1-7 理想と現実の狭間
降り注ぐ流水を体に受ける。
控えめな膨らみを伝い、おなかを通り腰から太腿へと流れていく。
冷たさは体温を下げても心の熱さまでは冷ましてくれない。
シャワーの直下で壁に両手をつき、小さく溜息を吐いた。
「どうして、あんなに」
濡れた水色の髪が体に張り付く。
肌から感じる気持ち悪さよりも、より濃密な精神汚染の方が問題だった。
彼らは、〈灰絶機関〉の面々は呼吸するように人を殺す。
罪を根源から滅ぼすことは、即ち罪を生み出す人間の生命を奪い去ることを意味している。
事前に聞いていたし、この目でも見たことだ。
そう、目の前で坂敷 千影は殺してみせた。
「うっ……」
胃から駆け上がってくるモノを堪えて、喉奥で押し留める。
逆流する酸に食道が焼かれるも嘔吐感よりなお深く暗い魂の傷跡が疼いていた。
切り裂かれた肉体と、ばら撒かれたヒトであったもの。
虫を踏み潰したような目で地に這う男を見下ろす黒髪の美女。
〈灰絶機関〉の首魁は、まさしく悪鬼とでも呼ぶべき冷徹な殺人者だった。
あれが覚悟の表れなのだろうか。
人の身でありながら、同じ人に対して独善的と言える〝死罪を与える〟という殺人を行った。
「一万人殺し……」
思い返す。送り届けられる車の中で、坂敷 紅狼が語った言葉を。
千影との言葉での殴り合いは、半ば強引に打ち切られた。そして、告げられた標的。
各国で暗躍するという反政府組織、戦争の火付け役である犯罪組織デイブレイク・ワーカーが標的だと告げられた。
鼻歌交じりにライトバンを駆る紅狼。
特に何を見るでもなく、外に流れていく夜の町並みを眺める亮。何とも居心地が悪い。
「あ、あの……紅狼さん」
「ん? リオン、だったか。鼻歌はまずかったか」
「い、いえ。そうではなくてちょっと聞きたいことが」
「俺に答えられる範囲でなら、どうぞお好きに」
さらりと返される。気楽というか能天気というか、どうも緊張感に欠けると思う。
いや、張り詰めた空気の中で常に死と隣り合わせの緊張を強要されるよりは遥かにマシだと言えるのか。
ひとまず許可はもらったので、単刀直入に問おうと意気込む。
「その、単刀直入に聞かせてもらいますが、紅狼さんが〝一万人殺し〟の証明者ですか」
「ああ。そう〝らしい〟な」
「えっ……」
またあっさりと、回答は来たがらしい、とはどういう意味なのか。
「ないんだよ。ここ数年の記憶がすっぽりと、な」
「記憶喪失、ということですか」
「ああ。断片的うんたら……あー、その。あれだ。まぁ、記憶喪失だってさ」
いい加減だ。ならば、本当に条件として成立しているかどうか怪しい。
むしろ成立して欲しくないのかもしれない。
いくら、理不尽な呪いを押し付けられたとしても一人が生きるのに一万人が犠牲になるのでは全く理屈に合わない。
そんな救済方法が許されていいはずがないのだ。
「かなり昔にも、そういう話があったらしいからな。何でもウチも仲間割れがあったとか」
「自分の境遇に絶望して、とかですか」
「それもあるだろうなぁ。ただ、やっぱり過信から来たものは大きかったらしいぜ」
過信。人より優れた力を持つと、それを自慢したくなる。
たとえ行き着く先に待っているのが定められた死だとしても、それまでの人生を享楽的に過ごす。
そんな選択肢もあるだろう。人という存在ならば。
「俺からも聞いていいか?」
「はい。私が答えられる範囲なら」
言ってから、はっとする。別に意趣返しというわけではないが、ついつい口から出てしまった。
紅狼は一瞬だけバックミラーに目をやってから続ける。
「随分と、殺すことを嫌っているらしいな。何か宗教的な縛りか?」
「いえ。単に、私には殺すことだけが解決策だとは思えないだけです」
「ふぅん。まぁ、蒸し返すような真似はしないけどさ」
横目で亮を見るが、特に反応は示さない。頬杖をついて外の景色を眺めている。
信号に捕まり、停車した。紅狼が「いいか?」と問いながら左手で掲げたタバコの箱を揺らす。
少し考えて「できれば遠慮して欲しいです」と言っておく。
残念そうに左腕を下ろすとほぼ同時に信号が進行の色を灯した。また動き出す。
「リオンちゃんはさ――」
「呼び捨てで構いませんよ。年上なんですし」
「これは失礼。改めて、リオンは何故刑罰に死刑があると思う?」
「それは……」
