2-19 血染めの月
森林は、豊かな緑は破壊の魔力波動によって焼き尽くされ、今はただ荒れ果てた大地が広がるばかり。ただ、元凶であった存在は唇から赤い雫を流している。
「ハインリ、ヒ……何故、こんな、真似を」
「繰り返させるな。貴様は死なねばならぬ。セラのために、な」
「討つ、べきは、ストラ……セラをいじめる、ストラこそ」
「あれが人類の悲願などという醒めぬ夢に脳髄を犯され、セラを実験材料とすることは最初から分かりきっていたことだ。貴様も、人間を憎んでいるのならば何故分からぬ。連中の度し難いほどに醜悪で、果てのない貪欲さ。そのためならば倫理すら棄てる浅ましさを」
途切れ途切れに言葉を吐くマルガレッタに対し淡々と答えるハインリヒの瞳は、まるで羽をもがれた蝶を見るような冷徹さをはらんでいた。
それは同族を、家族を見る瞳ではなく単純に結果を導くために必要な行動、必要な処理をされたモノに対する無遠慮なもの。用済みだ、と蒼い瞳が語っている。
動けない。つい先程、マルガレッタはクレスの意志に同調する姿勢を見せてくれたというのに、ようやく意味のない争いの連鎖を終わらせることができると思ったのに。
ハインリヒがオルトニアを、その中にいる私を見透かしているように見つめる。
「救おう、などと無駄なことは考えるな。間違って死んでもらっても困る」
「それは、どういう……」
「喋るな。問う権利を与えてはいないし、制止するために言葉を考えるのすら煩わしい。黙ってそこで順番を待て。我が術式が刻まれた地で効を発するには正当な手順を踏む必要がある。そして、発動すれば和平などと世迷言をほざくこともなくなる」
刃のように鋭い。反論すれば、動けば無事ではすまない。
そんな直感的な死のヴィジョンを体中に感じさせるほどの、圧倒的なプレッシャー。
エグザスもこれまで斬り結んだ中では相当の使い手だったがハインリヒの持つ魔力は比較にならない。
自身の強化と魔術素養に秀でたエグザス、破壊の魔力波動を常時展開しながら麻痺毒や鉄をも溶かす毒霧を生み出す膨大な魔力を持つマルガレッタ。
言うなれば、ハインリヒは双方の力を併せ持っている。
気が緩んでいたとはいえ、防御も許さず一撃で心臓を撃ち抜く膂力と正確さ。
反論を許さぬ言葉の重み。
それでも、跳ね除ける。ただ睨み合っていても何の意味もない。時間と共に流れ続けるマルガレッタの血液。いかに高い自己再生、自己治癒能力を持っていようが生命体として必要不可欠な心臓を深く損傷しては回復する見込みは薄い。
何せ、各種の物質を体内に駆け巡らせる血液が正常に機能しないのだから。
対策を、何か現状を打ち破る方策を……そう考える私とオルトニアの心境を読んでか唇に小さく笑みを乗せてからハインリヒが言葉を生む。
「不思議そうだな。何故分かるのか」
「語り合う気はない、のでは?」
「何、余興だ。どちらにせよ、あれは死ぬ。死んでもらわねば困る。邪魔をするのならば、貴様も殺す」
「……そう簡単に殺されてやりませんよ」
体にまとわりつく畏れを振り払って、オルトニアは自身の霊剣ヴァルキリウルを強く握り直す。セラも、諦めたわけではない。
オルトニアと同調している今ならば、ハインリヒが神速の雷剣を投擲したとしても避けるか受け切って魔力を振動させ相殺する自信はある。
クレスもアークスレイヴァーの刃を落とし、地面を叩く。
マルガレッタから刈り取った破壊の魔力波動。
衝撃を爆発力に変換するエクスボマー、同様に無数の剣を生成するエクシズブレイド
霊剣の秘めたる力で切り抜けられる。
「思惑を知りながら、泳がせた理由は……一体、なんですか」
だが、クレスの唇からこぼれたのは覇気のない弱々しい問いだった。
何故とオルトニアが、私が思うがすぐに理由に気付く。
――ウォルルルルルルゥ
