2-18 ほろびのうた
生い茂る葉の切れ間から太陽光が差し込む。
かつて、太陽に焼かれていた頃は感じることのできなかった暖かさ。
全身に浴び、それでもより暗きものが鼻の粘膜を突き刺す。
森林の中で匂い立つ。嗅覚が敏感に働き、濃密な死の臭いを感じ取る。
ああ、戦場へ戻ってきた。少女の五感が、まるで最初から自分のものであったかのように感じる。同じ〈渇血の魔女〉よりも、エグザスが混ざりモノだと見下したオルトニアの方が深く強くアクセスできているのは皮肉なのか。
「おい副隊長サマよ、どうすんだこの状況っ!」
「ふせ、げんのか……コレ?」
指示を求めるイージェスと、圧倒的な魔力に気圧されたか控えめに問うアリエル。
彼らを纏め上げて指示を出す役割を担う隊長、クレスは覇気なく視点を定めぬまま、ここではないどこかを見つめている。
頭が頭として機能しない以上、誰かが代わりを担う。
この場合は副隊長と呼ばれたオルトニア・アーク。共有された感覚は、さらに奥の感覚では掴めない場所まで入り込む。魂まで至り、刻まれた記憶という情報の水槽を泳ぐ。
最も人間との交わりを嫌悪していた同族殺しの〈渇血の魔女〉、リヴェンナ。
彼女を殺した者達。アリエル、イージェス、ウルク、エピタフ……クレス。救われた身でありながらクレスの中にある〝人間が持つ善性への妄信〟に触れたこと。
望まず生み出された半分の体と血。魔に連なる者でありながら、魔力を打ち破る破魔の能力を持つ少女。疎まれた生に意味を与えてくれたのは、手を差し伸べた少年の言葉。
暖かい。
胸の奥に仕舞われながらも、熱を帯びる想いは心地よい温度を伝える。
久しく……いや、私は恐らく一度も感じたことがないモノ。今までも、この先も得るはずのないもの。体を内側から熱くさせる情動の意味を、知識では知っている。
知っていて、実感したからこそ悲しみという感情も噛み砕いて飲み込むことができた。
マルガレッタの嘆きは言語としての意味を失い、ただただ悲しさだけを撒き散らしている。感情のまま全てを失くしてしまおうと魔力波動が世界を侵す。
オルトニアは考える。私も思考を回し、マルガレッタを止める方策を探す。
アレが魔力波動である以上、恐らくこの手にある蒼と紅の双剣、ヴァルキリウルの無効化能力は働く。
ただ、このあらゆるものを飲み込む魔力波動は〝衝撃〟として吸収できるか否か。
魔力波動はゆっくりと迫り来る。動きは遅いが、確実な崩壊が待つ。
赤黒い魔力が木々を侵蝕していく。葉が生ある緑色を失って朽ち、枯れ落ちては散る。
落葉ではなくただ壊し殺す。文字通り命を散らした葉は灰となって風に攫われ、どこかへ去っていく。
衝撃として受けるのは無理だ。
そう思った瞬間、死を生み出す破壊の元凶、マルガレッタが私を……オルトニアを見た。
見開かれた瞳は血走り、唇はエグザスの名を繰り返し呼ぶ。
両手を掲げ、探し物を求めるように虚空を探る。探し当てることなどない、見つかるはずのないものを手にしようと。
「エグザス、エグザス……どこ? どこへ行ってしまったの?」
痛い。槍で胸を抉られたように、喪失感に苛まれる。
オルトニアの中にも失われたものがあった。〈渇血の魔女〉が四人のうちの一人、エグザスを失ったようにアークチルドレンも一人欠けてしまった。
私もこの目で見て感じた光景、それだけでなく感覚を同調させたことで奪う感触まで手に心に情報が染み込んでいる。
守りたかったものを、ウルクを目の前で殺され自らに突き刺した罪業の炎で燃え狂うエピタフを。自らを喰らい巨狼となってエグザスを粉砕する瞬間を、ただ見ていた。
