3-27 寂滅の黒雪
黒い刀身がゆっくりと輪郭を失い、消えていく。
最初からなかったかのように、鎖天桜花は柄だけを残して消え去った。
「愚かな……自ら武器を捨てて、何のつもりだ」
「すぐに、分かる」
「あくまで、私を否定するのだな」
「……残念だよ。こんな形で終焉を刻むとは、な」
「そっくり、そのまま返してやろう」
ハルと千影の間で交わされた言葉による剣戟は、最後に打ち鳴らすことなく闘争によるものに移り変わった。
鬼の面をつけたまま、ハルが特攻を仕掛ける。
肉体そのものを弾丸として、地面を蹴り迫る。
自らへ突進してくるハルを前にしても、動じることなく千影は天井を見上げた。
「諦めか、愚弄しているのか……いずれにせよ、これで終わりだ」
「ああ。終わりだ」
大きく横に跳躍して回避。寸前で全身から棘を生やしたハルに引っかけられ、防刃仕様のジャケットが裂ける。鮮血を散らし、床に雫を残しながらさらに距離を取っていく。
勢いを殺さずにハルは壁面へ激突していた。
隔壁が少しずつ崩れて大穴が生まれる。
身にまとう鎧と衝撃吸収能力を持つ壁は同質の存在。
あらゆるものの存在を消し去る鎖天桜花に食われた分を補充していた。
再びハルの手に創造星鉄剣が握られる。
「形勢逆転だな。この部屋全体が、私の刃だと思え」
「そっくりそのまま、返してやろう」
「……意趣返しのつもりか」
不快さを露にした低い声でハルが刃を振った。
刀身が伸びてうねり、床を抉って破片を散らせながら千影の足元を狙う。
千影は跳躍して回避。ハルが手首を返し、刃を跳ね上げ対空の切り上げに移行する。
鉄板を仕込んだ靴で受け止め、弾く。床を転がっていくのを逃さぬと、ハルの鎧から伸びた棘が襲う。
掠めていくも致命傷にはならず、だが傷を増やし出血させていく。
「大口を叩きながら、ひたすら逃げるだけかッ!」
ハルが叫ぶ。答えず、千影が俺達の方を見た。唇が動く。
じくりと〈紅の死神〉の刻印が疼いた。リオンが俺を抱く腕の力が強くなる。
まるで雨から守るように、強く強く。
室内であるはずが、少しずつ光量が減って世界が暗く影を濃くする。
思わず天井を見上げた。すぐ目につくはずの、人工的な蓋は見えない。
空間が歪み、何かが降り注いでいる。
「ぐっ……」
苦悶の声。大穴の開いた隔壁から刃を振るっていたハルが、創造星鉄剣を取り落とす。
あらゆる衝撃を吸収する鎧に穴が開いていた。
すぐに核が衝撃を吸収する粒子を集めて塞ぐ。
「…………何を、した」
「言ったはずだ。私の霊剣、鎖天桜花の能力は〝存在の抹消〟防御は無意味だ」
「答えろッ!」
刃が空を切り裂き、千影に襲いかかる。
が、届かなかった。境界を隔てて、区切られたように届かない。
違う。刀身が失われていた。食い千切られたように、半ばから消えている。
「ぐぅ……あがっ……」
苦鳴が響く。千影は鎖天桜花の柄を握ったまま、ただ立っていた。
俺は目を細める。空から何かが舞い降りている。
光の加減で見え隠れしていて中々視認できない。
「雪が、降ってる」
「……雪?」
リオンの声が落ちた。鸚鵡返しに問い返す。
抱きしめられる腕の力はさらに強まる。
鼓動が伝わってくる。引き合う〈死神〉の刻印がもたらす疼きもある。
ようやく、俺にも認識することができた。
「黒い、雪…………」
「ねぇ、亮。あれが、あの人の願いの形なのかな」
「……ああ」
雨など降るはずのない室内で、しんしんと雪が降り注いでいた。
淡く儚く、それでいて強い黒雪はハルの頭上に集中して降っている。
舞い踊る黒き結晶がハルの鎧に触れた。瞬間、装甲が引き剥がされる。
また元通り修復された。また穴が空けられる。塞がれる。
音も振動も衝撃もない、静かな攻撃が繰り返される。
「なんだ、これ、はッ!」
ハルが天井を斬り破ろうと創造星鉄剣を振るう。
暗雲に刃を通してかき乱したとしても、晴れさせることなどできるはずもない。
上空に向かった刃は、歪曲した空間に触れることなく霧散していく。
