1-10 緩やかな侵攻
ざわめくのは内なる感情の波。
改めて、坂敷 千影の配偶者たる坂敷 晴明の言葉が脳裏に浮かぶ。
詰まるところ、感情の渦に飲み込まれてはいけない、ということ。
己を律することができればいい。でなければ、両親を殺した組織にいることなんてできない。
心の底に潜む魔獣に身を任せれば、あの場で〈水神の聖具〉を使い千影の首を取ることも可能だった。そうしなかったのは、その先が見えているからだ。
実行していれば、その場で亮か晴明を相手取ることになる。
目の前で大切な人を失うことは、否が応でも魂の根幹を揺さぶって原初の情動を奮起させる。
この時点で冷静に思考ができるならばもうヒトとしての領域を超えていると言えるだろう。
私は、ヒトだ。たとえ死に至る呪いを抱えていようが、魂魄まで変わった覚えはない。
人間である以上は人間らしくその情動を感受するべきだ。
「おい、大丈夫……か?」
声と共に肩に手が置かれる。視線をあげると、不安げな色合いを乗せた亮の瞳が私を捉えている。
どうして、そんな瞳ができるのだろう。
そんな目をしていながら迷わずに人を、罪を犯したものを死罪によって断ずると言い切る。
他者へ優しく差し伸べる手を翻し、同じ手で誰かを殺す。
きっと、その先に何が待っているのか理解して、なお剣を振るう。
「……大丈夫」
意識し、神経信号を伝えて笑顔を形作らせる。上手く笑えているかどうかは、もう分からない。
亮が小さく首を振る。どうやら意図は伝わったらしい。
遠くサイレンが聞こえる。
教師の手で倒れた生徒が運ばれ、注意喚起らしい怒号が飛んでいるが言葉の意味はうまく飲み込めない。
自ら志したはずの信念と、情報から導き出した可能性が呼び起こす黒く濁った感情とがせめぎあっている。
もし。災厄を引き起こす要因たる存在を前にして、その者によって煽動され利用された末に被害だけを押し付けられたのだとしたならば。私は、それでも相手を殺さず己も生き残り、別の選択肢をとることができるのか。
「先生っ」
「今度は何事だ!」
勢い良く教室の戸を開け、飛び込んできた生徒の怒号。
答える教師の声に意識が現実へ帰還した。亮も闖入者の方に視線を向けている。
入ってきた男子生徒は脇腹を抑えながら荒く呼吸を繰り返す。
急激な運動による内臓圧迫ではなく、もっと直接的な痛みを堪えているのは内側から染み出す赤い色によって見て取れた。小さく悲鳴を上げる女子生徒を下がらせて、別の生徒が駆け寄り男子生徒に肩を貸す。
ゆっくりと息を吸って吐き、ようやく落ち着いたか男子生徒が言葉を生む。
「野球部と、サッカー部がもめて喧嘩を」
「何をやってるんだ! 原因はなんだ?」
「それが、野球部が練習中に急に倒れて、熱中症か何かだと最初は思ったんですが、
違うようで水を飲ませたら突然、人が変わったみたいに暴れ出して」
「サッカー部員に怪我を負わせたと?」
切羽詰まった教師の問いに、少し気圧されながらも男子生徒は頷いた。
後ろめたいものでもあるかのように俯き、目を伏せている。
話を聞いた亮の表情が険しくなった。そんな変化に気付いたか、刃助が声をかける。
「亮、どうした?」
「……行くぞ、刃助」
「どこへ……って、うおぉぉいっ」
刃助が答える前に亮は鞄を引っつかんで走り出していた。
後を追いかけようとして、ちらりと遥姫の表情を見る。
釣られて視線を移すと不安げな表情だった。
「遥姫様はこちらでお待ちください」
「でも、来々木君は……」
「すぐ追います故。お任せください。なぁに、亮は〝無茶〟はしません」
刃助が私を見る。和やかな笑みを見せて、すぐに遥姫と向き合う。
安心させるように、暗示をかけるように微笑んだまま肩に手をおく。
「確かめるだけです。終われば、戻ります」
「本当に、危ないことはない、よね?」
「誓って」
まるで騎士が主君である姫君にするような振る舞いだ。
少し可笑しくもあったが、ここまで真剣に語っていると妙にさまになって格好いい。
が、教師が声を荒げる。
「馬鹿者、誰でもいいから突っ走った来々木を止めろ! 巻き込まれてからじゃ遅いっ」