同じ場所から這い出てくる闇に蝕まれている。
「止めないと」
オルトニアは無意識に呟いていた。
私と少しずつ繋がって、リンクしていく。
深く重なり意識に潜ると共に意思を伝える。互いが互いを憎しみや怒りで害し、害されるのではなく原因を生み出す災厄そのもの、ストラを滅ぼすために動くべきだと。
「私は、隊長の意思を尊重して動く」
それは、あくまで倒すのではなく救う方向で動くということだ。
結果的にだが、エグザスの力を図り切れず任せたことでウルクを失ってしまった。言い換えればオルトニアの判断が殺したと言ってもいい。
言葉にしたものの、仲間を殺した自分に指揮する権利があるのか。
しかし、待っていても状況は好転しない。失った命は還らず、援軍も見込めない以上は自分達で何とかしなければならない。
葛藤している間にマルガレッタの瞳は私を視界から外して左右を、もう無くなったものを探す。ぶつぶつと口の中で同じ名を呼び続けながら、ふらりふらふらと歩く。
まるでオルトニアを、アリエルをイージェスを意識的に認識から外すように徘徊していた。隙だらけだが、マルガレッタの体から放たれる破滅の魔力波動は漏れ続ける。
近づけない。違う、オルトニアが双剣ヴァルキリウルを盾に前へ出るべきで。
「くそっ……何もしないでやられるよりは!」
命令を下さない副隊長に焦れたか、アリエルが己を奮い立てるよう叫んで大剣エクスボマーを握り駆け出す。
ぎょろりと、声に反応したマルガレッタがアリエルを睨んだ。
「貴方が奪ったのですね。私の、エグザスを」
「は? 何の話だよ」
「返しなさい。今すぐにっ! ああ、憎い憎い……愛しい同胞を奪った人間達が!」
背筋に冷たいものが流れる。
マルガレッタが右手に深紅の、左手に深緑の輝きを宿し、言葉を紡ぐ。
「忘念のマテリアル、叫びなさい……焼き散らせ、ヘヴンス・ヴォルカ」
轟、と炎が吹き上がり、周囲の風を巻き込んで嵐となって吹き荒ぶ。
アリエルはエクスボマーで受け流しながら後退し、入れ替わりにクレスを下ろしたオルトニアが走る。イージェスが支えてアリエルと共にさらにクレスを後ろへと下げていく。
ほぼ積み上げられた経験だけで、肉体に精神が吐き出す危機感に従って動いていた。
クレスはまだ呆然としたまま、動けない。
誰も失わず、殺させず言葉による解決を望む。武力は武力を奪うためのもので、決して痛めつけたり苦しめたりするために使うべきものではない。
そんな叶えられぬ理想が焼き焦がされていく。
が、オルトニアが走っている。火炎旋風を前にして、腰の双剣を抜く。
「…………こ、のおぉぉぉっ」
晒されたヴァルキリウルの刀身が魔力を帯びて、蒼と紅に染まる。
左下から右上へ、右下から左上へ剣が閃く。決まった形を持たないはずの炎が切断され、霧散していく。
かき消した魔力を吸収してなお濃くヴァルキリウルの刃は輝きを増す。
さらに右から左へ、左から右へと双剣を振って完全に炎の嵐を消し去った。
「オルトニアっ!」
「……ッ」
初撃を防いで安心したのもつかの間、マルガレッタの手が虚空を叩き、別の色合いを持つ波紋を生み出す。
迸る閃光と、新たな熱。
感じた時には既に、オルトニアはヴァルキリウルで受けていた。
火花が散る。視界を奪い、爆ぜた熱が前髪を焦がす。熱風に当てられ、頬が熱くなっていく。剣で魔炎を払い、大きく息を吐き出す。
襲いかかる紫電を切り裂き、雷を地面に突き刺した刃から流していく。
ヘヴンス・ヴォルカに続きヴォル・ボルトまで防ぎ切った。
魔力をもって魔力を防ぐオルトニアの力は、まさに戦いを取り払い、真正面から人間と向き合うための意志の表れだ。
