第7話 記録は揃えられる
地下三階に、足音がなだれ込んできた。
「ここだ!」
「さっきの記録、ここに回ってるはずだ!」
扉が開ききる前から声が響く。
さっきの混乱が、そのまま下まで降りてきた形だ。
「……来たな」
俺は小さく呟く。
ミハイルは一歩下がった。
だが、視線は俺から逸らさない。
覚えている。
その事実が、妙に重かった。
「どうするんですか」
「どうもしない」
「どうもしないって」
「今はな」
扉が開く。
数人の職員が流れ込んできた。
その中に、さっきの医務官もいる。
「保管補助室! 叙任記録の控えはここに――」
言いかけて、止まる。
視線が、俺の方に来る。
一瞬だけ、合う。
そして。
「……誰だ?」
逸れた。
「ほらな」
俺は肩をすくめる。
だが。
「いや、待て」
医務官が眉をひそめた。
もう一度、こちらを見る。
今度は、少し長い。
「……さっき、見た気がする」
完全には逸れていない。
観測が、残っている。
「気のせいでしょう」
俺は言った。
「たぶん」
「……そうか?」
納得しきれていない顔だ。
いい兆候ではない。
「それより記録だ」
別の職員が割って入る。
「叙任記録の原本はどこだ」
「ここです」
ミハイルが即答した。
動きが早い。
さっきよりも、迷いがない。
彼は棚から帳面を取り出し、机に置いた。
「……これだな」
職員がページをめくる。
問題の箇所。
死亡記録。
そして、補足。
一時的死亡扱い。
「……なんだこれは」
当然の反応だ。
「誰が書いた」
「知りません」
ミハイルが即答する。
「最初からこうなってました」
いい嘘だ。
半分だけ本当でもある。
「最初から?」
「はい」
職員は顔をしかめる。
「そんなはずが――」
言いかけて、止まる。
違和感に気づいた顔だ。
記録はある。
だが、記憶が追いつかない。
そのズレ。
「……いや、待て」
医務官がページを覗き込む。
「これは……おかしい」
「どこがです」
ミハイルが聞く。
「死亡扱いなのに、生存反応がある」
「そうですね」
「だが記録は整っている」
そこだ。
“整っている”。
俺は少しだけ息を吐いた。
「整ってるなら、問題ないんじゃないですか」
と、軽く言ってみる。
職員たちがこちらを見る。
一瞬だけ。
そして、また逸れる。
だが、完全ではない。
「……誰だ」
「補助です」
「……補助?」
言葉が引っかかっている。
認識されかけている。
「記録が整っているなら」
俺は続けた。
「処理としては成立してるはずです」
「成立……?」
職員が繰り返す。
「はい。死亡扱い。ただし一時的」
自分で言っていて、妙な言葉だと思う。
だが、紙の上では成立している。
「……確かに」
医務官が呟く。
「状態としては説明がつく」
「ですよね」
俺は頷く。
「問題は“どちらに確定させるか”です」
その一言で、空気が少し変わった。
「確定?」
「はい」
俺は帳面を指す。
「今は曖昧な状態です」
「……」
「生きているとも、死んでいるとも言えない」
職員たちが顔を見合わせる。
理解し始めている。
「なら」
誰かが言う。
「どちらかに――」
「そうです」
俺は言った。
「決めればいい」
沈黙が落ちる。
選択の話になると、人は急に慎重になる。
「……医務官」
職員の一人が言う。
「現状、補佐官は?」
「生きている」
即答だった。
「だが、放置すれば危険だ」
「なら」
「戻すべきだ」
結論は、早かった。
人間は、自分たちの世界に都合のいい方を選ぶ。
当然だ。
「では、記録を修正する」
職員が言う。
俺は、少しだけ目を細めた。
「どうやって?」
「それは……」
言葉に詰まる。
当然だ。
誰もやり方を知らない。
ここで。
「俺がやる」
口に出していた。
ミハイルが振り向く。
「えっ」
職員たちもこちらを見る。
今度は、さっきより長い。
観測が、強くなっている。
「できるのか」
誰かが聞く。
「さっきと同じです」
簡単に言う。
実際には簡単ではないが。
「……やれ」
医務官が言った。
「戻せるなら、戻せ」
責任の所在が曖昧なまま、決定が下る。
役所らしい。
俺はペンを取る。
帳面の上。
死亡記録。
一時的死亡。
これを。
戻す。
「……」
深く息を吸う。
さっきより、軽い。
やるべきことがはっきりしているからだ。
ペン先を動かす。
補足の文字。
一時的死亡扱い。
その一部を、削る。
そして。
生存。
その意味へ寄せる。
紙が、抵抗する。
だが、さっきほどではない。
「……いける」
少しだけ押し込む。
意味を、戻す。
その瞬間。
上で、誰かが叫んだ。
「戻った!」
「目を開けたぞ!」
「補佐官!」
ざわめきが、今度は明るい方向へ広がる。
俺はペンを離した。
紙の上の文字は、落ち着いている。
死亡は消え、生存へ。
完全ではないが、十分だ。
「……やったか」
ミハイルが呟く。
「たぶんな」
職員たちが顔を見合わせる。
「……今の」
「見たか?」
「いや……」
誰も、はっきりとは覚えていない。
だが。
結果だけは、残る。
「……処理はこれでいいな」
医務官が言う。
「問題は解消した」
その一言で、場が締まる。
役所は、結果がすべてだ。
原因は後回しでいい。
職員たちは散り始める。
混乱は、終わりへ向かう。
俺は少しだけ息を吐いた。
「……これで、一件落着ですね」
ミハイルが言う。
「そうだな」
だが。
完全ではない。
違和感が、残っている。
俺は台帳を思い出す。
黒い台帳。
引き出し。
未指定。
「……戻るぞ」
二人で地下へ戻る。
部屋に入る。
引き出しを開ける。
黒い台帳。
開く。
空欄の行。
その下。
文字が、増えている。
軽微な改訂権限 行使確認。
対象:叙任記録 一件。
結果:生存状態 再確定。
そして。
新しい一行。
――改訂精度 上昇。
「……は?」
思わず声が出た。
「どうしました」
「精度、だと」
つまり。
さっきよりも、うまくできる。
そういうことか?
「……おかしいな」
普通は、疲れるはずだ。
消耗するはずだ。
だが、これは逆だ。
やるほどに、馴染んでいる。
「……慣れてきてる?」
ミハイルが言う。
「かもしれない」
だが、それは。
いいことなのか。
それとも。
もっと悪い方向への適応なのか。
そのとき。
台帳の文字が、わずかに揺れた。
そして。
新しい一行が、浮かび上がる。
――次の対象:指定済。
背筋に、冷たいものが走る。
「……何だこれ」
その下に。
名前が、書かれていた。
見覚えのある名前。
ついさっきまで、ここにいた。
黒い外套の男。
「……おい」
ミハイルが覗き込む。
「何か見えるんですか」
「見える」
俺は、ゆっくりと言った。
「次の仕事が、来た」
それは。
選んだものではない。
与えられたものだった。
読んでいただきありがとうございます。
ひとつの問題は解決しましたが、代わりに“選べない次”が現れました。
少しずつ、ただの修正では済まなくなってきています。
ここから先は、より明確な対立に入っていきます。
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