2-20 終わりの始まり
濃く深く、血臭が辺りに漂う。
灰色の雲が空を覆い始め、陽光の届かぬ薄闇の世界を作り出す。
太陽という存在が排除され、同時に照らされようが月が見えるはずもない。
だが、〈渇血の魔女〉の掲げる月は既におぼろげな輝きを見せていた。
地面。遠く、だがはっきりと輪郭が浮かび上がっている。
ハインリヒが銀の剣で刻み込んでいたのは、外界と区切るための境界線であり、私達を逃がさぬための鉄条網。
血のように赤く、茨よりも複雑に絡み合った文字列が浮かび上がる。
目が覚めるような、魂の奥底にある原始的な感情を引きずり出す鮮やか過ぎる紅の陣。
ハインリヒの、小指だけを立てた右手が振られ、改めて握り直して人差し指を立てる。
そのまま指し示すのはオルトニアと、恐らくは精神の中に潜む私。
「さあ、血を差し出してもらおう。後一つで全ては終わり、始まる」
「……私が、そんな絶望と混沌を生み出す禁忌を受け入れるとでも?」
オルトニアの視線が動く。一瞬のうちに命を刈り取られたアリエルとイージェス。
エピタフに食い千切られ、細切れになった遺体は醜く大地を赤黒く染め上げて、染み込んでいる。
エピタフの、人間に戻ることすら叶わなかった狼の頭が憤怒に濁った眼球を晒す。
何も感じていないわけではない。
罵り合い、時には拳を剣を交えて斬り結びながらも共にこれまで戦ってきたアークチルドレン。生まれた場所も、種族も、生い立ちも関係なくたった一つ志したものがあった。
目を細めてハインリヒが言葉を繋げる。
「既に暗き絶望の淵に立っていると思ったが、存外にしぶといな」
「もう、そんな段階は過ぎ去りましたから」
「貴様も半分とはいえ〈渇血の魔女〉の血を持つ者。人間に情などないか」
「いいえ」
違う。今が、嘆くことも憤ることもすべきではないと知っているだけ。
〈渇血の魔女〉であっても、人間であっても変わらぬ繋がりと営み、その先にあるものを、何を差し置いても守るべきものを。
「ふむ。そっちの、無能な指揮者には効いているようだが?」
「いいえ」
再び否定し、クレスを見る。
項垂れ銀の前髪に隠れて表情を伺うことはできないが、立ち止まっているわけではない。エグザスに揺さぶられ、精神を乱した少年の姿は、もうない。
アークチルドレンは、各々が胸に秘めた命の使い方に従って、散っていった。
誰も、恨んで死んではいなかった。その気高さと歪まぬ意志の強さは敵対者として見て来た私が、セラがよく知っている。
ハインリヒが笑う。遥か高みにいる、絶対的に優位な立場で弱者を嘲弄する。
「ならば引きずりこんでやろう。我が開闢のマテリアルが切り開く……踊り狂え、コープス・デザイア」
五指を開いた右手が虚空を叩き、生まれた二つの波紋が紫紺と深紅の光を放つ。
みちり、と心臓が締め付けられたような息苦しさを感じる。
陣を築き上げて満ちていく血臭の濃さよりも、強い不快感を与えるもの。
新たに生まれた気配に即応して、オルトニアが視線を動かす。
「一体、どこまで」
人間を馬鹿にすれば気が済むのか。
鎮めたはずなのに、また奥底から沸々と怒りの炎が燃え立つ。
ゆらりふらりと、酒に酔っているようにおぼつかない足取りで立ったのは心臓を焼き貫かれた二人の少年。
アリエルと、イージェスがぐるぐると眼球を動かしながら呻く。
「あ、う、ぁぁ……」
「は、かっ……ぎ、ふぅ、くるるる」
意味のある言葉を吐かない。焦点が定まらぬ双眸は今も過去も未来も、どこをも見ていない。分かりやすく濃密な霊力が肉体の穴という穴から放出されている。
否、放出されているのではなく包み込まれて侵蝕されているのだ。
もう動かないはずの、命を失った者が強制的に動かされている。
かつてリヴェンナという人間嫌いの〈渇血の魔女〉が得意げに語っていた死体を動かして兵隊とする〈失われし血晶〉だ。
一点だけ異なる部分がある。アリエルとイージェスの肌が、まるで水分を搾り出されているかのように深く皺が刻まれ、次いでひび割れていく。
ぽろぽろぼろぼろと、剥離した皮膚細胞が鱗を剥がすがごとく落ちる。
「踏み止まるのならば、突き落としてやろう。抗えぬほど、這い上がれぬほど深き闇へ」
ハインリヒが口角をあげて告げた。
虚ろな瞳で、アリエルが拳を握る。体を覆い包む魔力が形となって、新たな得物を与えた。爆散し失われたエクスボマーに酷似した大剣が。
「あ……う、あっ」
呻き声は置き去りにされていた。瞬時に距離を詰めたアリエルの体が勢いよく大剣を右肩に担ぎ上げ、振り下ろす。
「ふっ」
「うあ?」
短く息を吐いて、オルトニアは蒼と紅の双剣で受け止めた。
アリエルだったモノが不可思議そうに首を傾げる。
微塵も揺るがず真っ直ぐに、単調な叩き付けをいなし、後ろに流していく。
「あるるるぅっ」
咆哮とも呼べぬ、甲高い奇声をあげて操作されたアリエルの体が大剣を力任せに振り回す。右を右側で受け止めて打ち返し、反動で叩きつける一撃を下から跳ね上げる。
もう見ていられない。
「アリエルは、死にました。私達に道を遺して、勇敢に往きました」
