2-4 魂の渇き
深く息を吸い、吐く。
地下独特の湿った空気が肺に侵入し、逃げ去る。
月の光も届かぬ場所で、淡いオレンジの光が周囲を照らしていた。
地面にはより明度の高い色が広がっている。
どこまでも鮮やかで、生々しく湯気を立てる桃色の小腸。
壁に鉄杭で磔にされた少女は、何も身につけておらず本来胸と腹があるべき場所は空洞で、木製の筒が縦に二本はめられていた。だらしなく顎が下がり、口からは舌を投げ出している。
木筒の内部は上段にオイル式のランプ、下段には赤黒い血がべったりとついたサバイバルナイフが置かれていた。まるで、収納棚として使っていたように。
隣には長い黒髪を両端で結った、ツインテールの少女が蹲っていた。
正確には、膝を折って正座している。腕に相当する部分はなく、肩口で切断され断面が鉄板で塞がれている。
切り取られた腕は肘辺りに鉄の棒が挿入され、地面と平行になるよう設置されていた。
少女の膝上には座布団が置かれている。つまり、この異様な物体は椅子なのだ。
薄暗い中でも、悲痛に歪む顔はやけに輝いて見えた。
炎を反射する光沢は、多分蝋か何かで固められているのだろう。
そこで俺は考えるのを止めた。もう一度深く息を吐いて、吸う。
何度深呼吸を繰り返しても臓物と中途半端に溶解した胃の内容物と鉄の臭いが交じり合った地獄の香りは消えてくれず、肺を犯し尽くす。刀を引きずって切っ先でコンクリートを削り、持ち上げて横に振るう。
短い断末魔が響いた後、ごとりごろごろと鳴って絶望に目を見開いた男の首が濡れた地面に転がる。
「ひっ……わ、わかった。俺が悪かった! だから……」
「だから、何だ? お前がこれまで犯し、壊した少女の嘆きは誰が鎮める」
「なんだよ、なんだってんだよ……お前の女だったのか? それとも殺った中に妹か姉でも
いたのかっ! 親族でもないくせに、一体何の権限があってこんなことをしやがるっ」
叫んだ男は、その憤怒が混じった表情のまま宙を飛び、落ちてコンクリートの上を転がっていく。
先に胴体に別れを告げた男の首へぶつかり、再会の音を小さく奏でる。
刀を振るい、血も拭わずそのまま鞘へと戻す。
「何の権限があって、だと? 権限なんてない。悪を根源から断つためだ」
吐き出す。思ったことをそのまま、ありのままを。
「こんなことをしても、お前達は精神異常者として鑑別所送りになるだけだっ!」
無為な怒りを、誰にも何にもならぬ慟哭をあげる。
現行法では恐らく正当な裁きによる罰が与えられることもなく、幼少期の事情やら生育環境やら創作物からの影響やらで理由付けられ減刑されてしまう。そして野に放たれれば、再び同じ行為を繰り返す。
絶対に、とは言わないが経験上ほぼ確実にまた同じ悲劇が生み出される。
「そして、連鎖する」
仇を討ったところで死者が蘇ることはなく、ここに横たわる男二人にもいるだろう親族は異常な行いを知ったとしても一定の悲しみと怒りを覚えるのだろう。その感情がどこへ向けられるかは分からない。
新たな犠牲者を生むかもしれない。
それでも。そうであっても俺は、〈灰絶機関〉は変わらない。
法で裁けない悪逆なる者共を死罰によって、この世界から抹消する。
「……〈灼煌の魔眼〉」
俺は小さく告げて、まだ灯りを生み出し続けるランプを睨んだ。
渇いた音を立ててランプが破裂し、オイルに引火して燃え広がっていく。
轟々と勢いづく惨劇の跡から目を離し、背を向けて歩き出す。ここにはもう何も残っていない。
あるのは人であったものと、人でなくなってしまったモノ。
死者に語れる言葉などなく、また来世に向けて呼びかけることもはばかられる。
堕ちるのは同じ場所。分け隔てなく全ての光を失う虚無があるだけ。
「ましてや、生まれ変わりなんて」
あるはずがない。
そう口にしても〝彼女〟の悲しげな笑顔は消えてくれなかった。