マルガレッタの〈失われし血晶〉を受け止め、流す。
だが本体へ牙を剥くことはない。繋がっている感覚が、溶け込んでいる精神が伝えてくる。オルトニアの中にある使命感と成し遂げる資格があるのか、と悩む心がせめぎ合う。
未だ虚ろな目をしていながらも、クレスは碧緑色の鞘から抜いた直刀アークスレイヴァーを手に火の粉や空を走り抜ける魔の雷を弾き飛ばしている。
これも条件反射で体が〝仲間を守る〟ために動かしているのだろう。
戦を繰り広げる者の命を握る支配者は、必ず同じ言葉を吐く。
――敵となるモノは殲滅しなければならない。でなければ、真の平和など訪れない。
本当にそうだろうか。
「忘念のマテリアル、叫びなさい……焼き穿て、ヴォル・バレット」
緋色の輝きが垣間見えて、瞬いた光が形を得て空を引き裂いていく。
音は置き去りにされ、着弾の瞬間ぼふ、とくぐもった響きを残す。
「なーにやってるんだ、副隊長さんよ」
「……ごめんなさい」
「チッ」
防いだのはイージェス。自らの刀、エクシズブレイドで炎弾を叩き落す。
次々と飛来する魔弾を、最初から全て見切っているかのように尋常ではない速度で追い付き落としていくが、いくつかを打ち漏らし肉体を焼かれる。
苦悶の声を漏らすも下唇を噛み、堪えて防御に徹していく。
暗く狭い精神の部屋で、クレスは頭を抱え蹲っている。
オルトニアは静かに背中を見守って、私も同じ場所を見つめる。
「僕は、間違っているのかな。結局、叶うはずのない夢だったのかな」
「いい加減に、してくださいっ!」
渇いた音が響く。信じられない、といった表情で見開いた目を見せるクレス。
私も、何故か驚いていた。アークに連なる子供は、ただの手足ではなく。
「クラッドチルドレンでも、命は一つきり。奪われれば、失くせばもう戻らない。失ったものに報いるのは、彼らのできなかったことをやり抜くこと。いつだって、そう言っていたじゃないですか」
震える声でオルトニアが告げた。
私は頷く。どれだけ嘆こうが怒り狂おうが、この世界にやり直せる、繰り返される生命は存在しない。だからこそ引き継いでいく美徳があり、様々な方策が溢れている。
肉を喰らう、骨を噛む、結晶化した魂を体内へ取り込む。
儀式だ。本当に効果があるかどうかは、意味があるかどうかは死人ではなく生き続ける者達が決めればいい。
迷ってはいても、オルトニアも選択肢がないことを分かっていた。
「ウルクは、恨んでなどいませんでした。隊長に会えて、エピタフという、不器用でそれでも真っ直ぐな少年と会わせてくれて、有難うと、感謝まで告げていた、のにっ!」
涙声で吐き出すオルトニアの言葉に殴られたようにクレスが首を振る。
「ヒトは死にます。〈渇血の魔女〉だって、殺されます。当たり前なんです。死に逝くからこそ、生きている時間を大切にできる。だから、たくさんの感情を胸に抱いて進める」
「……僕達は、前に進むことしか、許されない」
「時には振り返ってもいいんです。でも、今じゃないんです。マルガレッタを、止めなければならないんです。人里に出れば、際限なく殺戮を繰り返す、動く災厄になってしまう! だから、絶対に止めなければならないんです。私達が、ここでっ!」
殺すのではなく止める……最大限の譲歩。
理想を現実に変えるただ一つの方法は、妥協点を見つけ出すこと。少なくとも、蹲って泣いているだけじゃ何も進まず、解決せず、救えない。
「私達はっ! 貴方に救われ、私達みたいな子を生み出さないために動くんです! 障害を突き破る矛で、外敵から守るための盾なんです。だから、例え、死ぬのだとしても――」