思わず何かのテストかと勘ぐってしまう。やはり、亮は動く気配を見せない。
話を聞いているのかいないのか。どうしてかやきもきした気持ちになる。
考えて、模範的な回答を示してみる。
「犯罪抑止のため、じゃないんですか」
「違うね。抑止、なんて言ったら法律があれば事足りるじゃないか」
「確かに、実際に法律があっても犯罪は無くなりませんけど」
「無くならないだろうなぁ。ヒトがこの世界に存在している限り、ね」
何が言いたいのだろう。
だから、法の枠から外れた、裁けない人間は殺していいというのだろうか。
それはただ〈灰絶機関〉による殺人を正当化しようとするこじつけに過ぎない。
苛立ちが言葉に乗ってしまう。
「だったら、答えは何なんですか」
「よくある話だよ。多分、誰だって一回くらいは思ったことがある」
「勿体ぶらないで教えてくださいっ!」
「おー、怖い怖い。なら回答。死刑があるのは、人々に望まれているからだよ」
「……どういう、意味ですか」
少し低めに、問い返す。そうではない。
体制が変わったとはいえ、アルメリア王国は基本的人権に基づいて法律はあくまで人々を更生させるためにあるものだ。
死刑は、いわば命を終わらせるもので更生させることを放棄した、と言ってもいい。
「憎まずにはおれず、殺さずにはおれず、赦さざるもの」
「そう、だな」
「被害者感情、という奴だ」
ぽつり、と亮が告げた。視線を移すと目が合う。
呆れと諦めと、嘲笑が混ざり合った複雑な笑み。また信号に捕まり、停車する。
「誰でも一度は思ったことがあるはずだ。許せない、殺してやりたい、と」
「……亮、も?」
「殺したよ。憎まずにはいられなかったし、殺して芽を摘んでおく害悪だと
思ったし、後悔はしていない。そもそも、許す必要などないからな」
「そんなのって」
「基本的人権の尊重や、法律の存在意義を揺るがしている、か?」
思わず喉を鳴らしていた。
そっくりそのまま、言おうとしたことが亮の口からこぼれだしたから。
そう告げた顔が酷く、悲しそうに見えたから。
「おーい、あんまり騒ぐなよ」
「大丈夫ですよ、紅狼さん」
「ま、言葉で殴りあうのは俺の趣味じゃないしな」
かんらかんらと笑う紅狼はおいて、亮と視線をぶつけ合う。
一体、どれほどのものを見ればそう思えるのだろう。
殺してしまうことが、かけがえのない命を奪ってしまうことが正当化できるのだろう。
「言ったはずだ。俺はいつでも殺されてやる、と」
「……それで、贖罪のつもり?」
「いや。それが来々木 亮という人間の、迎えるべき最期で最良の使い道だからだ」
これだ。多分、坂敷 千影も目の前の青年も同じ信念で動いている。
まずヒトを捉える視点が違っているのだ。
一人ひとりが生きている大切な存在ではなく、彼らは彼らの信念に則って厳然たる区切りがなされている。
「道徳上、人の命は尊いと言われる。が、本当にそうか?」
「尊い、はずよ。家族がいて、友達がいて、恋人がいるかもしれない。恨まれるもの」
「だろうな。それでも、俺達は新たな犠牲者が生まれる前に根源を滅却する」
「それはっ!」
言いかけて、辞める。意味がないんだ。
再び車を発進させ、速度を上げながら紅狼が口を挟む。
「あー……話を戻すとな。少なからず遺族による応報的な懲罰願望があるわけだ」
「目には目を、歯には歯を、ですか」
「その通り。で、リオンの言う〝恨み〟も誰にでもある罰されて欲しい、害したい願いだ」
「なら、法律は何のために……」
言って、思い出す。自らの境遇を、ここまで来た経緯を。
「……いえ。そう、なんですね。被害者感情を形にしたのが、〈灰絶機関〉のあり方」
「違う。あくまで〝建前上はそう思われている〟だけだ。結果的にそうなっている
だけで、俺達の意識は被害者感情がどうとか、遺族がどうとかいうのは関係ない」
はっきりと亮が言い切る。が、今しがた言ったばかりではないか。
亮自身が恨み、被害者感情によって殺人を犯したのだと。
笑う。亮が自らを蔑むように、儚く悲しげな笑顔を見せる。
「リオン。お前の言いたいことは分かるよ。連鎖する、って言うんだろう? その前に、
殺したものにだけ分かるものがあるんだよ。特に、復讐という最悪の殺人を犯した後に」
「……何、だっていうのよ」
「空虚さ、だ。恨み憎んで仇を討とうが、何にもならない。この胸に空いたモノが、
