序ノ三 交戦(エンゲージ)
伊藤倫という人物について説明しておこう。
この倫という名前、本来親からもらった読みは(りん)であるが、本人曰く「お高くとまっててうっとうしい」とのことで基本的に自分で名乗るときは(とも)と名乗ることにしている。
このエピソードに代表されるように勝手気ままで変な女という印象を受ける倫だが、不思議と求心力のある人物だった。でしゃばりはせずともなにかにつけ倫の意見を求めるような雰囲気がこのクラスにはあった。
その倫が登校してきた倉永を気にすることは当然のことだっただろう。
一学期よりも夏休みの分だけ少しほこりっぽい匂いの教室は久しぶりに会う同級生たちの弾んだ会話で騒がしく、無数のスリッパに蹴られ舞い上がったほこりで鼻がムズムズする。
何食わぬ顔で教室に紛れ込み、級友の高津らとの会話に参加しようとした秀は急に尻を蹴られて振り返った。
「あんた初日からなにやってんの」
仏頂面の倫である。三白眼気味の目のせいで普通にしていても睨むような不機嫌な目つきになってしまうのが倫のひそかな(そしておそらく唯一の)悩みだった。
気圧された秀はみっともなく口ごもる。
「あぁ、スマン、寝坊です」
「バッカだねほんと。ちょっと面白いことあったのに」
口調とは裏腹に倫はやけに嬉しそうで、面白いこととやらに興味の湧いた秀は席に座り倫と向き合う。
「嬉しそうだな。なにがあったんだよ」
「倉永さんが登校してきた」
へぇ、と秀は思う。倉永加奈は一学期最初の日、つまり秀らが二年生になって最初の日に転校してきた女の子だが、一学期は転校初日を除いて一切登校してこなかった。
倉永が登校してこない理由に関しては病気だとか世界を股にかける女子高生スナイパーとして依頼をこなしているからだとかだとか実に無責任かつ多種多様な噂がたっていたが、ひと月もすると噂は収束し倉永という人物がいたことも皆忘れがちになっていった。
「ほら、あそこ。あの子かっわいいよねー」
「確かに倫が好きそうな感じだな。ていうか俺ちゃんと顔見たの初めてだ」
現在倉永は秀から見て右に二つ、前に三つの席に座り退屈そうにしている。二学期に入って今日転校してきたならまだしも一学期も一応在籍はしていたわけで、クラスのおせっかい係の女子も厳密には初対面というわけではない倉永に話しかけづらいようで遠巻きに見ているだけだ。
「よし、あたし話しかけてくる」
倫は威勢よく立ち上がるとショートカットのえりあしを揺らして倉永に近づいていく。