第37話:冬用シュラフ(マミー型)の魔力
本格的な冬が到来した異世界ファルマ大陸の森。
日が傾き始めると、森の空気は一気に氷点下へと近づき、吐く息だけでなく、周囲の空間そのものが白く凍りつきそうなほどの厳しい寒さが押し寄せてくる。
「くっ……! 陽が沈むと、途端にこれほどまで冷え込むとは……!」
千秋のキャンプサイトの焚き火の前では、エルフの植物学者ロイドが、ガチガチと歯を鳴らしながら再び激しい震えに襲われていた。
朝方、千秋から渡された『湯たんぽ』の優しさに包まれて爆睡し、すっかり回復した気になっていたロイドだったが、エルフという種族の寒さに対する根本的な弱さは変わっていない。
昼間は日差しと焚き火の熱でなんとか持ち堪えていたものの、夜の魔の森の北風は、薄手のマントしか羽織っていない彼の体温を容赦なく奪い去っていく。
「ロ、ロイドの旦那、大丈夫か? 顔色がまた真っ青だぞ」
ジンツが心配そうに声をかけるが、ロイドは首を振る余裕すらない。
焚き火の炎にどれだけ近づいても、背中から吹きつける冷気が、彼の中に残されたなけなしの熱量を削り取っていく。
「だ、ダメだ……。私の……『ゆたんぽ』は、どこだ……。あれを……あれを私に……」
「あ、湯たんぽなら、もうお湯が冷めちゃったからお湯を沸かし直してる最中だよ。ちょっと待っててね」
千秋がダッチオーブンで新たにお湯を沸かしていると答えると、ロイドの目に絶望の色が浮かんだ。
お湯が沸くまで、この地獄のような寒さに耐えなければならないのか。いや、それどころか、夜が深まればさらに気温は下がる。いくら湯たんぽがあっても、薄着のままでは防ぎきれない寒さが確実に来る。
「……すまない、チアキ殿。私は……一度、オースの街に撤退する。このままでは、夜を越えられん……」
ロイドは震える足で立ち上がり、決死の覚悟で帰還の意思を示した。
彼にとって、千秋のキャンプサイトにある数々の『現代ギア』の謎を解き明かすことは至上命題だが、命あっての物種である。これ以上この場に留まるのは、学者としての探究心よりも、生物としての生存本能が強烈な警鐘を鳴らしていた。
「ええっ? 今から帰るの? 真っ暗で危ないよ。それに、せっかくこれからみんなで『夜の宴会』をしようと思ってたのに」
「し、しかし……! 私の肉体は、この極寒の森の夜には耐えられんのだ! これ以上の滞在は、貴様らにも迷惑を……!」
「うーん……。まあ、確かにその薄着じゃ、湯たんぽ一つあっても厳しいかもね」
千秋は腕を組み、ガタガタと震えている長身のエルフをじっと見つめた。
そして、ふと何かを思いついたように手をポンと叩いた。
「そっか。ロイドさんは『服』を持ってないんだもんね。だったら、最高の『着る防寒具』を貸してあげるよ」
「き、着る防寒具……?」
「そう。ちょっと待ってて」
千秋はテントの中へと潜り込み、ゴソゴソと何かを探し始めた。
そして数分後、彼女が両手で抱えるようにして引っ張り出してきたのは、何やら巨大な『イモムシ』のような形をした、分厚くてフワフワの布の塊だった。
「じゃーん! 冬キャンプにおける絶対の守護神、冬用ダウンシュラフ(マミー型寝袋)だよ!」
千秋が誇らしげに掲げたそれは、マイナス十五度の極寒環境にも耐え得る、現代のキャンパーが誇る最強の就寝ギアだった。
外側は冷気と結露を弾く防水性のナイロン生地。そして内側には、最高級の水鳥の羽毛がたっぷりと詰め込まれており、見た目以上に驚くほど軽い。
身体の形に沿って作られた『マミー(ミイラ)型』と呼ばれる形状は、内部の空洞を極限まで減らすことで、人間の体温を一切外に逃がさず、完璧な保温空間を作り出すための設計である。
「な、なんだそれは……。巨大なみのむしの抜け殻か? それとも、そういう魔獣の死骸か……?」
バルガスが眉をひそめて尋ねる。
異世界においても『寝袋』に似た概念(毛布を縫い合わせたようなもの)は存在したが、これほど分厚く、機能的な形状をしたものは存在しなかった。