食われた、と称するのも間違っている気がする。文字通り、その存在が消えていた。
最初からそこに存在しなかったように、ハルの刃は半ばから失われている。
「くっ……なんだ、なんなのだ一体ッ」
再び刃が振るわれる。結果は同じ、空を裂く風切音すら鳴らずに刀身が消失。
自然に従い、重力に引かれて黒い雪は降り続ける。
千影は見守るだけ。言葉はなく、動くこともなくぼぅと放心して雨の中で濡れ続けるように立ち尽くす。
解放された鎖天桜花の能力は、最早攻撃ではなく一方的な殺戮だった。
宣言通りに、あらゆるものを消し潰すために切られたカード。
「こんなのは、もう……戦いじゃない」
自然と俺の唇から漏れた言葉に反応して、千影が俺を見た。
赤みがかった黒瞳は暗く、悲哀の色に染まっている。
何に悲しんでいるのか。慈しんでいるのか。
振り続ける黒雪は先に切り裂いた隔壁を侵蝕していく。
食い破り、全面的に開放され飽き足らずに〈知核人機〉が収まった円筒形の装置に触れる。厚手の硝子に触れ、少しずつ削り取っていく。
外部との圧力差が生まれて装置を構成する硝子が悲鳴をあげる。
甲高い音を立て、硝子が破砕し欠片と共に培養液を撒き散らす。
「はくっ……かッ…………やめ、ロ」
壊れた機械のように言葉にノイズが混じる。
ハルがまた創造星鉄剣を取り落とした。そのまま、自身も膝を崩し床に屈する。
容赦なく物体を蝕む雪が触れて鎧の守りを奪う。修復される。だが削る。直す。
それでも穴を開ける。遂に修復が間に合わず肉体まで食われ始める。
「止めない。貴様は、ここで死ぬのだ。幼き幻想を抱いて溺死しろ」
「いや、ダ……何故、どウシテ、こンな」
「鎖天桜花は大喰らいでな。かなりの霊力を持っていかれる。吸い尽くされる
前に、貴様と貴様の生み出した負の遺産は全て消し飛ばさねばならぬ」
千影は淡々と解説するだけ。
ハルの鎧が肉体を守ろうと蠢き、だが消滅させられていく。
破壊されても再生を繰り返す絶対的な防御も次々と襲い来る雪には勝てなかった。
〈知核人機〉の中身が冷たい床に投げ出され、黒雪に触れて形を崩していく。
まるで雪の結晶を破壊されて溶け消えるように肉汁となり、多数の肉片と交じり合って大河となる。流れていく河は続く黒雪に侵蝕され、蒸発し空中に混ざっていく。
〈知核人機〉を収めた装置はことごとく溶かし潰され、存在そのものを失わされる。
事実は見えない。かの材料が誰だったのか、知らないし知る必要もなかった。
記録を残すこともなく、本当に千影は一切合切滅しようとしている。
「負け、ヌ……私が、果たさねば世界ハ」
「貴様の時代は終わった。後の治世も取りまとめてやる。
加えて、真相も公表しない。元々露出の少なかった王だ。
いなくなったところで、大差はない。問題なく世界は回る」
「師匠、それは……偽り隠すということですか」
「偽り隠されぬ世界など、この現実には存在しないよ」
「それでも、家族や親族を失った人達はいるはずです」
「いない。全部調べた。いや、調べるまでもなく問題が起きぬように奴が予め
選別していたのだ。どちらにせよ、世間に漏れたとしてもすぐに忘れ去られる」
真実を隠すという。同時に俺達にも口外するな、と警告している。
話したところで、誰に信用されるのか。人々に慕われ、画期的な技術を与えられ養われてきた国民に、表側しか知らない人間にどう説明すればいいのか。
俺自身まだ遥姫や刃助に加賀見 鏡華という少女の喪失をどう伝えればいいか分からないというのに。
「させ、ぬ…………この国を、ベリアルさんヲ、渡すわけにはッ」
倒れ伏したハルの鎧から槍が伸びる。
肉体の消失から来る凄絶な痛みを無視し、ただただ殺意だけを込めた一撃。
だが、無常にも伸びていく変幻自在の槍はかき消された。
降り注ぐ黒雪は残酷に、無慈悲に対象を抉り取り、滅する。
鎧を失った半人半機の肉体はゆっくりと、少しずつ削り取られていく。
命を蝕まれていくハルを、千影は目を細めて眺めている。