リオン・ハーネット・ブルク。ウランジェシカ帝国出身、共に違った分野にて活躍する研究者を両親に持つ少女。
恐らくは、ろくに家族の時間を得られなかっただろう。
「違う」
自分の足音が煩い。妙に早まっていく心臓の鼓動が耳障りだった。
違うと断じたし、彼女自身の経歴が別人であることを物語っている。
その、異様なまでに殺生を嫌うところを鑑みたとしても。
「死んだんだ。永遠に、失われた」
戻るはずのない時間の刻印。届くはずのない声と、願い。
いずれ命のやり取りをすることになる。全てが終わった後に、彼女が望めば差し出せばいい。
生命を削り取り蝕む呪いから解放されるために殺されてやればいい。
走り出す。
充満していたガスに引火したらしく、背後で盛大に爆音が轟く。
何もかも燃え朽ちただろう。無残な家具も、それを作り出した者達も。
いつ、終わりが来るのだろう。こんな世界の、こんな腐った連中はいつでもどこでも這い出てくる。
駆除しても駆除しても、また次の悪が現れる。
法では裁けぬ、或いは法に則っても罪を認められず罰を与えられない者達。
確かに一分野においては旧来よりも事件そのものの発生件数は減少した。
それは、法規制が厳しくなった時の状況に似ていて潜在的に人々の心の中に恐怖心を植えつけることによって犯罪を抑止する、倫理的にも道徳的にも禁じられた手段である。
法律上では死刑制度が存在するものの、余程のことでなければ与えられない。
が、死刑にならぬ案件であろうと一人の人間から尊厳を奪い去り、希望をむしりとるような暴挙は多数存在する。
「他者の尊厳を、生きる権利を奪いながら自らの権利だけを叫ぶなんて」
許されない。赦されていいはずがない。
そう、俺も復讐を望む者が現れれば殺されてやるかもしれない。
或いはリオンが平凡な日常に戻るために、たった一人だけの殺人を犯すことでも――
着信を知らせるバイブレーションで現実に引き戻された。
立ち止まり、ほぼ反射的に手にとって発信元も確認せずに応答する。
「……もしもし」
『首尾はどうした、亮』
「生存者ゼロ、下手人は始末しました。〝処分〟もしてます」
『そうか。ここのところ、失踪事件が増えている。十分に気をつけろ』
「……まさか。〈死神〉がただの人間に遅れを取るわけがないじゃないですか」
『貴様ではない。貴様の、周りにいる者達だ』
ずくり、と胸が疼く。
いや、錯覚だ。そんなものは感じていない。
「あの時とは、違うんです。今度はきちんと〝選びます〟よ」
『本当に、決断できるのか』
「……報告は、以上です」
言い残し通話を切って、そのまま携帯自体の電源もオフにする。
一瞬だけ脳裏に映像が浮かぶ。
もし遥姫が、リオンが磔にされ玩具のように体をいじくられた姿を見つけたら俺は正常でいられるだろうか。
下手人を殺人者として、単純に応報の刑罰をもって殺せるだろうか。
「……できる、さ」
誰にでもなく、自分自身に対して言葉をぶつける。
これまでも多くのものを失ってきた。
守りたいものは全て手のひらから零れ落ち、後には鉄と塩辛さだけが残った。
繰り返さないと誓って、生み出さないために悪を狩り尽くす道を選んだはずだ。
失うくらいなら最初から要らなかった。
だけど、また今この手に守るべきものがある。守りたいものがある。
それは本当に強さに繋がるのか。自ら弱点を作り出しているのと同じではないか。
「どちらにせよ、終わる」
遥姫も刃助も同じ道を進むようなことはないだろう。
それぞれが、それぞれの胸に抱く目標に向けて歩き出す。
時の止まった俺を置き去りにして、光差す未来へ繋がる道を歩く。
「俺は……」
進路希望に何も書けないまま、友人とも適当に誤魔化すだけで。
ただ静かに待っている。報いを受ける瞬間を、殺人を続けてきた罪が清算される日を。
どのような形でもいいから、自らの刃以外での明確なる終焉を迎えて虚無へ還る時を。