遠く、雄叫びが聞こえる。魂が枯れ果てるほどの慟哭が響く。
エピタフの、巨狼と化し失ったものを奪ったエグザスを叩き潰し、さらに深く大きく空いた空白の虚しさを叫んでいる。
失わせたものを潰したところで、奪われたものは戻りやしない。
分かっている。だから、クレスも弔い合戦など願ってはいない。
決死の覚悟でエクスボマーを爆散させ、痛みにもがき喘ぐアリエルや、文字通り命を削って剣を生成したイージェスの意志を汲み取って対峙する。
届きかけた、分かり合えたものを守る……守りたい。
ハインリヒが溜息を吐いた。
「貴様らは一から十まで説明せねば理解し得ないか。いや……人族とは、そういった面倒な種だったな。自分達が理解できないものを知らず、分かろうとせずに、それでも争い食い合う癖に、亜人に対しては尊大に振舞う。自らもできていないものを求める」
「同じだと思うけれど、ね。ハインリヒ、貴方がマルガレッタの意志を汲まないように」
「無駄な問いだ。これしかないのだよ。仮に、我ら全員で迎え撃てば貴様らなど造作もなく葬ることはできただろう」
びくん、とクレスが肩を震わせる。
恐怖ではなく、無意識のうちに心境を見抜かれた驚愕によって。
オルトニアも、私も同じ想いだった。やはり、気付いている。
ハインリヒが右手を掲げ、五指を広げる。
「貴様らを葬ったところで、また小うるさい〝魔滅者〟が来る。うじゃうじゃと、後から後から際限なく。もう我らには、そんな有象無象と戦い続けるような時間も、同胞の魂である〈失われし血晶〉を使ってやる義理もない」
「だからセラを、同胞を犠牲にする、と?」
「繰り返させるな。貴様らがくだらぬ命を投げて、マルガレッタの魔力波動による防御を打ち破ってみせたではないか」
「あれは、話し合いの場を築くためで、」
「武を奪った武という点は変わらぬ事実。そして、ストラがこぼしたであろう魔女再生計画も同じ意味合いを持つ。もっとも、真実を知るのは我のみではあったが」
微笑んだハインリヒが、いつまでもくだらないことを聞くな、といっているように見えた。血液が沸騰する。死を嘲笑う姿に、その首を刈り取りたい衝動に駆られる。
が、それでは同じだ。
憎悪と憤怒で築き上げられ、繋がれた負の連鎖と何も変わらない。
憎み、殺したいと、赦せぬと考えてもどちらかが断ち切らねばならない。断ち切らねば前には進めず永遠に輪廻する。
ハインリヒが右手の親指を内側に折り曲げて言葉を紡ぐ。
「死は万物に訪れる。永劫を生きたとされる〈渇血の魔女〉は様々な世界に課せられた制約によって倒された。我がなすのは、かつて禁忌とされたものだ。死なずのものが、それでも死を畏怖し導き出した答え。即ち、いかに生存するかという種の保存則だ」
種の保存。そのルールを築き上げる。
人間と同じように、元来同族と愛し合い育まれた命だけで繋いできた血統。
手段さえ選ばなければ、確かにいくらでも増えることはできるだろう。
例えば、ストラが繰り広げていたように人間の細胞を利用して作り上げたクローニング技術による生命体。倫理を歪めて生み出された存在。
クレスが苦々しく表情を歪めて告げる。
「ストラの、人の道から外れた行いを利用して〈渇血の魔女〉を残す、と?」
「土壌だ。予測済みだと言っただろう。あれは、必ずそうすると。だからこそセラを差し出し、エグザスを奮起させた。奴も浅い自尊心に溺れて、愚図のように潰れた」
「……仲間を、なんだと」
「何度繰り返させる。我が望む結果の、過程に必要な存在が必要なように死んだだけだ。貴様らも奮い立ったではないか。死を無駄にしないために、と幻想を抱いて」
実に、くだらなさそうにハインリヒが文字通り吐き捨てた。
また開いた残る四指のうち、人差し指を親指の上に重なるように内側に折る。