何度も大剣を打ち付けられ、双剣を握る手に衝撃が走り、骨身を揺るがす。
エピタフとエグザスが命と魂を削りながら響かせた剣戟に匹敵する威力を持つが、余りに単調に過ぎる。馬鹿正直に大振りの斬撃を放つだけ。
まさに、操られた存在。オルトニアの心を埋め尽くす寂寥感という感情は、同調する私の唇にも痛みを呼び、口の中に苦い味を覚えさせた。
「あうらぁっ!」
奇声と共に振り下ろされる何十回目の振り下ろしを、後ろに跳んで回避。
さらに跳躍して距離を取る。一方でクレスがイージェスと打ち合っていた。
「くるるるるぅっ」
アリエルだったモノよりも、さらにハイテンションに跳ね叫ぶイージェスだった遺体。
右に左にと腕を振るい、腕についた雫を飛ばすように体を包む魔力から刀剣を生成する。生前の、エクシズブレイドによる投擲を再現したものだろう。無数の刀剣が空を引き裂いて、標的に命中することなく粉々に砕かれる。
右上から、左上から薙ぎ払うアークスレイヴァーの刀身が風と共に破片を巻き込み、粒子となって世界に溶け消える魔力を吸収していく。
こちらも稚拙で単調な、馬鹿の一つ覚えの繰り返し。
何度目なのだろうか。マルガレッタから吸収した分も合わせて、大剣のように膨れ上がったアークスレイヴァーの刃を大地に突き刺し、クレスが口を開く。
「命を失った体に、魂が宿ることはないよ」
切り捨てるように言葉が落ちた。
ハインリヒが目を細めたままクレスを、私を見ている。
唇は笑みを浮かべているが、実際には不愉快であることが瞳の揺らぎで分かった。
「何故だ。何故、戦っていられる」
本当に、分からないのだろうか。何故、と聞きたいのはこちらの方だ。
ハインリヒの思考が漏れ出し、私に伝わってくる。
リヴェンナを殺害したことで調子に乗り、たった六人で我らを攻め立てた傲慢さ。予測できたエグザスの非難に精神を揺さぶられたメンタルの弱さ。部下を駒扱いできず、尊重しようとした挙句足の引っ張り合いにない、失う間抜けさ。
これだけの業を積み重ねた身で、どうして〝死んだ仲間が蘇り、操作されて牙を剥く〟現実に耐えられるのか、分からない。
私には、こんな単純な答えにすら辿り着けないハインリヒの思考回路が理解できない。
「あなたは、周りが見えていない。ただ一つの目的に全てを費やしてしまっている」
私は、オルトニアの声帯を借りて言葉を返していた。
同調しているオルトニアも頷いている。
まるで最初から強すぎる思念に支配されているかのように、ハインリヒは〝人間の全てを蹂躙し、嘲笑っている〟のだ。
オルトニアの体を通してクレスを見る。クレスもオルトニアを、私を見た。
同じことを考えている。そう思った瞬間に体が動いていた。
憤怒や慟哭の響きに応えているわけではなく。
「あうあー……」
いないものを、失うことはない。駆け出したオルトニアは、自らの霊力を注ぎ込んで紅と蒼の双剣ヴァルキリウルを振動させる。
相も変わらず大剣を振りかぶるアリエルだったものへ、すれ違いざまに一閃を刻む。
「うあ?」
ずるり、と世界が切れて落ちた。血液すら流れず、大剣を握った腕がそのままの形で地面に落下、重力に引かれてぶつかった衝撃で砕け散った。
魔力で死体を動かし、限界以上の力を引き出す。
代償として要求するのは刻限つきの体。力を搾り出せば、出すほど渇いていく脆くて弱い肉体を維持できずに風化していく。
クレスも、迷いなくイージェスだったモノを胸下で真横に両断し、沈めていた。
「馬鹿なっ! こんな、はずでは」
驚愕を隠さずに叫ぶハインリヒへ、クレスが静かに問う。
「ハインリヒ。貴方は、散々味わってきた。仲間を失うことを、無残に殺されるのを悔いて、倒されない力を得たはずだった。それでも、敗北する理由……分かりますか」
「貴様は、幻想を語った。絶対に叶うはずのない夢物語を、セラまで汚染させてっ!」
「汚染されているのは貴方の精神だ。貴方は、失われた同胞の悪意に操られている」
「……違うっ!」
強く、ハインリヒが否定する。
だが違わないと私は思う。
確かに人間は古来から同族同士で戦い、ないものを他者から奪い去る戦いの日々を繰り返してきた。
何度停戦され、調停を組もうが一時的なもので、恒久的な平和など実現しなかった。
それが唯一形となりかけたのは、〈渇血の魔女〉が生まれてからだろう。
〝共通の敵〟を認識することで初めて敵同士が手を取り合い、より巨大な敵を殲滅するために動いた。
クレスが、ゆっくりと首を振ってから続ける。
「僕達だって、誰も失わないで済むのが一番だとは思います。ですが、どうしても障害が生まれる。そして、障害を排除しないことで生まれる可能性のある被害者を守るために、アークチルドレンは動いた。武を離さぬ者の手から、武を奪い去るために」
「それは貴様達の理論だ! 人間の、都合のいい詭弁だっ!」
「否定は、しません。真実かもしれません。ですが、だから奪っていいはずがない」
「……先に奪ったのは、人間だ」
「失う痛みを知っていて、失わせるのは、正しいことなんですか」




