と様々な感覚やら神経が刺激されて反応を見せていく。
「ふん。やっぱりまだまだ貴様も猛っているではないか」
「それは、その、あれです。条件反射といいますか」
足でぐりぐりと屹立してしまった弱点をまさぐられる。ぞくり、と寒気が走った。
恐る恐る視線をあげると、まるで毛虫でも見るかのように冷めた色合いに揺れる赤褐色の瞳。その隣ではクレスが苦笑いを浮かべていた。
「あらあら、お楽しみでしたか。お邪魔でしたねぇ」
「何、軽いスキンシップだ。そう妬くこともあるまい」
「べ、別に妬いてなんか、いません」
「リオン嬢、即反応はむしろ心情を吐露しているようなものです」
「だからッ」
リオンが激昂しかけるが、場所が場所だけに何とか抑えたらしい。荒く呼吸を繰り返すさまは捕食寸前の肉食獣。クレスはその調教師といったところか。とにかく助かった。
千影のヘッドロックから抜け出し、大きく息を吸って吐く。かすかな甘い香りが脳を焼くものの理性で堪えて猛った自らを鎮めていく。我ながら何を考えているのだろうか。
顔をあげると千影はすまし顔で酒をあおっていた。
「……師匠、当然おちょくるために呼んだわけではないですよね?」
「無論だ。お前達のお陰で思わぬ副産物は生まれたが、本題は別だ」
「じゃ、そろそろお引取り願いましょうかぁ」
ひょこっとどこからか沸いて出た加賀見が明るい笑顔を浮かべながら言った。
「さささ、みなさーんそろそろ撤退準備ですよぉ」
「もうお開きかよ、飲み足りねぇぞっ」
「飲むってジュースじゃねぇか。後でトイレ行きたくなっても知らんぞ」
「まぁまぁ、本番もあることだしね」
「後片付けはー?」
様々な声が飛び交うものの、加賀見に促されて生徒達が帰路に着く。刃助と遥姫も誘導に一役買っていた。俺は立ち上がって加賀見に近付く。
「片付けはしておくから、加賀見はみんなをきちんと送り届けて欲しい」
「はぁい。言われずともそのつもりですよん」
「流石だな」
「ふふ、まだまだニルヴァーナトークは終わりませんぞよ?」
「……そうか」
加賀見が遥姫に耳打ちし、遥姫の頬が見る見るうちに朱色に染まっていく。何を言ったのかは想像しないでおく。刃助も空気を呼んだのか、帰りたがらない男子生徒共を引っ張っていた。
思いを吹っ切るように首を振り、顔をあげた遥姫と視線が合う。
「気をつけてな、月城」
「う、うん。その、お邪魔しちゃってごめんね」
「俺じゃなく師匠……じゃない、千影さんに言ってくれ」
「うん。でも、本当に有難う」
微笑む。何をしたわけでもないのに謝辞を述べられても困る。遥姫の笑顔が曇った。
「来々木君、約束してね。絶対に、勝手に休んだり怪我したりしない、って」
「…………ああ。なるべく、頑張るよ」
「ダメ。なるべくじゃなく、絶対に破っちゃ嫌だから」
「分かった。必ず、守るよ」
「うん。それならよろしい!」
優しく笑う。多分、遥姫も分かっている。守れるかどうか、絶対などなく未来は見通せない。約束ができなくても、今の俺にはそう言うしかなかった。それ以外に彼女を安心させる方法が思いつかない。たとえ、偽りの約定なのだとしても。
「じゃ、また学校で」
「ああ。またな」
短く別れを告げて、遥姫が加賀見に付き添われて玄関へと向かう。
暗い廊下に一筋の月光が差した。
まるで、咎人とヒトを分かつ境界線のように見えた。
坂敷低の居間で、もう何度目かになる樫の大机を囲む。俺の隣にクレス、向かいにリオン。傍には紅狼が死んだように倒れ伏しているが触れないでおく。
ごく自然に晴明はお茶汲みを引き受け、それぞれの前にコースターと麦茶の入ったコップを置いていく。配り終えて静かに俺達を見渡せる位置に腰を下ろす。
やや遅れて、ぴしゃりと戸を閉めた千影が晴明の隣に座った。和装から着替えており、いつも通り飾り気のないシャツにズボンという軽装だ。
