第5話 軽微ではない改訂
ペン先が、紙に触れる。
それだけで、呼吸が浅くなる。
さっきまでとは違う。
軽い修正ではない。紙の上に乗っているのは、ただの数字でも誤字でもない。
人間一人の、生死だ。
「……やめましょう」
ミハイルの声が、いつになく真剣だった。
「これは、絶対にダメです」
正論だと思う。
だが、ここで引いたところで状況は良くならない。
黒い外套の男は、すでに結論を決めている顔だった。
「選べ」
男が言う。
「やるか、終わるか」
終わる、というのが何を意味するのかは聞かない。
だいたい想像はつく。
俺は紙を見る。
死亡記録。
補佐官の名前。
さっきまで怒鳴っていた、あの男。
ここに書けば、死ぬのか?
それとも――
「……条件がある」
俺は言った。
男がわずかに顎を引く。
「言え」
「完全な死亡はやらない」
「なぜだ」
「重すぎる」
単純な理由だ。
直感でもある。
「軽微な改訂しかできないんだろう」
「そうだ」
「なら、その範囲でやる」
男は少しだけ考えたようだった。
やがて、小さく頷く。
「いいだろう。結果を見せろ」
ミハイルが、袖を掴む。
「本気ですか」
「本気だ」
「……死んだらどうするんです」
「その時は、その時だ」
軽く言ったつもりだったが、ミハイルは笑わなかった。
当然か。
俺は視線を落とす。
紙の上の文字。
死亡。
成立させろ、と言われた。
なら――
「成立、の定義をずらす」
ペンを握る。
死亡記録の欄に触れる。
その瞬間、重さが来る。
頭の奥が引っ張られるような感覚。
紙の上の“意味”が、こちらを押し返してくる。
――これは、重い。
「……っ」
歯を食いしばる。
さっきのようにはいかない。
ただの修正ではない。
だが、完全な書き換えではなく。
“少しだけ”なら。
ペン先を動かす。
死亡の文字、その横に。
小さく。
補足を書く。
――一時的死亡扱い。
瞬間。
視界が弾けた。
「っ、あ……!」
膝が崩れかける。
ミハイルが慌てて支えた。
「おい! しっかりしてください!」
「……まだ、だ」
紙の上の文字が、揺れる。
死亡。
その意味が、少しだけ歪む。
完全な終わりではない。
曖昧な状態。
“生きているとも死んでいるとも言えない”
その位置へ。
押し込む。
「……っ、ぐ……!」
重い。
さっきの比じゃない。
だが、通る。
完全ではないが、拒絶されていない。
ペンを離す。
その瞬間。
上の階で、悲鳴が上がった。
「なっ……!?」
「補佐官が倒れたぞ!」
「息が――いや、ある!? あるのか!?」
ざわめきが広がる。
生きている。
だが、正常ではない。
「……成功、か?」
ミハイルが震えた声で言う。
俺はゆっくりと息を吐いた。
「たぶんな」
男が一歩近づく。
その目は、さっきよりも鋭い。
「完全な死亡ではない」
「言っただろ、やらないって」
「だが、“成立”はしている」
男は紙を見下ろす。
死亡。
その横の補足。
「……面白い」
小さく呟いた。
「軽微な改訂で、意味をずらしたか」
「ずらしただけだ」
「それで、ここまで影響が出るとはな」
上の階の混乱は続いている。
だが、誰も死んではいない。
ただ、“死んだことになりかけている”。
曖昧な状態。
「……戻るな、これは」
男が言う。
「え?」
ミハイルが顔を上げる。
「完全に戻すには、さらに改訂が必要だ」
「じゃあ、このままだと」
「半端な状態が続く」
嫌な言い方だ。
「……元に戻す方法は?」
俺が聞く。
「ある」
「なら」
「だが」
男は俺を見る。
「それをやるには、同じかそれ以上の改訂が必要だ」
つまり。
もっと重いことをやれ、ということか。
「……なるほど」
軽く舌打ちしたくなる。
これは、罠に近い。
軽微な改訂では済まない領域へ、誘導されている。
「どうする」
男が問う。
さっきと同じ問い。
だが、意味は違う。
今度は、“責任”が乗っている。
ミハイルが言う。
「戻しましょう、すぐに」
「できる保証はない」
「でも、このままじゃ」
正しい。
だが。
「……少し、様子を見る」
俺は言った。
「え?」
「この状態がどうなるか、確認したい」
男が、わずかに口元を緩めた。
「いい判断だ」
「褒められても嬉しくない」
「事実を言っただけだ」
上の階の騒ぎが、少しだけ落ち着いてくる。
完全なパニックではない。
対応できる範囲の混乱。
つまり。
“軽微な影響”に収まっている。
「……本当に、軽微なんですね」
ミハイルが呟く。
「そうだな」
「人が半分死にかけてるのに」
「この役所では、それでも軽い方だ」
自分で言っていて、少しだけ嫌になる。
男は帳面を閉じた。
「確認は終わりだ」
「帰るのか」
「ああ」
そして、扉の方へ向かう。
だが、途中で止まる。
「一つだけ」
振り返る。
「お前は、まだ“選んでいない”」
「何を」
「どちら側か」
どちら側。
曖昧な言い方だ。
「改訂する側か」
「……」
「修正される側か」
その言葉は、妙に重かった。
男はそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。
静寂が戻る。
さっきまでと同じ、地下三階。
だが、確実に何かが変わっている。
「……これ」
ミハイルが震えた声で言う。
「戻すんですよね?」
俺は答えなかった。
机の引き出しを開ける。
黒い台帳。
開く。
空欄の行。
その下に、また文字が増えている。
軽微な改訂権限 行使確認。
対象:叙任記録 一件。
結果:一時的死亡状態 維持中。
そして。
新しい一行。
――改訂対象の影響、観測継続。
「……なるほど」
これは、終わっていない。
むしろ、始まっている。
俺は台帳を閉じた。
上では、まだ人が騒いでいる。
半分死んだ補佐官。
曖昧な状態。
それを、どうするか。
「……仕事だな」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
読んでいただきありがとうございます。
“軽微”の範囲が、少しだけ危うくなってきました。
直したはずのものが、別の形で残る。
次は、この状態をどう扱うか。
選ばなかった選択が、少しずつ迫ってきます。




