第10話
エタが何とか道をかき分けて進んでいくと、目の前に小川があった。小川の水は、濁っていた。エタはおかまいなしに、その水を飲んだ。喉が渇いていた。
しばらくその小川のほとりで座り込んでいると、隣に子連れの鹿が来た。鹿の親子は、濁った水を、少しずつ飲んでいた。
「こんにちは」
鹿の母親は言った。エタは小さな声でこんにちは、と言う。鹿の母親は、長いまつ毛の瞳をまばたきさせると、優しい声で尋ねた。
「どこへ行くの? お嬢さん」
「東の果てへ、女王様の薬を探しに」
隣で水を飲んでいた鹿の子どもが急におかしな声をあげた。母親の鹿が、驚いてその子どもに声をかけた。何かが落ちる音がした。見ると、子鹿の足が地面に1本転がっている。エタは、また自分が生きているか不安になった。ナイフを取り出し、腕を切った。
「私は生きているわ」
エタが自分の腕に傷を作るその光景を、母親の鹿は眺めていた。そして、3本足になった子鹿のほっぺたを、ぺろぺろと舐めながら言った。
「あなたは、平気で自分を傷つけるのね」
子鹿は、3本になった足で、落ちたもう1本の足に近寄り、必死にくっつけようとした。しかし、落ちた足は次第に腐り、異様な臭いを放った。子鹿は恐がって母鹿に擦り寄った。母鹿は、哀れみの瞳を子鹿に向けた。そしてまたほっぺたを舐めだした。
「この森の生き物は、もうすぐみんないなくなるわ」
母鹿はぽつりと言った。
「ごらんなさい。 鳥たちは言葉も忘れてどこかへ飛ぼうとしている。 じきに命をなくすことを知っているから、焦っているのかしら。 …それなのに、あなたは平気で自分を傷つけるのね」
「傷つける?」
エタは怒りを込めて言った。
「これは私の命の証だわ」
その声を聞くと、母鹿はふっと笑った。そして、子鹿を眺めたのと同じような哀れみの瞳でエタを見た。
「あなたは笑顔を失ったのね。 そして、自分を平気で傷つけることを知り得たのね」
「笑顔?」
お母さんがいなくなってから、エタは笑うことができなくなった。ふと、お母さんを思い出した。毎朝、髪の毛を結ってくれた、あのお母さんを。
「東に行くのよ」
すべてを忘れるように、エタはつぶやいた。お母さんの顔を、必死に忘れようとして。母鹿は、長いまつ毛の瞳を、またぱちぱちさせた。
「女王様の薬を手に入れるの。 そして、もとの世界へ帰るの」
エタは、さよならも言わずに小川をぴょいと飛び越えた。鹿の親子は、おかしなものでも見るような目つきでエタを見ていた。エタは、その視線を感じていたが、振り返ろうとはしなかった。すると、後ろで、また何かが落ちる音がした。確かに二つ、音が響いた。エタは、決して振り返らなかった。何が後ろで起こっているか、察しがついたからだった。
また、ナイフを取り出し、自分の肌に突きつけようとしてから、母鹿の言った言葉を思い出した。
――あなたは平気で自分を傷つけるのね
「関係ないわ」
エタは自分に言い聞かせ、また真っ赤な液体をあふれさせた。なぜだか、痛みを感じなかった。
「生きていないの?」
もう一度、突きつけた。しかし、やはり痛みは身体を走らない。エタは不安になった。ティナの声が、また脳裏に蘇る。
「私もなの?」
あごがかちかちと音をたてた。エタは、ナイフをポケットにしまい、ただ東へ向かった。もう余計なことを考える暇はなかった。途中何度、転んだか知れなかった。それでもやはり痛みはなく、転んだ、という感覚すらなかった。エタはだんだん恐くなってきた。自分にも、ムーや鹿の親子に訪れた何かがやって来るのだと思った。