「は、はいっ」
即応して、生徒のうち何人かが教室を飛び出す。
自然と私の体も動いていた。遥姫を言い含めて教室を出る刃助に並ぶ。
「やや、あなたも亮が心配で?」
「……私は、確かめるだけ。この胸に宿るものの正体を」
「恋心、などとは仰らず?」
場にそぐわぬ言葉に吹き出してしまう。断じて、そんなことはない。
少なくとも今のところは来々木 亮に対して抱く感情を一つだけに絞ることなどできないから。
言葉通り、確かめたいのは嫌な予感の正体。
既に高校界隈までDthなるドラッグが蔓延していることの危惧。
確信があるわけではないが、これまで集めた情報を元にすると一種の興奮剤とも、情緒を不安定にさせる代物だとも思える。仮に興奮剤として使用されるのならば、その用法を捻じ曲げて地力をあげるためのビタミン剤とでも考えられている可能性はある。
そうした様々な可能性を、裏側の事情をこの計継 刃助という男は理解しているのか。
「ねぇ、刃助。あなたはどうして、亮を追うの?」
「決まってます。我関せずが信条の堅物野郎が動く。見なきゃ損でしょう」
笑顔。清々しいくらいの楽しさを込めて破顔した刃助は危うく出っ張った柱にぶつかりそうになり、器用に体をくねらせて回避。苦笑いを浮かべる。
「……刃助にとって、亮は」
「面白く、不器用で、けど真っ直ぐ。刃みたいな奴ですかねぇ」
「意外と、見る目あるかもね」
「リオン嬢こそ、アルメリア語が随分堪能なことで」
存外に面白い人だ。素直に、そう思えた。少なくとも亮の心中やら、あれこれを気にせずに接しているように見える。亮の根っこが見えている。恐らく、あの遥姫もまた。もっとも遥姫に関しては〝知りながら触れない〟空気が、もしくは触れられないと思い込んでいるような節もあるが。
「……私も、同じか」
「何か?」
「ううん。とにかく、急ぎましょ」
頷き合って校舎の廊下を駆けていく。何事かとこちらを見る生徒を掻い潜り、制止しようとする教師を無視してグラウンドへ向かう。一つの高校の規模としては有り得ないほどに広大な場は騒然としていた。
どこからかぎつけたのか、既にカメラを担いだ男にマイクを持った女性、何組もの報道陣が詰めかけている。
教頭らしい頭髪の寂しい中年男性が立ち退くよう叫んでいるが効果はない。
次々と返答など最初から期待していないような質問が飛び交っている。
「生徒同士の乱闘騒ぎと聞きましたがっ」
「野球部は何度も甲子園出場の経験がおありですが、今回の騒動で影響は?」
「いじめではないのか、という声もあがっていますが真相はどうなんですか!」
ありそうな質問から明らかに有り得ないと目される戯言まで、一身に受ける教頭は何度も繰り返して会見の場を改めて設ける、の一点張りだった。人の垣根を作っている生徒達が囁き合っている。
「いじめだって。馬鹿だろ、マスゴミめ」
「今までは警察が取り合わなかっただけだろ? 今は有り得ないよな」
「そうそう。そんな真似したら消されちまうしな」
「マスゴミの間じゃ〈灰絶機関〉ってどうなってるんだろうな」
「ある程度把握してるんじゃねぇの? だって教科書にも載ってるくらいなんだぜ」
「何せ糞政治家とか、腐ったカス犯罪者を掃除して回ってるんだろ?」
「最近ニュースで言ってるデイブレイク・ワーカーとかも潰すのかなー」
努めて自分達の、〈灰絶機関〉のことは意識せず聞き流す。
彼らにとっては救世者のような存在でも、教科書でかつて日本と呼ばれていたアルメリアを救ったと教えられても、やっていることは罪でしかない。デイブレイク・ワーカーと違う、と言い張っても根源は同じ。
「あそこだ」
私の心中を読んでか、それともただ目的に真っ直ぐなだけなのか刃助が集まった報道陣を押しのけ、生徒達の壁をかき分けて進んでいく。後を追ってするりと間を抜けて、ようやく現場に辿り着いた。
「これは……」
息が詰まる。既に濃厚な鉄の臭いを発するのは、グラウンドに仰向けになっている男子生徒。
ユニフォームからして野球部員。帽子は脱げている。