より深く暗く淵を広げて疼くだけだ。何の、意味もないんだ」
亮が親指だけ立てて、握った拳で自らの心臓を差す。
「だから、俺は罪を殺すために生きる。そして、役割が終われば消費される。それでいい」
「そんな、生き方って……」
「一人殺せば、同じだ。何人だって繰り返せる。それこそ呼吸するように、な」
――そう。愉しんでいる、とでも言いたげに亮は淡々と告げた。
雨が降っているかのような音が連続して鼓膜を叩いている。
そこでシャワーを流しっ放しだったという事実に気付いて、バルブを閉めた。
瞼の裏に焼きついた悪鬼の笑みを振り切るように頭を振って水気を飛ばしていく。
手近においていたゴムを手にとってバスルームから出た。
軽く眩暈を感じて、体を拭くのもそこそこにバスタオルを体に巻いて廊下に出る。
キッチンまで歩き、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出す。
キャップを外して一口、また一口。
多分、自分が吐き出したいであろう衝動的な言葉と一緒に飲み込んでいく。
無様にも坂敷 千影に突っかかり、紅狼にも刺々しく接してしまった自己嫌悪。
加えて亮にまで言われてしまったこと。
「それでも、私は……パパとママを殺した〈灰絶機関〉を、認められない」
冷蔵庫の扉に貼り付けた写真を見る。
人間に宿る力を自然界と共存できる聖なる力を捉え、信奉するイズガルト連邦。
対して〈灰絶機関〉を率いて襲撃し頂を奪われた旧日本、現アルメリア王国は持ち込んだ科学技術によって随一の技術大国となった。
一方で様々な地下資源や鉱物を駆使し、機械技術を発展させたのがウランジェシカ帝国。
写真に映る二人はかたやAI技術を発展させ、今日の自律回路技術を確立させた男。
もう一人は機械人形の効率的な生産と能力の向上に尽力した立役者。
職場で出会い、恋愛して子まで成しながら自らの信念を貫き職務に全うした男と女。
そんな家庭を顧みない両親だったが、それでも親子だ。
だが釘を刺されてしまった。あんなにも、悲しく儚い笑顔で言われてしまった。
復讐は何も生まない。あるのはより深く暗い闇に落ちるだけの、伽藍なのだと。
「機械人形だって、いい方向に使えるんだから……」
理解したくないわけじゃない。
意図したかどうかは問題ではない。
ウランジェシカが兵器を含む重工業を主産業としている。
視点次第では武器を作ったことが間接的に人を殺すことになってしまう。
極論ではあるが、二人は殺人道具を作り続けていたことになる。
「違う! パパとママは未来に生きる人のために……」
言いかけて、気付く。同じではないのか、と。
殺人という罪を、未来の被害者を助けるための犠牲だと言い切るのと同じ。
道具が使い方次第だと言っても、人を害せるものは殺害する可能性をはらむ。
結果的にこの空のどこかで両親の生み出した技術が誰かを殺しているかもしれない。
「だったら、どうして」
何故自らは罰されていないのか。直接手を加えていないからなのか。
いや、ならば両親が殺される理由もないはずだ。
思考の糸が絡まる。真相を確かめる以外に、もう一つ掲げた理由。
脳裏に景色が浮かぶ。
見たことないはずの景色が、笑いあっている少年少女の結末を思うとこんなにも悲しく辛い。
知らないはずの、だが強く抉られる胸の痛み。
少年が呼んでいる。リオン・ハーネット・ブルク。
そのどれにもかからない名前を。
「私は、サユリじゃない……どうして――」
何故。来々木 亮はこのリオンのことを〝サユリ〟と呼ぶのか。
自分じゃないはずの景色に、言葉に、感情に自らが揺さぶられている。
だから、確かめるために会いに来た。
「亮……」
果たして、直接聞いて答えてくれるのだろうか。
流石に両親の死に対して坂敷 千影に問いただす気にはならなかった。
はぐらかされるのは目に見えているし、立場を危ぶまれる可能性もあった。
だが、この魂を削り取るような痛みだけは取り去りたい。
理不尽に過ぎる呪いと一緒に消し去りたい。
「たとえ、取り戻せなくても……」
喪ったものは、命は取り戻すことができないのだ。
奪われる痛みを知っているから、奪いたくない。それ以外の選択肢を探す。
「それが、私の戦い」
理由。クラッドチルドレンとして生きることを強いられた上で、己に課す信念だ。