「待たせたな」
「いえ。その、〈黒の死神〉がいないようですが」
「セラは既に任に着いている。今頃は南方のエリス連合国にいるだろう」
「……密猟者の討伐か何かで?」
「もっと深刻だ」
みしり、みしりと床を軋ませ何者かが近付いて来る。
静かに戸が開かれ、巨体が部屋に入ってきた。
紺の羽織に同色の袴、和に伴う気高き雰囲気をまとった屈強な男が俺達を見下ろす。
「緊道、殿」
「我も招かれてな。同席させてもらう」
「はぁ、でも……」
いいのか、と千影に目線で問おうとしたが黙殺されてしまった。
体に刻まれた印が疼く。言いようの知れぬ力が湧き出す。
まるで戦場の香りを嗅いで昂揚しているかのように。
はっとしてクレスの顔色を伺う。いつになく、険しい面持ちだった。
「千影さん。恐らく、僕はイズガルトに行くことになるのでしょう?」
「察しの通りだ。ことは世界規模、だがまだアルメリアから離れるわけにもいかない。
故に多少の戦力は残しつつ各地に〈死神〉を派遣することになる」
「待ってください、話が見えない」
クレスと千影の間でだけ分かっているような雰囲気だった。晴明も笑顔を浮かべるわけでも軽口を叩くわけでもなく静かに茶を啜っている。
緊道が着物の裾をまさぐり、新聞を取り出した。机の上に投げられ、一面が晒される。
掲載されていたのは事故現場らしき写真。油かガス田でも炎上したのか、大爆発による噴煙と赤色で誰が何をしているのか判別できない。かすかに、揺らぐ炎の中に人の姿があった。記事の見出しは謎の大爆発、事故か人為的なものか不明となっている。
千影がゆっくりと口を開く。
「亮、娘……いや、リオン。そしてクレス。
平和の、日常の何が大切かは分かっているな」
「俺には、過ぎた時間です。彼らの安全を、未来を、不幸が降りかからぬように守る。
分かっています。師匠が、守るべきものの価値を分からせるためにいさせた、と」
「……私は、元々戦場とは程遠いところにいました。今も誰かを殺してまで平和を
維持することが正しいとは思いません。でも、誰かが悲しむところは見たくない」
「僕達はいつか表舞台から姿を消します。本来人間があるべき姿で、持ちうるカードから最高の幸福を手に入れるために、あらゆる障害を躊躇なく払い潰すのが役目なんです」
それぞれが応えていく。そう、何が大切かは分かっている。
俺達は表舞台にいてはならない。いかにリオンが、小百合が幸福を願ったとしても俺自身は否定しなければならない。仮に幸福を願えたとしても、全ての災厄を斬り潰し殺し尽くしてからだ。そして、千影は〝その時〟が永遠に来ないといった。
もし、全ての力を再び結集しなければならないのであれば、今が決別の時なのだろう。
刃助や遥姫……日常に生きる者達に背を向け、灰色の境界を渡り歩く。
最初から決めていたことだ。俺には彼らや彼女を幸福にする権利などない。
千影が一人ずつ、俺達の覚悟を見定めるように瞳を合わせ、奥底の深層心理を掬い出す。
逡巡するように千影の目が泳ぐ。着物を身につけていたことといい、本当に珍しい。分からない。何を迷う必要があるのか。これまで、散々切り捨ててきた張本人が何に躊躇するというのだろうか。
「失踪や事故、変死など様々な形で歪曲されてはいるが、今……世界規模でクラッドチルドレン殺しが蔓延している。死をもって罰する我々が、逆に狩られているのだ」
ようやく吐き出された千影の言葉は畏怖という震えの響きを帯びていた。
「クラッドチルドレンが、殺されている……?」
思わず俺は鸚鵡返しに問い返していた。クレスは瞼を伏せて頷く。
開かれた空色の瞳は静かな憎悪の炎を燃やしていた。クレスが口を開く。
「よりにもよって、その狩人の一人が僕の兄……なんだ」