ふわりと抱きとめられて、塞がれる。言葉が紡げない。
ゆっくりと離れていく感触に甘さを覚える暇もなく、クレスは明言する。
「止めよう。マルガレッタの暴走を、僕達四人で」
「……了解っ!」
堅苦しく、こめかみに手を当てて敬礼して歩き出す。
いつまでも殻には閉じこもっていられないから。
これが〝人間の強さ〟なのだろうか。
どこから湧き出ているのか分からないが、オルトニアの魔力がどんどん高まっている。
クレスの瞳には明確な意志の輝きが宿り、アリエルが「おせぇんだよっ!」と愚痴をこぼす。
イージェスがエクシズブレイドの能力を解放し、無数の刀剣でマルガレッタが放つ炎弾を打ち落としていくのが見えた。
やれる。止められる。死を乗り越えて、前へ進んでいかなければならない。
限りある命だとしても、恵まれぬ生い立ちだったとしても、同じ悲劇を繰り返さないために戦うことができる。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
イージェスが荒く浅く呼吸を繰り返す。
雨や霰やと降り注いでいた炎弾は止み、赤黒い破壊の魔力波動はまるで気圧されたかのようにマルガレッタの体の周囲に停滞している。
オルトニアを、私達ヒトを見るマルガレッタの瞳は、畏怖と憤怒が入り混じっていた。
「ああ、腹立たしい、憎々しい……忌むべきヒトという存在よ」
マルガレッタがまた虚空を叩き、空間に新たな色彩を放つ波紋を生み出していく。
鮮やかな山吹色と、哀愁を誘う青紫の光が淡く瞬いた。
「亡念のマテリアル、叫びなさい……白夜の煌星を散らせ、パラライズ・ミスティカ」
ふしゅ、と輝きを写し取ったようなサンライトイエローが視界を殺し、薄い青紫の霧が波打つ空間から吐き出されて世界へと垂れ流される。
クレスは体に溜まった毒を一気に表に出すよう大きく息を吐き、吸って言葉を生む。
「アリエル、先行して能力解放。イージェスが後に続き、作ってぶつけて。オルトニアはフォローを、僕はこの一閃で見極める」
「りょーかい、っと」
「了解。ようやくお戻りか」
「了解っ!」
アリエル、イージェス、オルトニアは三者三様の言葉を返す。
それぞれの想いと意図を胸に抱き、自らの分身である霊剣を手に駆ける。
「うらあああぁぁぁぁっ」
指示通り先陣を切ったアリエルが跳躍し、〈失われし血晶〉による魔霧を発生させたマルガレッタめがけて大剣エクスボマーを叩きつける。
下へ向かい引き付けられる重力による加速も加わった一撃は、大地に牙を立てて爆発、掘り起こした土を撒き散らし、霧を吹き飛ばした。
「爆発の次は串刺しを味わってもらおうか……なんて、なっ!」
アリエルに続き、イージェスが自身の霊剣エクシズブレイドを、大きく右上から左下へ斜めに振るう。
空間を断ち割る軌跡は、周囲の空気を押し出し斬撃を目に見えた形で生み出す。
円弧状の斬撃が空を駆け抜け、無数の短剣へと変わっていく。
「児戯に等しき行い……そのようなもの、届くはずがありません」
沸々と内面に激情を宿して、表面上は冷徹に切り捨てる。
赤黒い魔力波動が勢いよく放出され、放たれた短剣をことごとく飲み込み、一瞬で粉砕した。
「ちっ……」
「壊します。ヒトの作ったもの、偽りのセカイ、幻想に溺れるヒトの存在全てを否定して」
「結局、壊し合うしかない、ってのかよ」
「語るな。息を吐くな。私の前で、空気を汚すな、人間」
マルガレッタの言葉は刃のように鋭く、反論を許さない強さを帯びている。
粉砕された短刀は細氷みたく輝いて散り、霊力の残り滓がマルガレッタの口内へと吸い込まれた。ぐぉん、と周囲に留まる魔力波動が勢いを増す。
