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名前も存在もない俺だけが、世界を書き換えられる件 ―観測されない男は、すべての記録を上書きする  作者: 空城ライド


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第3話 名前を書けない理由

 未指定。

 つまり、選べる。


 その一行を見たまま、しばらく動けなかった。

 黒い台帳は何も語らない。ただ、事実だけを置いている。軽微な改訂権限、行使確認。そして、次の対象は未指定。


「……どうしました?」

 書記生が後ろから覗き込む。

「何も」

「いや、絶対何かありますよね」

「見えてないなら、説明しても意味がない」

「それでも気になります」


 もっともだ。

 だが、気になるだけで済むなら幸せだとも思う。


 俺は台帳を閉じた。

 ぱたりと音がして、さっきまでそこにあった“選択肢”が、引き出しの中に沈む。


「一つだけ、試します」

「試すって……」

「さっきと同じことを、もう少し意図的に」


 言葉にしてみると、少しだけ現実味が出る。

 偶然ではなく、行動として選ぶ。


 書記生は不安そうに顔を歪めた。

「危なくないですか」

「危なくない保証はない」

「じゃあやめましょう」

「でも、さっきのまま放っておくのも危ない気がする」


 これは勘だ。

 根拠はないが、外したくない種類の勘。


「……何をするんです」

「簡単なことです」


 俺は部屋を見回した。

 いつも通りの、埃と紙の空間。誰もいない。誰も見ていない。


 いや、一人いる。

 目の前に。


「あなたの記録、借ります」

「え?」


 書記生が固まる。

「え、えっと……何を言って」

「名前、教えてください」

「な、名前ですか? 急にどうして」

「確認したいことがある」


 少しだけ間があった。

 迷っている顔だったが、やがて観念したように口を開く。


「……ミハイルです」

「ありがとう、ミハイル」


 その名前を口にした瞬間、妙にしっくりきた。

 紙の上に乗せても違和感が出ない名前だ。


 俺は引き出しを開け、黒い台帳を取り出す。

 再びページを開く。


 空欄の行。


 ペンを取る。


「ちょっと待ってください!」

 ミハイルが慌てて手を伸ばした。

「それ、俺の名前書く気ですか!?」

「借りるだけです」

「借りるって何ですか!?」


 いい質問だ。

 だが、答えは俺にもわからない。


「少しだけ、試す」


 そう言って、俺はペン先を紙に触れさせた。


 ミハイル、と書こうとする。


 瞬間。


 紙が、拒んだ。


「……っ」


 さっきと違う。

 文字が崩れるのではなく、そもそも“乗らない”。


 インクが弾かれるわけでも、にじむわけでもない。

 ただ、そこに書けない。


「……なるほど」


 ペンを離す。

 何も残っていない。


「どうなりました?」

「書けない」

「よかった……いや、よくないのか?」


 ミハイルが微妙な顔をする。


 俺は少し考えて、もう一度ペンを取った。

 今度は、名前ではなく、別のものを書く。


 所属。

 保管補助室書記生。


 すっと、文字が乗る。


「……え?」


 ミハイルが目を見開く。

「今、書きましたよね?」

「書いた」

「それ、見えてるんですけど」

「名前は?」

「え、名前は……」


 視線が空欄に落ちる。

 そして、困惑したように首を傾げる。


「……空いてる?」

「そうだな」


 つまり。


 名前は書けない。

 だが、それ以外は書ける。


「どういうことですか」

「たぶん」


 俺はペン先を見つめた。


「名前は“固定されてる”」

「固定?」

「簡単に言えば、そこは触れない場所だ」


 さっきの叙任記録もそうだった。

 “あってはいけない名前”は消えた。

 だが、正しい名前を“新しく書く”ことはできない。


 世界は、完全な嘘を許さない。

 ただ、曖昧な部分には手を入れられる。


「じゃあ……」

 ミハイルが恐る恐る言う。

「さっきのも、“正しい形に戻した”だけ?」

「たぶん」


 そのほうが納得がいく。


 俺はもう一度、空欄を見る。

 自分の名前が入るはずの場所。


 そこだけが、どうしても触れない。


「……自分のは?」

 ミハイルがぽつりと聞いた。

「書けない」

「一回も?」

「一回も」


 沈黙が落ちる。


 少しだけ、気まずい。


「……それ、きつくないですか」

「慣れた」

「慣れるものなんですか、それ」


 いい質問だ。

 だが、答えは単純だ。


「慣れるしかない」


 それだけだ。


 ミハイルは何か言いかけて、やめた。

 代わりに、視線を落とす。


「でも……さっきより、なんか違う気がします」

「何が」

「さっきはもっと、ぼやけてた」


 少しだけ、胸の奥がざわついた。


「今は?」

「ちゃんと……そこにいる感じがする」


 ほんの一瞬だけ、呼吸が止まる。


 それは、初めて聞く言葉だった。


 誰かに“そこにいる”と言われたことがない。


「……気のせいだ」

 俺は軽く言った。

「すぐ忘れる」

「そうかもしれませんけど」


 ミハイルは首を傾げたまま、こちらを見ている。

 その視線は、さっきより長く続いている。


 ほんの少しだけ、変わっている。


 俺は台帳を閉じた。


 未指定。

 その言葉が、頭の奥に残っている。


「次は、どこを直すんですか」

 ミハイルが聞いた。

「直すとは限らない」

「え?」

「場合によっては、残す」


 自分でも、少し驚く言い方だった。


 今までは、ただ処理するだけだった。

 正しいかどうかも関係ない。指示通りに、記録を整理する。


 だが今は、選べる。


 残すか、消すか。


 それを、俺が決められる。


「……それ、結構怖いですね」

「そうだな」


 怖い。

 だが、悪くないとも思う。


 そのとき、扉の向こうで足音がした。


 ゆっくりとした、迷いのない足取り。


 地下三階に降りてくる人間は少ない。

 その中でも、この足音は妙に“迷っていない”。


 扉が開く。


 黒い外套の男が立っていた。


「……ここか」


 視線が、まっすぐこちらに向く。


 そして。


「お前だな」


 はっきりと、俺を見た。


 ミハイルが息を呑む。

「え……見えてる?」


 男はゆっくりと近づいてくる。

 その目は、一度も逸れない。


「記録にない人間が、二件続けて改訂を行った」

 静かな声だった。

「そんな都合のいい偶然はない」


 俺は何も言わない。


 ただ、相手を見る。


「お前は、何者だ」


 その問いは、初めて“意味のある形”で投げられた。


 俺は少しだけ考えて、答えた。


「わからない」


 正直に。


 男は、わずかに眉を動かした。


「そうか」


 納得したような、していないような顔だった。


 そして、次の言葉。


「なら、確認する」


 空気が、変わる。


 何かが始まる。


 さっきまでとは違う種類の、“問題”が。


「――お前は、存在していいのか」


 その問いに、答えはない。

 ここまで読んでいただきありがとうございます。


 “できること”と“できないこと”が少しだけ見えてきました。

 そして、見えてはいけないはずのものに、とうとう誰かが気づき始めます。


 次は、初めての「対抗」です。

 静かだった地下が、少しだけ騒がしくなります。

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