「そう、だ。リタルダント・アーク・エイシェン。魔力を持たない魔滅者が我々を
狩っている。まるで〈聖呪大戦〉を繰り返そうとしているかのように、な」
「だから、亮。僕は文化祭が終わったらイズガルトへ行く。アーク家の人間として、
禍々しきものは僕が討ち果たさねばならない。分かって、くれるよね?」
「……そう、か。クレス、だからお前は――」
あれほどの、寒気を覚えるほどの殺気と憤怒と憎悪をぶつけてきたのか。演出ではなく、魂の改竄でもなく俺を兄だと捉えて殺しに来ていたのか。
千影が言葉を繋げる。
「今すぐ、とは言わない。セラと紅狼、そして私も出る。アルメリアでも
起きている。お前達は下部メンバーと協力し、国内の狩人を探し出せ」
「待て、というのですか。今この瞬間も、どこかで殺されているかもしれないのに!」
「繰り返させるな。リオン、貴様は亮のストッパーになれ。先走らぬように、な」
馬鹿な、ふざけている。救えるものを見捨てているじゃないか。さっさと見つけ出して始末しなければならない。何のために俺達を、クラッドチルドレンを殺し回っているのかは分からない。
だが、俺達は〈聖呪大戦〉を乗り越えた。〈灰絶機関〉は〈聖十二戒団〉を廃して罪を殺し尽くすと誓った。なのに。
「……殺すのではなく、探し出すのですか」
「早まるな。問い質さねばならない。何故我々を狩るのか――」
「そんなのっ!」
声を荒げる。リオンの様子を伺う。彼女ならば真っ先に反論するのではないか。誰よりも何よりも命を結ぶことを尊ぶのならば、こんな状況を許容できるはずがない。
そんなはずがないのに、リオンはどこか諦めたような悲しげな笑顔を浮かべていた。
「千影、さん。私にはできません。先に、私は会っておかねばならない」
「誰にだ。今、この状況で優先すべきことなど……」
「いえ、あります。彼と同じく、私も文化祭を区切りに旅立ちます。ウランジェシカへ」
「祖国に戻る、ということは〈灰絶機関〉を抜けるということか」
「違います。王に、ブリズ・アムル・ウランジェシカと直接会うためです」
はっきりとリオンは意志を口にした。揺るがぬ信念は瞳の色を見れば分かる。
クレスが兄を殺害する意志を示したように、リオンも伝えるつもりなのだろう。もう二度と修復されることのない傷跡を、少しでも埋めるために。
千影が重々しく頷いた。
「そう、か。貴様も伝えるのだな」
「……はい。ですから、亮と共にはいられません」
「会って、どうする気だ」
「先方の反応次第ですかね」
リオンと千影の瞳がぶつかる。が、火花を散らすことなく意志の確認をしただけだったようだ。千影が緊道を見る。
「いいか。〈死神〉に敗北は許されない。もう、赦されないのだ。貴様達の武具を鍛え上げ、最高の形で臨む。そのための準備期間であり、そのための相滝 緊道だ」
「……然り。我が、再び鍛え直そう。貴殿らの意志を叶え、遺志を引き継ぐ刃を」
何故か、緊道の言葉には抗う気力を奪う圧力があった。
ネクロハイゼンの決戦時、千影とその霊剣鎖天桜花がなければ間違いなく俺とリオンはハルによって殺害されていた。それは、敗北しているのと同じだ。
もう敗北は許されない。負ければ、奪われる。失う。
俺は失って、奪われて。
もう失いたくないし奪われたくないから〈紅の死神〉を受け入れた。
緊道の言葉を思い出す。俺は、負わなければならない。導き出した答えを、それに付きまとう犠牲という結果を受け入れなければならない。
たとえ意志に反したとしても、遺志を繋ぎ止めなければならない。だから。
「……分かり、ました」
唇を噛む。痛い。鉄の味が染みる。魂まで汚染していく。
それでも勝つためには、根幹を断ち切るにはこの苦さに耐えるしかなかった。




