B1F‐4 胡椒、素朴。
倉永が地下街と呼んだその場所は意外なほど広く、清潔な感じがした。少し薄暗いが橙色の照明もなかなかいい感じである。
「おや、倉永さん、お友達ですかな」
たったいま降りてきた階段の陰に何の変哲もないパイプ椅子が一つだけ置かれている。振り向いたその場所に、痩せこけた、上品な雰囲気の老人が座っていた。
「うん、帰れなくなったって」
倉永は小野田さん、と実に簡潔な紹介をした。小野田は立ち上がり、見事な角度の礼をして、秀は首をすくめるような会釈を返す。初対面の挨拶はどうも苦手だ。
「ここでの生活に不安はあるでしょう。しかし、ここでは少なくとも衣食住に不自由するようなことはありません。あなたが家を取り戻すために我々は協力を惜しまないつもりです」
小野田は全く悪意のない柔和な笑顔のままである。秀は「はあ、ありがとうございます」とありがたくなさそうに言って、そのまま疑問を口にする。
「あれ、家を取り戻すって…?」
何で知ってんの、と言いかけた秀に倉永が答える。
「芹沢くんみたいな人、ここにはけっこういるから」
またしても仰天の情報である。家が忽然と消えるという、馬鹿馬鹿しい、朝帰りした酔っぱらいの言い訳みたいなことが頻繁に起こっているというのか。
思考の渦にはまってしまい硬直した秀をよそに小野田が倉永に向き合った。
「そうそう倉永さん、弓削様がお待ちですよ」
小野田の言葉に倉永の顔が暗くなる。宿題を忘れた小学生のような、避けられぬ災難にすべてを諦めたような雰囲気である。
「あぁ…分かった。今から行くよ…」
倉永が半ばやけくそ気味に秀の袖を引っ張って行くのを小野田は目を細めて眺めていた。
倉永はそのまま100メートルほど歩いた。途中で何人かにすれ違い、倉永が挨拶するのをぼんやりと眺めていた秀は小野田の言葉を思い出していた。
「なぁ、小野田さんが我々って言ってたけど―――」
「今から会いに行くっ」
さっきから不機嫌そうである。倉永と下校してからの数時間で随分印象が変わった。少なくとも転校初日以降不登校になるようなタイプではないと思うが、こんな得体のしれない場所で生活している以上彼女にもなにか事情があったのだろう。
地下街の通路にはほぼ等間隔に入り口と同じような鉄製のドアがついており、それぞれに看板のようなものがつけられている。階段を下りたすぐそばのドアには木目に墨で「小野田」と書かれた日本風の表札がかかっていたのを秀は見ていた。
立ち止った倉永の正面数十センチのところにあるドアも例外ではない。ワープロで文字を印刷したA4のコピー用紙をセロハンテープで貼り付けただけのあんまりにもおざなりすぎる看板。
”restaurant bar 黒牛の舌”
看板とも呼べないような看板であるが、その下部にさらに付箋が貼ってある。100円均一間違いなしの安っぽいものだ。
”準備中”
秀は腕時計を見た。午後5時前。レストランなら準備中でもおかしくない時間である。そもそも食事をするような時間ではない。しかし、倉永は全く意に介さずドアノブをひねり重そうなドアを開けた。
カウンターに一人の少女が居る。そばかす一つない、陶器のような肌。赤い三角巾の両側から垂らしたブロンズの三つ編み。気だるげな青い瞳には年齢不相応な色気があった。