「小百合……リオン。リオン・ハーネット・ブルク」
遠い日の、たった一つの絆を心の奥底で握り締めて蹲る。
十年。
二文字だけの年月で得たものはやはり黒に近く、余りにも白には遠すぎて直視できない。
幼い頃に夢見た綺麗なものはどこにもなく、信じて心を寄せた存在にも刃を突き立てられた。
後に残ったのは、どこまでも抜けるような底のない浮遊感。
落ちて堕ちて、少しずつ息苦しくなり臓器を押し潰されて絶えるだけの無限獄。
「ここは、変わらないよ。この世界で、俺は余りに孤独すぎる」
呟き、首を振って立ち上がる。
言葉に意味はなく、どれだけ積み重ねようが現実が、世界が動くことはない。
そんなことは十年前から分かっている。
だから、俺は差し伸べられた手を握り返した。
艶やかな長い黒髪を持つ、地獄の業火のように燃え滾る意志の赤を宿した女性の手を。
同じ呪いを持ち、肉体と精神を蝕まれても前を向き歩き続けた者達と肩を並べて戦場を渡り歩いた。
少なくとも、その時間は真実であったはずだ。
もう一度、大きく首を振る。自らの疑念を振り払い、拒絶する。
「意味がない、はずがない。何か理由があるはずだ。何か……」
日露事変と忠国での大爆発にまつわる真相は、まるでアルメリアが現在の立ち位置に収まるように仕組まれていたようにも思える。俺には、そう思えてしまった。疑いすぎなのかもしれないが。
裏があるのか、それとも純粋にただ全てを利用して理想の国を作り出そうとしているだけなのか。
多くの人々が安全に、豊かに暮らせる世界を。
「……調べるしか、ないか」
より深く、隠された場所に辿り着くには自らが動くしかない。
情報は存在していても、人の目に触れなければ〝ない〟のと同じなのだから。
そう、報道されながらも未だに都市伝説としても語られる〈灰絶機関〉のように。
再び歩き始める。
いつ終わるとも知れない闇の戦いへ、その裏側に光り輝く、もう取り戻せない日常を享受するために。
異星からの侵略者と名乗ったデイブレイク・ワーカーの頭目ピアスディとの戦い、〈白の死神〉クレスとの再会。
そして日露事変と忠国消滅の真実を聞かされたから半月が立った。
俺とリオンは先の懲戒の意もあり一時的に任務から外されて、いわゆる普通の高校生活を送っていた。
そんな中でも変わらず法で裁けぬ者の断罪は続けていたが。
繰り返しの日々が過ぎて五月も半ばに入った朝。家を出ると、珍しく刃助の姿がない。
今日も配達のバイトかと思いつつ、差し込む朝日に目を細めながらカバンを担ぎ直すと、またしてもインターホンを鳴らすか鳴らすまいかと思い悩んでいたらしい遥姫が慌てて手を引っ込めた。
「おはよう、月城」
「お、おはようっ! 来々木君!」
「何をそんなに驚いているんだ?」
「な、なんでもないの。また、どうしようか悩んでいた、なんてことはないのっ」
全部言っている。俺は苦笑しつつ左右を確認。アホの姿はなし。
「刃助は?」
「計継君は委員会の手伝い。ほら、最後だから盛大にやるって言ってたでしょ」
「ああ」
そういえばそうだった。
仕事柄、妙に広い交遊録を持つ刃助は文化祭を最高に盛り上げる、と息巻いて駆け回っている。
無駄にありすぎる体力がようやくまともに役立てられているようだ。
「なら、行こうか」
「……うん」
気持ち控えめに答える遥姫の心中に気付かないフリをして歩き出す。
住宅街を抜けて大通りに出る。文化祭の準備、といえば遥姫にもあるはずだった。
「あの、来々木君」
「今日はバスを使うか」
「えっ」
「歌の練習、やるんだろう?」
目を丸くした遥姫へ微笑みかけながら、選んだ言葉を紡ぎ出す。
別段感情の機微に目ざといわけでもないが、流石に分かる部分はある。
長年の経験というべきか、ずっと人の動向を睨んで生きてきた結果というべきか。