「夢から醒めろ。人は限りあるから美しく気高い。永遠を手に入れてしまえば、それこそ欲望に食い潰されるただの怪物だ。かくあるなら、あらゆる願望は捨てねばならない」
「…………なら、バ。お前ハ、坂敷 千影は何ヲ、望み……願ウノだ」
鬼の仮面が崩れ落ち、消え失せた。
床に寝転がり、崩れた片方だけの眼球を晒しながらハルが最期の問いを投げた。
千影が俺達に背を向ける。真っ直ぐに死体となりゆく千影と向き合う。
「世界を救済する……そんな大それたことは言わない。私は神ではなく、人間だ。
人間は生まれた時の境遇がどうであれ、様々な選択肢のある世界で生きている。
仮に選択できない状況であったとしても、それは選ばれなかったものを無視して
いただけだ。探し選ぶことを放棄した時点で、自らの権限を失っている」
「奪われる、ノダ。私のヨウニ、より大きな闇に駆逐さレル」
「ああ。選択肢を隠す存在は必ず生まれ来る。望むのも、阻むのもまた人間だからだ」
「人の願いが、ヒトによっテ失われルノであれバ、お前ハ何ノためニ人間を守ル?」
「守らないよ。守る、ということは敵を設定しなければならない。では、何を敵とする。害悪か。害悪となりうる人間そのものか、はたまた因子を生み出すこの世界か」
「…………指針なき、欲ノない断罪、ナド」
「悪を殺す。ただそれだけだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「………ヴヴッ、ヴヴヴヴゥ」
それは笑みだったのか。自らを排斥する世界に対する怨嗟だったのか。
ハルの肉体に黒雪が降り注ぐ。機械の足に付着、綿が押し潰されるように凹んで溶け消える。頭部に舞い降り頭頂部を削り落として床に血と脳漿を撒き散らす。
物言わぬ死体に群がる蟲のごとく、骨の一欠けらも残さずに全てを消し去った。
誰にも知られず、見取られることなくハルという死者の蘇生を望んだ女は喪われた。
あれだけあった〈知核人機〉の詰まった装置も破壊し尽くされ、それどころか床まで突き抜けていた。底の見えない闇がぽっかりと空いている。
「……さて」
何事もなかったかのように、千影が刃のない柄を振るう。
風を切り裂く音。鎖天桜花は元通り黒い刀身を世界に晒していた。
もう一度振ってから鞘へ収める。
肌寒い。刺すような激しい威圧感が発されている。
誰かはもう問うまでもない。
「娘、よく汲み取ってくれた」
「見境なしなんですね、貴女の能力とやらは」
「だが、勝つためには他に方法はなかった。なんだ、私が殺したことが不満か」
「……どういう、ことなんですか」
「どう、とは? 抽象的な問いかけで揺さぶっているつもりか」
「ふざけているつもりはありませんけど」
リオンから千影へぶつけられる問い。第二戦……ではなく、番外戦と言ったところか。
結果的に自身の願いの成就、〈知核人機〉を完全なものにするためにハルがリオンの両親を殺害し、技術を奪った事実は変えることはできない。
殺さないと宣言していたリオンを前にして千影はハルを倒したが、代わりに倒してやった、などという感情は一切ないだろう。
「霊剣に関することか。今後も娘が持つことはない武器だ。尤も貴様の〈水神の聖具〉も知識から引き出したものを水を媒介にし、霊力で固定して物質化しているのだがな」
「随分と詳しいのですね。ですが、私達にまで隠した理由はなんでしょうか」
「隠す? 鎖天桜花のことか。それとも亮の霊剣である朧月のことか」
「両方です。私は、本当にここで……死ぬもの、だと」
「〈灰絶機関〉に加入した時点で、その程度の覚悟はできていると思っていたが、まだまだ甘っちょろいな。いい加減殺しを認める算段と、殺される覚悟くらいしておけ」
「蒸し返さないでください。〈死神〉のことも、霊剣のことも、貴女は大事なことは何も話してくれない。戦わされ、手足として扱われる私達には知る権利があるはずです」
リオンが俺を抱きかかえたまま大声で問答を続ける。
