B1F-5 弓削大二郎33歳、酒は辛口
「あぁ倉永か…おかえり。弓削が待ってるよ。今日貸切だってさ」
ただいま、と呟いてため息を漏らす。カウンターの少女は秀に気付いた様子はない。
「後でいいから、エレも来てよ。」
「いーやだよ弓削イライラしてるもん。」
すがるような倉永の目。
「…わかった。料理持っていくまでは頑張ってよ。」
異国の少女は絹のような仕草で椅子から滑り降りる。憐れみたっぷりの大きな目がようやく秀を捉え、さらに、さらに大きく膨らんだ。
「倉永が男連れてきた!」
秀は冷房がついたのかと思った。風を孕んだ倉永はまさしく疾風怒涛の勢いで少女に接近、細い腕を伸ばし暗殺者のごとき手際で口を覆う。
「…こえが、おおきい…」地を這うような声音である。秀は急な展開についていけず凍り付いている。
しばらくごちゃごちゃと揉み合っていた二人だが、さらに小声で何か言い合っていたかと思うとようやく二人並んで秀に向き合った。倉永はんんっと小さく咳払い。
「芹沢くん、こちらエレノアです。」
実にぞんざいな紹介をされた。エレノアは小野田とそっくりな角度のおじぎをして、初めて秀のほうを向いた。カウンターに座った様子はずいぶん大人っぽく感じたものの、落ち着いてみてみると秀たちよりずいぶん子どもの様である。
「エレノアです。ここの店主をしています。」
ぞんざいな自己紹介をされた。エレノアはさっさと踵を返すとカウンターに向かい、がちゃがちゃとなにかの準備を始めた。カウンター6席、テーブル3台の小さな店に食器の軽い音が響いている。
「事情はなんとなく分かったから、芹沢さんも食べて行って。弓削も待ってるし。」
「ん、ありがとう。でもこっちが事情全然わかってないからその前にいろいろ説明がほしいんだけど」
「弓削が全部話すよ。料理準備していくから、ドアの奥の席へどーぞ。」
「最初から居てってば。」倉永は妙に必死である。両手でエレノアのエプロンの裾を強く握っている。
「ほらほらわがまま言わないでよお姉ちゃん、今から火使うんだから。」
状況がいまだに掴めていない秀は諦めて表情豊かな倉永を眺めて楽しむことにした。これが倉永の素だとするならば、そのうちこんな倉永を学校でも見られるときが来るかもしれない。
部屋の奥にある扉は外のドアと全く同じ形で、ドアノブの上に張ってある全く同じ付箋に手書きで「PRIVATE」と書いてある。
「奥に弓削が来てる。行くよ。」
さっきからため息を連発していた倉永があきらめたように行った。秀はうなずくしかない。が、途切れることなく押し寄せる疑問に脳は仕事を放棄し、むしろ本能の部分で新鮮な動揺に高揚しているのを感じる。
倉永が軽くドアをノックし、返事を待たず開ける。倉永がドアを開けた後に中から「どうぞ」と聞こえた。
ドアの奥は6畳ほどの小さな部屋になっていて、内装は外の通路と同じ赤レンガと橙色の照明だがその無骨さがなかなかいい雰囲気を出している。
部屋の中心に置かれた円卓には椅子が5つ。上座にはぱりっとしたスーツ姿の男が座り、傍らに白衣の女性が背筋を伸ばして立っている。スーツの男は二人を見て目を細めると口を開き、何とも粘性のある声を出した。
「遅かったじゃあないか。それに、こっちまで声が聞こえていたぞ、倉永。」
優雅な動作で椅子を指さし二人に勧める。伸ばしたスーツの袖からシャツのカフスボタンがギラリと光った。
秀は何も考えず椅子を引こうとした。しかし倉永は座ろうとせず首だけで秀のほうを向いて早口にしゃべる。
「芹沢くん、こちら弓削。」
「あ、話題の…」
「そう、話題の弓削大二郎だ。君の名前は?」
芹沢秀です、と言ってつむじが見えない程度の会釈をする。再度椅子を勧められてようやく倉永はようやく席についた。秀も子犬のように従う。
「家をとられちゃったみたいだから、連れてきた。」
倉永はさっきから弓削のほうを見ようとしない。テーブルの上に置かれた調味料の瓶を眺めながら安っぽいテーブルクロスのレースを指先でいじくっている。
「急な来訪ではあるが、倉永が外から連れてきたということでこちらは大体の状況を了解している。今度はきみが我々とこの場所について了解する番だ。」
弓削は懐から秀の見たことのない細く長い煙草を取り出し火をつけた。部屋に妙な香りのついた紫煙が立ち上り、倉永が眉を寄せ、直立不動の姿勢を崩さない女がどこからか灰皿を取り出す。