第8話 指定された対象
選んでいないのに、選ばされている。
その感覚は、妙に不快だった。
「……それ、誰の名前なんですか」
ミハイルの声が少し低い。
さっきまでの軽さがない。
「さっきの男だ」
「……あの黒い外套の?」
「そうだ」
黒い台帳の文字は、はっきりとそこにある。
俺しか読めないはずのそれが、妙に現実味を持っている。
次の対象:指定済。
そして、その下の名前。
「……勝手に決められるのは、気に入らないな」
俺は小さく呟いた。
今までは違った。
未指定だった。
選べた。
だが今は違う。
「どうするんですか」
ミハイルが聞く。
「やる必要はない」
「でも」
「強制じゃない」
そう言い切る。
自分に言い聞かせるように。
台帳はただの記録だ。
命令ではない。
……たぶん。
「……ですよね」
ミハイルは少しだけ安心したように言った。
その時。
扉の向こうで、また足音がした。
今度は一人。
迷いのない足取り。
ゆっくりと近づいてくる。
「……来たな」
俺は視線を上げる。
扉が開く。
黒い外套。
さっきの男だ。
「……早いな」
俺が言う。
「予測していた」
男は淡々と答える。
そして、まっすぐに俺を見る。
今度は、迷いなく。
「お前の反応が変わった」
「どういう意味だ」
「さっきより、はっきりしている」
観測が強くなっている。
その証拠だ。
「……それで、何の用です」
「確認だ」
また同じ言葉。
だが、今度は少し違う。
「お前が、どこまで“抵抗するか”」
「抵抗?」
「そうだ」
男は一歩近づく。
「指定された対象に対して」
空気が、少しだけ張り詰めた。
ミハイルが息を呑む。
「……知ってるのか」
俺が聞く。
「ある程度はな」
男の視線が、わずかに机の引き出しに落ちる。
「“選べない改訂”が発生することは」
そこまで知っているのか。
「なら話が早い」
俺は言った。
「やる気はない」
「そうか」
あっさりとした返事だった。
だが、その目は変わらない。
「だが、やらなければどうなる」
「何も」
「本当に?」
男は少しだけ首を傾げた。
「試してみるといい」
その言葉は、軽いが重い。
試せ、と言っている。
つまり。
やらなかった場合の結果がある。
「……脅しにしか聞こえないな」
「事実だ」
男は懐から、あの観測記録を取り出した。
「観測する」
ペンが動く。
その瞬間。
台帳が、引き出しの中で微かに震えた。
「……っ」
俺は思わず振り返る。
閉じているはずの引き出し。
だが、確かに何かが動いた。
「どうしました!?」
ミハイルが言う。
「……見てろ」
俺は引き出しを開ける。
黒い台帳。
開く。
空欄の行。
その下。
文字が、変わっている。
――対象未処理。
そして。
――影響:観測強化により、強制進行開始。
「……は?」
理解が追いつかない。
強制進行?
「どうなってるんですか」
ミハイルが聞く。
「知らない」
だが、一つだけわかる。
これは、放置できない。
放置すれば、勝手に進む。
どこへ?
それは書いていない。
「……なるほど」
男が呟く。
「やはり、そうなるか」
「知ってたのか」
「予測はしていた」
つまり。
これも“確認”の一部か。
「お前が拒否した場合、改訂は別の形で進行する」
「別の形?」
「制御不能な形でな」
最悪だ。
選べない上に、放置もできない。
「……クソ仕様だな」
「世界は優しくない」
知っている。
だが、ここまで露骨だとは思わなかった。
「どうする」
男が問う。
また同じ言葉。
だが、今度は本当に選択だ。
やるか、放置するか。
どちらもリスクがある。
「……やるしかないか」
小さく呟く。
ミハイルが顔を上げる。
「本気ですか」
「放置の方が危険だ」
「でも、相手はあの人ですよ」
そうだ。
目の前にいる男。
指定された対象。
「……なあ」
俺は男を見る。
「お前、自分が対象だって知ってるか」
「知っている」
即答だった。
「その上で来ている」
なるほど。
「変なやつだな」
「よく言われる」
表情は変わらない。
だが、少しだけ人間味がある。
「で、どうする」
男が言う。
「俺をどう改訂する」
試されている。
完全に。
「……一つ聞く」
俺はペンを取る。
「お前、死にたいか」
ミハイルが息を呑む。
男は、少しだけ考えた。
「必要なら」
淡々とした答えだった。
「だが、無駄な死は望まない」
「だろうな」
俺は頷く。
そして。
「なら、死なない方向でいく」
ペン先を紙に置く。
黒い台帳ではない。
現実の記録でもない。
その間の、曖昧な場所。
そこに触れる。
男の“状態”。
それを、少しだけずらす。
死亡でも、生存でもない。
その中間。
だが、さっきよりも制御された形で。
「……っ」
負荷が来る。
さっきより重い。
だが、通る。
ペンを動かす。
意味を、書き換える。
その瞬間。
男の体が、わずかに揺れた。
「……なるほど」
小さく呟く。
「これが、改訂か」
苦しそうではない。
だが、確実に何かが変わっている。
「どうだ」
俺が聞く。
「……軽い」
意外な答えだった。
「軽い?」
「存在が、少しだけ曖昧になった」
成功、か。
だが。
「……これ、持つのか?」
「持つかどうかは、お前次第だ」
男が言う。
「観測し続ければ、固定される」
「しなければ」
「崩れる」
つまり。
維持も、負担になる。
「……面倒だな」
「その通りだ」
俺はペンを置いた。
とりあえず。
制御はできた。
放置よりはマシだ。
だが。
台帳を見る。
新しい文字が浮かんでいる。
――対象改訂:成功。
その下。
――次段階:上位改訂 解放。
「……は?」
思わず声が出た。
「どうしました」
ミハイルが聞く。
「……やりすぎたらしい」
上位改訂。
軽微じゃない。
つまり。
「……次は、もっと重いぞ」
そう呟いた瞬間。
台帳の文字が、さらに変わる。
――次対象:複数指定。
背筋に、冷たいものが走った。
「……増えた」
選択肢じゃない。
対象が。
増えている。
「……これ、止まらないのか」
誰に言うでもなく、呟く。
だが、答えは出ている気がした。
これは。
始まってしまった。
読んでいただきありがとうございます。
選べるはずだったものが、少しずつ選べなくなってきました。
そして、“軽微”だった改訂は次の段階へ。
ここから一気に物語が加速していきます。
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