「違うよ。これは、人間が中に入って寝るためのお布団。ほら、ロイドさん。とりあえずこれの中に入ってみて」
千秋はダウンシュラフのサイドにある長いファスナーをジーッと下ろし、中をパカッと開いてみせた。
「なっ……! 私のような高名なエルフの学者が、そんなみのむしのような無様な袋の中に入れと言うのか!? 断る! いくら寒くても、エルフとしての矜持がある!」
ロイドは顔を真っ赤にして(寒さで青ざめていたが)猛抗議した。
確かに、マミー型の寝袋に入った人間の姿は、外から見れば巨大なイモムシそのものであり、決してスタイリッシュとは言えない。高貴なエルフの美的感覚からは大きく外れる代物だった。
「えー? せっかく温かいのに。じゃあ、風邪ひいても知らないからね。街まで帰る途中で凍え死んじゃうかもよ?」
「ぐぬっ……!」
千秋の冷酷な正論に、ロイドは言葉に詰まった。
背中から吹きつける容赦のない北風。ガタガタと鳴り止まない歯。
エルフの矜持と、生命の危機。
天秤にかけるまでもなく、結果は火を見るより明らかだった。
「……わ、わかった。背に腹は代えられん。……少しだけ、貸してもらおう」
ロイドは屈辱に唇を噛み締めながら、千秋が広げたダウンシュラフの中へと、靴を脱いでおそるおそる足を踏み入れた。
ズボッ。
長身のロイドの身体が、すっぽりと寝袋の中に収まる。
「よし、そのまま仰向けになってね。ファスナー閉めるから」
千秋はロイドの首元までファスナーを引き上げ、最後に頭の部分をすっぽりと覆うフードのドローコードをキュッと絞った。
結果、ロイドは『顔のほんの一部(目と鼻の周り)』だけを外に出し、首から下は完全に分厚いダウンの壁に包み込まれた、巨大なイモムシ状態となった。
「プッ……! あはははは! ロイドの旦那、マジでみのむしそっくりだぜ!!」
「こ、これは滑稽だな……。エルフの長老が見たら卒倒するのではないか?」
ジンツとバルガスが、そのあまりにもシュールな姿を見て腹を抱えて大爆笑し始めた。
リネットやサリサも、必死に笑いを堪えながら肩を震わせている。
「う、うるさいっ! 笑うな貴様ら! 私だってこんな無様な……」
ロイドは怒鳴り返そうとした。
しかし、彼の言葉は、途中でピタリと止まった。
「……ん?」
ロイドの顔から、先ほどまでの屈辱と怒りの表情が、スゥッと抜け落ちていく。
代わりに浮かび上がってきたのは、信じられないものを見るような、あるいは天国にでも到達したかのような、圧倒的な『恍惚』の表情だった。
「な、なんだこれは……?」
ロイドの口から、震える声が漏れた。
寝袋に入ってから、わずか数十秒。
それまで彼の体温を奪い続けていた氷点下の北風が、分厚いナイロン生地によって完全にシャットアウトされている。
そして何より彼を驚愕させたのは、寝袋の『内側』で起きている現象だった。
温かい。
いや、ただ温かいのではない。
自分の身体から発せられたわずかな熱が、最高級のダウン(羽毛)によって完璧に反射され、逃げ場を失って内部に留まり続けている。
その熱は、マミー型の密着した空間の中で急速に濃度を増し、ロイドの身体を幾重にも、優しく、そして力強く包み込み始めていた。
「すごい……! 熱が、私の体温が、どこにも逃げていかない……! むしろ、自分の熱で自分自身を温め直している……! なんという完璧な熱の循環システムだ……!」
エルフの身体は自ら熱を生み出すのが苦手だ。だからこそ、少しでも熱が外に逃げれば、すぐに凍えてしまう。
しかし、このダウンシュラフは、そのなけなしの熱を『一滴残らず』回収し、増幅させて持ち主に還元してくれるのだ。
「しかも、この内側の生地の肌触り……。絹よりも滑らかで、まるで極上の雲に包まれているかのようだ……」
ロイドの強張っていた筋肉が、完全に解きほぐされていく。
朝の『湯たんぽ』が外からの熱を直接叩き込む「優しい暴力」だとするならば。
この『冬用ダウンシュラフ』は、己自身の熱で己を包み込む「究極の自己完結型サンクチュアリ(絶対安全領域)」であった。
「……あぁ……」
