2-17 Noisy blood
精神が本来の肉体へと戻る。ずん、と脳髄に沈み込む痛み。
骨が軋み、関節が外れて砕け散るさまを幻視し神経が悲鳴をあげた。
痛覚に続いて聴覚が戻ってくる。重く骨の芯まで響いてくる鈍い音と、途切れ途切れに漏れる青年の声。数秒前まで視界に捉えていた現実。
視覚も戻っていた。暗がりの中、巨大モニターに映し出される蹂躙現場。
黒い毛並みの巨狼が、巨木のような前脚を振り上げ、下ろす。
何度も、何度も、何度も何度も何度も一定の調子で打ち付けていく。
赤黒い血にまみれた〝何か〟が摘み上げられ、両の前脚で掴まれる。
狼と呼ぶよりも理性を失い、ケモノに立ち戻った人間のように見えた。
べき、ごき、めき、ぶち……べちゃ。
骨が粉砕され、重要な器官が捩じ切られ、肉が潰れる生々しい音が叩きつけられる。
「おや、戻られましたか」
「……あなた、は」
目の前には満面の笑み。ストラが私を覗き込んでいた。
何がそんなに楽しいのか、ひとかけらでさえ理解したくない。
いや、何を考えているのか、何を酒の肴にしているのかは分かっている。
受け入れたくないだけだ。つい先程、危機感から精神のパスを断ってしまった事実を。
たった四人だけの同胞を、うち一人を見捨てた自らの罪を認めたくないだけ。
ふぅ、と意識が飛びそうになる。無意識に別の同胞、マルガレッタかハインリヒと感覚を共有しようとしているのか。
くらくらとする。何か、色々なものが足りていない。
「あ、動かれない方がいいですよ。血を抜かせてもらっているので」
ああ、そうか。だからだ。
私は捕えられて、円筒形の機械に閉じ込められて。様々な計器を取り付けられ、現在進行形で血液を抜かれていっている。
視線を下ろすと、右腕に刺さった針が見えた。
赤黒い液体が流れるケーブルを辿っていく。延々と続く線は天井へと向かっていて、ここに来るまでに見た亜人共が詰められた機械と繋がっているようだ。
「私の血で〈渇血の魔女〉の、不老不死を手に入れよう、という話でした、ね」
「ええ。ある程度レッドラインは心得ているつもりなのでご安心を。もっとも、貴女を無力化する意味合いが強いのですが、ね。何せハインリヒ氏から最高峰、と聞いているので」
「……不老不死なんて、幻想です。ユメは思い描く時が一番楽しい」
「貴女達が欲した、亜人が外敵に脅かされず過ごしていける場所こそ夢物語でしょう」
眉間に激痛が走り、神経を伝って全身へと抜けていく。
ストラの言葉に揺らされたわけではない。
モニターで黒い巨狼が天高く吼えていた。
悲しみと怒りの混じった、やり場のない想い。意味のない繰り返しの、終わりの始まりを告げる音が響いている。
意識して、エグザスの姿は視界に収めないようにしておく。
どんな再生力を持っていようと、朽ちず老いを知らぬ肉体を持とうが生命は生命でしかなく、精神の容積には限界がある。
嘆きの声が響く。
失わせたものを叩き潰したところで、一度失われたものがこの世に戻ることはない。
〈失われし血晶〉でさえ、その箱を壊すことはできなかった。
「求められる以上、そこに意味はあるはずですよ」
「何を、知ったふうに」
「おやおや、たった四人のうち一人を失ったのに、気丈ですねぇ」
「…………どの口で」
言いかけたところでモニターが切り替わる。
一つの大画面から、四つに区切られてそれぞれの画面に別の風景が映し出された。
雄叫びをあげる巨狼。半ば呆けた少年を引き連れ、森の中を行く四人の人間。
銀色に輝く剣を手に地面に線を刻むハインリヒ。
そして、両目を見開き揺らぐ瞳を露に、両手で頭を抱えるマルガレッタ。
「アルメリア王国の言葉にあるそうですよ。散り逝く瞬間が一番美しい、と。なるほど、確かに生物も絶命する瞬間の足掻きが一番素敵で、最も心地よい音色を響かせる」
私はストラを睨みつける。
これまでの私は、全てに一歩引いて何となく諦めと共に歩いていた。
どうせ狩られ続けて、安全に平和に生きられる世界はないって。あったとしても、それは造られた偽物の楽園で、ハインリヒの導き出した答えも結局利用されている。
それでも、むざむざ殺されるのを見ていたくはなかった。
止めたかった……殺し合う結果を、できるのならば言葉による解決を、と。
「叶わなかったではないですか。エグザス殿は月の子供達の一人、か弱き少女を死に至らしめた。そして魂の慟哭を響かせ、覚醒した〈人狼〉に捻り潰されてしまった」
そして、私は痛みを感知する前に逃げてしまって。
波及した絶命の痛みは行方を失って、辿り着く場所を探して、見つけてしまった。
『ああ、あぁぁぁ、エグザス、エグザ、わた、わたしの、わたしのぉぉっ』