「確かめる必要があった。貴様らの中に必要な素材が全て揃っているかどうか。眠れる血を呼び起こせる要因を作ってやった。強い亜人と、強大な魔力を持つ半分の存在」
ハインリヒがオルトニアを見る。続いて、瀕死のマルガレッタへ視線を注ぐ。
「第一に境界すら破壊する魔力波動を持つマルガレッタの血液。様々な亜人種の中でも根が深く激しい闘争本能を持つ〈人狼〉種。そう――」
『ガルルルルルゥゥゥッ』
飛び出す。同時に、巨躯がマルガレッタに襲いかかった。
感覚を、仲間の波長を感じる部分を麻痺させられていた。近づいていることを、打開できる瞬間を待ちわびていたのに、エピタフだった巨狼は本能のまま引き裂く。
凄絶な悲鳴をあげてマルガレッタの肉体が細切れにされ、鮮血と共に飛び散る。
クレスも、オルトニアも剣を握る手を振り上げることはできなかった。
どう変わってしまっても、目の前に存在する、顎を爪を毛皮を紅に染め上げる狼は仲間であるはず。
あるはず、そのはずで、だからこそ何とか、救わねばならなくて。
「ぎ、がっ、あぁぁぁっ」
砕けた自らの霊剣の破片を全身に喰らい、悶えていたアリエルが叫ぶ。
が、咆哮と一緒に吐血した。倒れた体に突き刺さっているのはマルガレッタにも致命の傷を与えた雷剣。さらに一本、ハインリヒの左手が生み出した刃が空を焼く。
「が……っ」
大きく一度体を跳ね上げて、イージェスの体は動かなくなった。
並んで絶命した二人のアークチルドレン。
「喧しい」
何の躊躇もない、虫を踏み潰す絶対者の横顔だった。
ハインリヒがさらに中指を折って、薬指も中指に添えるように内側へ折る。
「一つ、二つと足して……不快だが、人の境界に侵入するために必要になるヒトの血」
空いている左手を叩き、ハインリヒは魔の扉を開く。
「開闢のマテリアル、切り開け……断ち切れ、ヴェイジング・エッジ」
深緑の閃光が瞬いて、風の刃を作り出す。
引き寄せられるようにオルトニアが跳躍、ヴァルキリウルで受けて相殺し打ち消した。だが、背後で重い音が響く。
ごとり、ごろごろと転がる何か。
振り返りたくない。そう思っても、振り返らざるを得なかった。
赤黒い軌跡を引いて、頭を失った巨体が地面に沈む。地響きと、舞い散る砂埃は自らの精神が形を失って崩れ去っていくさまを幻視させた。
「いかに強力な無効化能力だろうと、反応が追いつかねば意味をなさない」
漆黒に紅蓮の色合いが混ざった、禍々しい炎の揺らめきを見せるハインリヒの左腕。
「さあ、これで三つ目まで揃った。境界を打ち砕き、眠れる力を引き出し、全ての種族を繋ぐ。後は膨大な魔力を使って連結するだけだ。我の意志と、セラとを」
ハインリヒは風の刃を放った直後に、新たなマテリアルを使っていた。
気付いた時には全てを失って。自らの手で同胞を生贄にした男が再び絶対零度を瞳に宿して宣告する。
「後は貴様を殺害し、セラの意識を刈り取る。儀式は完成され、セラの血液が行き渡ったクローン共は細胞を破壊され、覚醒した〈渇血の魔女〉の因子に食われて造り換えられる。配列式、構造が組み上げられて新たな体を動かすために血液を欲する」
オルトニアは、聴覚を共有する私は震え上がった。
最初からストラへ私を差し出し、エグザスやマルガレッタを分散して配置していたのは、全て儀式に必要なものを一度に揃えるため。
ある意味では、延々と続く殺し合いの連鎖を終わらせる方法。
種の保存だけを目指す、禁じられた扉を開こうとしている。
これまで〈渇血の魔女〉の血を保つために口にすることすら憚られた〝吸血〟による繁殖。因子があらゆる種族の遺伝子を破壊し、組み替えられては次を欲しがる。繰り返し、吸って送り込んで地球上を〈渇血の魔女〉で覆い尽くすまで。
引き裂くように笑う。間違いなく、至上最強の〈渇血の魔女〉が。
「さあ、掲げようか。ヒトを駆逐する〝血染めの月〟を」