ロイドの口から、再びだらしない吐息が漏れた。
彼は顔だけを出したイモムシ状態のまま、ローチェアに深く寄りかかり、目を細めてうっとりとしている。
「ロイドさん、どう? 温かいでしょ?」
「……チアキ殿。私は……私は、己の愚かさを恥じる」
ロイドは、顔の周りのドローコードで口元が隠れそうになりながらも、厳粛な声で千秋に語りかけた。
「私は先ほど、この寝袋を『無様なみのむし』と蔑んだ。……しかし、それは大きな間違いだった」
「お? どうしたの急に」
「これは……これは、母の腕の中だ」
ロイドは真顔で、とんでもないことを言い出した。
「エルフが生まれて最初に感じる、母なる世界樹の慈愛に満ちた温もり。それが、この布の塊の中には完全に再現されている。……いや、それ以上だ。これはもはや、生命が還るべき『究極のゆりかご』と言っても過言ではない」
「いや、ただの寝袋だからね?」
千秋はドン引きしながらツッコミを入れたが、ロイドの耳にはもう何も届いていなかった。
完全にダウンシュラフの魔力に魂を抜かれ、彼はイモムシ状態のまま、モゾモゾと身体を動かして最も心地よいポジションを探し当て、ついに静止した。
「……私は、決めた」
「何を?」
「私はもう、二度とこの『ゆりかご』から出ることはない。食事も、排泄も、この中で完結させる……。外の過酷な世界には、二度と戻らん……」
「いや排泄は出てよ!! 寝袋汚れちゃうでしょ!!」
千秋が本気で焦って叫ぶが、ロイドは目を閉じたまま「母上……」と呟き、完全に自分の世界(シュラフの中)へと引きこもってしまった。
「あーあ。ロイドの旦那、完全にダメになっちまったな」
「うむ……。エルフの矜持とやらは、あのみのむしの袋の中に完全に溶けてしまったようだな」
ジンツとバルガスが呆れたように肩をすくめる。
現代のキャンパーの叡智の結晶である『冬用ダウンシュラフ』の魔力は、高貴なエルフのプライドを粉砕し、彼をただの「温かさに依存する怠物」へと堕落させてしまったのである。
* * *
それから数時間。
夜の宴会が始まり、ジンツたちが酒を飲み交わし、千秋が温かい鍋料理を振る舞っている間も。
ロイドは絶対にシュラフから出ようとしなかった。
「ロイドさん、ご飯できたよ。食べないの?」
「……食べる。しかし、出ない」
ロイドはイモムシ状態のまま、顔だけを出して器用にもぞもぞと千秋の鍋(ダッチオーブンで作ったポトフ)に近づき、シュラフの中から手だけを少し出してスプーンを受け取った。
「ズズッ……。うむ、美味い。やはりチアキ殿の料理は、身体が温まる……」
シュラフの温もりと、温かいポトフの相乗効果。
ロイドはもはや、この世のすべての幸せを手に入れたような、解脱した仏のような顔つきになっていた。
「いや、本当にそのまま朝まで過ごす気……?」
「当然だ。私には、この『ゆりかご』の謎を解明するという学者としての使命がある。……この内側の羽毛は、一体何の魔獣のものなのか。この保温力の源泉は……むにゃむにゃ……」
ポトフを食べ終えたロイドは、食後の満腹感とシュラフの温かさにより、再び強烈な睡魔に襲われ始めた。
彼はスプーンを千秋に返すと、再びドローコードを限界まで絞り、完全に顔を隠してシュラフの中へと潜り込んでしまった。
「あ、また寝た」
「完全にダメエルフだな。……だが、少しだけ羨ましい気もするぜ」
ジンツが、シュラフの中で丸まっている巨大なイモムシを見ながら、少しだけ羨ましそうに呟いた。
冬のキャンプ。
それは、外の過酷な寒さとのコントラストがあるからこそ、現代の防寒ギアの性能を極限まで感じられる季節。
千秋の持ち込んだ『湯たんぽ』と『冬用ダウンシュラフ』のコンボは、異世界の住人を文字通り「ダメ人間」にしてしまうほどの、優しくて恐ろしい魔力を持っていた。
静かな冬の夜の森。
焚き火の炎がパチパチとはぜる音と、シュラフの中から聞こえるロイドの幸せそうな寝息。
千秋は熱いホットワインをすすりながら、そのシュールな光景を見て、クスクスと笑い続けるのだった。