わざわざ一つだけモニターの音量をあげて私に突きつけてくる。
〈渇血の魔女〉の中でも、一際仲間の死に対して敏感な女性の悲痛な声。病的なまでに私を可愛がって、同じようにエグザスの身も案じた優しき……恐ろしき義母様。
薄暗い森林の、木漏れ日射す憩いの場所でマルガレッタは喪失の痛みを叫ぶ。
くつくつとストラは笑っている。
他人の死を、不幸を嘲笑っている。
私は、静かにゆっくりを息を吐く。明確な憎悪を、この男に対して抱いている。
心の底で燃える激情を悟られぬよう、抑えてストラの瞳を真っ直ぐ見て問う。
「本当のあなたは、何を望んでいるのでしょうか」
「革新ですよ。ヒトがどこまで行けるのか、どこまで飛べるのか、見たい」
「嘘だ。嘘です。あなたは、そんなことはどうでもいいと思っている」
ぴくりと、ストラのこめかみが動いた。
その反応が真実だと告げている。
私には、どうしたって人間が満足できるとは思えない。
不定形の答えを探すように、果てなどどこにも有りはしない。
あったところで、さらに先を求めてしまう。
多分、目の前で渇いた笑いを漏らす炎髪金眼の男が、究極のカタチ。
「ふ、ふふふ。ほら、始まりますよ」
話を逸らそうとストラは右手で四つに区切られた画面の一つを示す。
だが、実際に異変は起きていた。
まさに世界そのもののあり方を塗り替える、圧倒的な魔力が噴出している。
エグザスの死を悼んで、悲哀の感情を撒き散らすマルガレッタ。
ただ泣き叫んでいるだけではなく、負の感情が質量を持って魔力波動を放つ。
赤黒い血のような色合いを持つ破滅の魔力にあてられ、木々の葉が焼け焦げて朽ちていく。燃える、のではなく葉を構成する物質を、その存在ごと崩壊させる。
「ふふふふ……素晴らしい。この圧倒的な破壊! まさに私の理想のカタチっ!」
感極まったようにストラが叫んだ。
ああ、この男は人間の幸福など最初から望んでいない。
人間の偏屈な研究者は一つのことに没頭しすぎて、その人間性を失って魂を闇に埋没させてしまうと聞く。いわゆる、奇人変人廃人の類。
違う。ストラは、極める存在ではない。
ただただ崩壊と殺戮を求める、この世界に戦乱を引き起こすモノ。
やはり、悪意の塊だと感じたのは間違いではなかった。
「……あなたは、最低です。最悪の、戦乱狂楽の使徒です」
「ようやく、気付いたのですか」
なんでもないように、ストラは告白した。
「そう、私は戦乱を望むのです。より深い絶望を、明るく楽しい幸福から堕ちる瞬間を、天上から地底へと落下し叩きつけられる瞬間の顔が見たいんですよっ!」
「……狂ってる」
私は吐き棄てる。
ますます、何故ハインリヒがストラという人間を選んだのか分からない。
違う。今はそんなことを追及している時ではない。
四つに分かれたモニターのうち、二つが重なり合う。
マルガレッタの放つ破壊の魔力波動が、空間を侵蝕し境界を乗り越えるように。
否、近づいているのは四人の人間……クレスと、彼の従者たるアリエル、イージェス。そして人間と〈渇血の魔女〉の間に生まれたオルトニア。
――ヒトと〈渇血の魔女〉は分かり合える。繋がれる。
その言葉を信じたわけではない。信に足る情報があるわけでもない。
ただ、彼女ならば〝殺す〟のではなく〝止めて〟くれるかもしれないと思えた。
内側から呼びかけるにしても、まずはマルガレッタの暴走を止めなければならない。
「いい、とてもいいぞ。また新たな争いが始まり、死が感じられるっ!」
感極まった物言いで語るストラが私を見る。
視線で告げられていた。もう一度パスを繋げろ、と。その結果を見せて欲しい、と告げられる。また、感覚を共有して死の間際にある刹那の恍惚を感じさせろ、と。
「分かりました」
にぃ、と濃く甘い蜜を味わったようにストラは笑顔をとろけさせる。
ただし私が繋がるのはマルガレッタではない。
クレスは、その言葉をエグザスによって真っ二つに両断された。
確かにヒトは歴史上、戦乱を引き起こし争いの中で技術を磨き上げてきたが、何も全ての技術が人間を殺害せしめるものではない。転じて、役立てられている技術も多い。
全てが悪だと断じるのではなく、最初から裏切られるのだと決め付けるのでもなく。
歩み寄ろうと考えなければ、そもそも和平も境界線も引けないのだから。
「今度こそ、ちゃんと死んでくださいよ?」
ストラの言葉には半笑いを見舞ってやる。
絶対に、思い通りにはさせない。意志を持って精神を鎮めて暗い場所へ落とす。
私はワタシで、半分は人間でもう半分が〈渇血の魔女〉の少女。虹彩異色症の。
思念が通じる。
宙に浮くような感覚。自らの感覚は溶け消え、置き換わっていく。