染み付いた性分に嫌になると同時に、役立てるのなら悪くないかな、と思う自分もいるのがどうにもおかしい。
遥姫は立ち止まって、じっと見つめられることにようやく思考が追いついて赤面する。
そそくさと歩き出す遥姫の後を追いかける。
停留所に到着して、すぐに回されてきた中型バスのステップに近づく。
端末を通してさっさと乗り込んでしまった少女のすぐ後に続いて、読み取り機にパスケースをかざす。
電子合成の音声によるアナウンスで乗り遅れに対する警告がなされ、一定の時間経過で自動的に乗降者用の扉が閉められる。公共交通機関の殆どは自律制御によって成り立ち、人間の役割は管制とルート調整、不測の事態にマニュアル操作で切り抜けるなど補助的な位置に収まっていた。
バスだけでなく列車も同じで、路線の施設整備ですら専用の機械が行い、そのメンテナンスも工場で修理用機械によって行われる。大分事故は低減されていた。
だが、全て完璧滞りなくとはいかない。
僅かな誤差や、何らかの悪意を含む人為的な作用によってズレは生じてしまう。
どうあっても完全な機械による自律社会というのは不可能であり、人間と機械が担当するべき領域をわきまえて考える辺り俺はアルメリア王に対して比較的好意的な印象を抱いていた。
「来々木君、こっちこっち」
「ああ」
促されて遥姫の隣に座る。
近くには同じように学校へ向かう少年少女、スーツ姿のビジネスマンや早朝から遠出するのか着飾った壮年の淑女まで様々だ。比較的広めに区切られた窓枠から外を眺めると多くの車が併走している。
かねてから用いられている石油資源に引き続き、天然ガスを主燃料とした車種、さらには電動式を採用したものなど様々な車が生み出されているが、旧来のガソリンの臭いがいいのだと殆ど化石に近い車を乗り回している年配の世代も多い。
もっとも、そういった富豪層を対象にわざわざデューンした製品や、エンジン周りだけを残して最新式のものに挿げ替えた特別仕様車を売り出すくらいなのだから、しっかりと需要と供給は成り立っているのだろう。
じっ、と睨むように追い越し車線を走り抜ける車を見る。
「来々木君、車……好きなの?」
「あ、いや……どちらかというと、苦手かな」
「どうして?」
「……ガソリンの、臭いが苦手で、な」
「好きな人は好きだよね。その、戦車とか好きな人は」
「あれはまた別種の存在だ」
小さく胸に疼くものを押さえつけて、繕うように遥姫に微笑みかけた。
嘘だ。俺は嘘を吐いている。強い刺激臭が苦手だ、というのは真実だ。俺達クラッドチルドレン、特に〈死神〉の呪いを持つものにとっては五感の発達により常人が気に留めないものでも苦痛になる。
一定の波長を長時間ぶつけられたり、刺激臭を嫌ったり、極端に尖った味を苦手としたり様々だが俺が心の底から思うものはまた別の理由だ。
しばらく黙する。
「ご、ごめんなさい」
「あ……すまない、俺の方こそ」
「だから、すまないとか言わないで欲しいの」
「……分かった」
遥姫に軽く額を小突かれた。しょうがないなぁ、とでも言いたそうな苦笑いを浮かべている。
揺らいでしまう。魂が求める水源が目の前にあるから。
リオンとの会話の端々にも思ったが、遥姫が俺に対して向けてくれる好意は本当に暖かく柔らかくて擦り切れた心を癒してくれる。時々浮かべる不安げな表情も、何かを言い出したいと前のめりになる仕草も裏側に何が隠れているのかおおよそ見当がつく。
それでも一線を引くべきなのだ。
どれだけ渇いても、喉をかきむしるほどに飢えても求めてはいけない。
必ず悲しませてしまうから、その結末が見えているから。
そもそも、こんな殺人者が好意を持たれていいはずがない。
変わらない。どれだけ求められても俺は遥姫や刃助、表側に住む世界との接し方は偽り続けたまま過ごす。
厳然にして明確な、灰色の境界線を渡りながら俺は表側の世界に背を向け続ける。