「ちっ、くしょう! なんでだよ、離せよっ」
「ダメだ、お前はちょっと黙ってろ」
「俺が何したって……むぐっ、むむむむ」
地面に寝転がり、空を見上げる野球部員は他の部員達に手足を抑えられて磔刑よろしく拘束されていた。
首筋には無数の引っかき傷があり、同様の裂傷がユニフォームから露になった腕にも見える。
さらには腹部にも血が滲んでいる。自ら流した血か、或いは誰かを傷つけたものか。周りの部員も引っかき傷をあちこちにつけていることから察するに、渦中の要因は拘束された野球部員で間違いないようだ。
「……状況は?」
「ああ? お前、確か根暗の陰険で有名な来々木――」
「無駄口はいい。状況を教えろ。最初から余さず全て」
既に亮は聞き込みの態勢に入っている。
部員はやや不快そうに眉根をひそめるが、別の部員から顎で諭された。
渋々といった調子で語り始める。
「お前みたいな万年帰宅部野郎には分からんだろうが、俺らは様々な試薬を運用する
手伝いをしているんだよ。主にスポーツや医療に用いるための栄養剤やカプセルを作るための」
「別段運動部でなくとも知っている。授業でもやるだろうが」
「まぁ、そうか。で新しい試薬が来て試していたら……ごらんのありさまだ」
「大事なところがすっ飛ばされている気がするんだが」
「察しろよ。急にもがき苦しんだと思えば、人が変わったみたいに襲われてよ」
おー、いてぇと愚痴をこぼしながら部員は首を振る。
柔らかな風が吹くも、裂傷を負った部員達にとって傷口を撫でられることは痛み以外の感情を覚えさせないほど辛いものだろう。予測通りに表情を歪める。私も口を挟んでおく。
「その割には出血が酷いようだけど?」
「あ、アンタは……いや、あなた様はリオン・ハーネット・ブルク様では?」
「そ、そうだけど」
嫌な予感がする。部員の男子学生は亮と話していた時とはうってかわって、瞳を輝かせて向日葵のような笑顔の花を咲かせた。多分、私の顔は引きつった笑みでも貼り付けているだろう。
どうにもアルメリア人にはアイドル気質というか、新しいものを神聖化するような風潮がある気がする。
「あ、あの……後でサインをもらっても?」
「ええ。私なんかのものでよければ」
「あ、有難う御座います! で、そのあなたはどんな用事で……」
「私も気になるの。最近、変な噂が多いから」
核心だけを突くよう問いを並べる。聞いた話との称号もしなければいけない。
「上で熱中症みたいに倒れた、って聞いたけれど」
「え、ええ。水を飲ませたら急に暴れ出して……」
「首をかきむしったのは、水を飲ませる前? それとも後かな」
「後ですね。咳き込んでからだったもので、てっきり器官にでも入ったのかと」
近付いたところで攻撃に遭い、抑えようとして傷つけられ……そういった具合らしい。
亮がなんとも言えない表情で見ているが無視。咳き込んでいた、ならばどこかに吐き出したものがあるかもしれない。その試薬といういかにも胡散臭い物体が。
「コレかね?」
何とも手際よく動いていた刃助が手に持っていたものを投げる。
そんなぞんざいな扱いでいいのか、と呆れつつも受け取ると少し端の溶けたカプセルが手のひらの上で転がった。中から白い粉状の薬らしきものがこぼれている。
直接触れるのは危ないか、とも思ったが自身の〈死神〉としての能力を思い返し、危険性そのものを頭の隅へ追いやった。じっ、と粉を見ていると背後で歓声。
「マスゴミの次はなんだ?」
「あー、なんか医者が来たみたいっす」
「救急車はもう来てたっけか」
「いや、その坂敷とかいう緑化地区の……」
言葉を交わしているうちに、燦々(さんさん)と降り注ぐ太陽を遮って私の体に影が落ちる。
「ご紹介どうも。僕がその坂敷 晴明です」
顔をあげると、白衣を着た線の細い男性が微笑んでいた。
本当に笑っているかどうか定かではない、糸のように細い瞳が見開かれ思想も奥底も覗けず、逆に見透かされるような鳶色が私を見る。
「さて、僕にも確認させてもらおうかな。その〝試薬〟とやらを」
拒絶など許さない、と瞳が語っているかのように思えた。