破壊の波に飲み込まれぬようアリエルが後退しようとする、が急に足を止めた。
「な、んだ、こ、れ」
「逃しません。貴方達は、必ずこの場で殲滅します。同胞の忘念にかけて」
「く、そっ」
アリエルの手から大剣エクスボマーが落ちて重い音を立てる。
マルガレッタは静かに次の魔術を汲み上げて行く。
「忘念のマテリアル、叫べ……溶かし崩せ、アシッド・ポイズン」
紫紺の輝きに茶褐色の色彩が重ねられて新たな魔霧を生み出す。空間から染み出すように発生した霧は重さに耐えられぬと地面を這ってエクスボマーを飲み込む。
瞬間、一気に数十年の時間を跳躍したように刀身に錆が浮き始め、ぼろぼろと崩れ出した。さらににじり寄る霧は動けないアリエルにまとわりつき始める。
「あづっ……ぐ、あ、あぁぁ」
激痛を訴えるアリエルの声。その体は酸をかけられたように爛れていく。
オルトニアは、その中から戦いを見守る私には魔術の根源が見えていた。パラライズ・ミスティカとアシッド・ポイズンを重ねることで、不可避の侵蝕崩壊がもたらされる。
言葉通り、マルガレッタは手段を選ばず殺すつもりだ。
「アリエルっ!」
イージェスが再びエクシズブレイドを振るい、数十もの短剣を生成。苦しげに呻きながらも放つ。
が、やはり防御用の壁として用いられた魔力波動によって防がれた。
「無駄です。無意味……何も支配できず、何も得られず、全てを失って朽ちる」
「いや、狙いはそっちじゃない!」
「何を……」
マルガレッタの視線の先、アリエルの手から離れたエクスボマーの錆びた刀身に次々と短剣が突き刺さる。ただ闇雲に投擲したのではなく、狙いはエクスボマーに衝撃を加える……即ち、再び爆破まで持っていくこと。
「何度繰り返そうと、無駄ですっ!」
マルガレッタは赤黒い魔力波動を震わせ、打ち寄せる波のようにして放つ。
全てを飲み込み、あらゆるものを崩壊させてゼロへと戻すために。
が、ここでオルトニアがヴァルキリウルを駆り、間に切り込む。
まるで刀と刀を打ち鳴らし、火花を散らすように魔力と魔力がせめぎ合う。マルガレッタの精神に感応し、抱く情動が生み出す波長を読み取って同じ波長をぶつける。擬似的に似た波長をかみ合わせることで、中和し和らげていく。
「馬鹿、な……私の魔力が、途切れ」
ばちん、と激しい音を響かせて赤黒い魔力波動が弾け飛んだ。
「ぎっ……があああぁぁぁぁぁっ!」
待ち構えていたようにアリエルが歯を食いしばり、痛み軋む自らの肉体と骨の状態を無視してエクスボマーを振り上げ、叩きつけた。
爆音が轟き、衝撃に耐えられず砕け散った刃の破片が飛び散る。空を裂く細かい刃に傷つけられ、風圧を諸に受けてアリエルの体が吹き飛び、受け止めようとしたイージェスごと宙を舞って落下、転がっていく。
本来ならば手助けをし、起こすところだがオルトニアもクレスも至上目的を遂行する。
ほぼ完璧な防御膜を誇っていた破壊の魔力波動が無くなった今を逃す手はない。
「はああぁぁぁぁっ」
裂帛の気合と共にクレスは両手で刀の柄を握り、アークスレイヴァーを右上から左下へ、斜めに走らせた。
鮮やかな緑色の軌跡が生まれ、空間に穴が開いたようにできた溝へと弾け飛んだ赤黒い魔力が吸い寄せられていく。
斜めに、斜めに力を込めて斬り抜ける。
鋭い風鳴の後、前へ向いた勢いのまま駆け抜け、振り切った刃を鞘へ収めた。
「……何の、つもりです」
静かな怒りを込めて問うマルガレッタに、クレスは答えない。
確かに斬られたはずの、肉体のどこにも傷はなく、血が流れることもなく、オルトニアを通して私の感覚が痛みを訴えることもなかった。