体に響く音の衝撃が辛い。千影が小さく鼻で笑う。
「もう、貴様は目的を果たしたはずだ。仇は見つかり、そして討たれた」
「それ、は……そう、ですけど」
「まだ戦う理由があるならば残ればいい。貴様の能力は有用だ。残ってくれるならサポート役につけてやれる。それでも霊剣を扱うことはないだろう。それでも知りたいのか」
いや、リオンに抜けられては困る。単純な戦力の低下ではなく、個人的な理由で。
リオンが引き継いだ〈死神〉の力。
クラッドチルドレンが戦い、生き抜くための戦闘力。
執行者が執行者であり続けるために、断罪の刃を振るい続けるために必要な能力。
俺にとっては、あの最悪の戦争で生き延びるために必要不可欠だった。
全ての害悪を切り捨てるという、霊剣に願った望みと共に俺自身に刻み込んだ。
やれやれ、といった調子で千影が溜息を吐く。リオンが知りたい、と返したか。
「既に告げた通りだ。霊剣は人間が使うのではなく、人間が使われる。霊力や魔力を消費して人間が持つ願いを世界に結果として刻み込む……いわば、魔法の杖だな」
「そうではなく、私が聞きたいのは霊剣がどこから生み出されるのか、です」
「聞いて、どうする?」
「貴女の、本当の目的が分かる……そう、私は思っています」
リオンの声には、かつてあった迷いや揺らぎ、怒りや悲しみなど感情的な要素は含まれていない。心を冷えさせ、純粋な情報の渇きを訴えている。
俺自身も思うところがあった。千影が、本当は何を願っているのか。
「繰り返しになるが、私の……〈灰絶機関〉の
目的は変わらない。やることも変わらん」
「ですが、命には限りがある。クラッドチルドレンの呪いから
解き放たれても、ヒトは寿命という刻限の鎖からは逃れられない」
「無論だ。だが、力は引き継がれる。娘や、亮のように前任者の魂を食らっていく」
「どちらにせよ、引き継いだ段階で私は逃げられないじゃないですか」
「魂は、な。死ぬまでは普通の人間として過ごしても構わんぞ」
「……できると、思っているんですか」
「できないから、〈灰絶機関〉は成り立っている」
罪の意識から逃れることができるのか、できないのか。
もういいか、と言いたげに千影が手を振る。
「私がかなり霊力を消費したのは事実だ。貴様も、亮ももう休め」
「……まだ、答えてもらってませんが」
「ハン。回答とやらをくれてやるとすれば……そうだな。
もし、境界を切り開くことができれば、可能かもしれんな」
言い捨てて、千影が歩き出す。向かう先は俺達が降りてきたエレベーターのある方。
鎖天桜花を振るって道を切り開く。硬い床を叩いていく靴音だけが聞こえ、遠ざかる。
千影はハルを殺害したことにも動じない。ただ、害悪を滅しただけ。
野放しにして被害に遭う者と、これから生み出される技術によって幸福になる者達と天秤にかけて、軽い方を切り捨てた。
正しいのか。それとも間違っているのか。
確かにハルの願いは極々個人的なものだった。だが、そんなものは誰だって抱えている。当たり前のように持っていて、表に出したり秘めたりする至って普通の情動。
ただ犠牲になり犠牲にされたのは何の関係性もない者達だ。
そして、ウランジェシカ帝国がアルメリア王国に戦争を仕掛ける理由はない。
各国を刺激するような発表を行うこともない。
「……ねぇ、亮」
「どう、したんだ」
思考を止めて答える。ゆっくりずらされ、手を引かれた。
立ち上がる。眼前に立つリオンの表情には複雑な感情が見える。
何も言えない。気持ちを表にはできない。
だから憶測から来る気晴らしの戯言を紡ぐことにする。
「多分、ブリズ女帝も……ただの少女だった。彼女なりの、愛した人への誠意だった」
「うん。多分、そうなんだと思う。だって、私は――」
「いいんだ。もう……いいんだよ」
立っているだけでも結構辛い。その上、寄りかかられてしまえば余計に。
刃助ではないが、いくらなんでも拒むことはできなかった。
血で汚れるのも構わず、リオンは幼く落涙し始めた。