「僕は、話し合いを妨げる武を断ち切ったに過ぎません」
「私の魔力を奪って、話し合い? 一体、何を話すというのですか」
「僕達は敵対し殺し合うために来たのではありません」
「……この惨状を前に、よく偽善を吐けますね」
惨状。ウルクはエグザスに殺され、エグザスはウルクの喪失から原初の姿に立ち戻ったエピタフに捻り潰された。
声を押し殺してはいるが、吹き飛んだアリエルは自ら爆砕させたエクスボマーの破片が体の至るところに突き刺さり夥しい量の血液を流している。
イージェスも力なく横たわり、体を痙攣させ喘ぐように短く早く呼吸を繰り返す。
互いに互いを傷つけ合い、恨み恨まれて繰り返される復讐という名の輪廻機関。
繋がれた因果の鎖を断ち切る。クレスの、アークチルドレン全員の意思で。
オルトニアが、自らの内側にある存在を解放する。
「……お義母様」
「な、ぜ」
「お義母様。聞いてください。私の話を」
「嘘。嘘です、そんなはずはない。騙っているだけでしょう。おのれ、どこまで卑劣な」
錯乱するマルガレッタ。無理もない。唐突に教えられても、到底信用することなどできない。私は、オルトニアの中にある意思は精神のパスを繋げる場所を探す。
最初から言葉で理解させるのは不可能だと分かっていた。だが、直接映像を見せるにもエグザスを失った痛みに狂うマルガレッタを止めるのが先だった。
今ならば、平静を取り戻し揺れている状態ならば、無理にでも捻じ込める。
元々マルガレッタは私を実の娘のように扱い、私もそうあることが正しいと信じて従ってきた。
故に探して、アタリを見つける。引きずり出し、差し込んで映像を流す。自らが見てきた風景を、なされてきた苦痛を、このセカイの裏側で暗躍する〝戦の火付け役〟を。
雷に打たれたかのようにマルガレッタの体が打ち震わされる。
これ以上ないくらいに両目を見開き、揺れる瞳が別方向へ攻撃の矛先を向けた。
「ああ、どうして、何故知ってあげられなかったのでしょう」
嘆きが半分、怒りが半分。そんな調子でマルガレッタが吐き出し、続ける。
「……確かに、確かにセラがストラという人間から、おぞましい苦痛を受けているのは事実なのでしょう。ですが、変わりない。貴方達が、人間がなした悪の業は変わらない!」
「今はそんなことを言っている場合ではないはずです。一刻も早く救い出し、その後で納得がいかなければ、僕を殺せばいい」
きっぱりとクレスが言い切った。
自らの命を犠牲にしてでも、残るアークチルドレンは救う、と。
マルガレッタの瞳が左右に揺れる。逡巡している。受け入れるべきか、否定するべきか。受け入れることをハインリヒは許してくれるのか。
――待て。
ハインリヒはどこだ。
何故、わざわざ〈渇血の魔女〉を単独で配置したのか。エグザスとマルガレッタが二人がかりで攻めれば互いの弱点を補うことで、もっと有利に戦闘を運べたはず。
私が、私の瞳で見た最後の姿は森林の一角で剣を持ち、何かを地面に刻む姿。
嫌な予感がする。
マルガレッタが、意を決したように深く息を吸い、吐いた。唇を開く。
「分かりました。今、この瞬間だけ貴方達の、」
途切れる。言葉の代わりにごぽり、と唇から鮮血を噴いた。
視線が落ちる。マルガレッタは、じわじわと広がっていく紅を見つめた。自らの心臓を貫く、紫電のように輝く剣を。
「困るな。貴様には死ぬ義務があるのだから、人間などと迎合してもらっては駄目だ」
淡く発光するエメラルドグリーンの髪、何物にも染まらぬ深い海のような蒼い瞳。
現存する〈渇血の魔女〉の、最後の一人……ハインリヒが小さく、歪んだ笑みを浮かべて私達の前に立っていた。




