第2話 記録は嘘をつかない
さっきまで「何もなかった」はずの場所で、誰かが慌てている。
それだけで、この役所では十分に異常事態だ。
「地下三階! 応答しろ!」
「してますよ」
上から響いてくる声に、俺は軽く手を上げた。見えていない相手に対してやる仕草ではないが、癖みたいなものだ。
書記生はその横で、いまだに顔色が悪い。
「本当に、今の……あなたが?」
「たぶん」
「たぶんって」
「俺にも仕組みがわかっていないので」
さっきの“改訂”は、偶然にしては都合がよすぎる。
だが、再現できる保証はどこにもない。
足音が階段を駆け下りてくる。
数秒後、汗をかいた職員が扉を押し開けた。
「ここか! 叙任記録の控えが――」
俺と目が合う。
いや、合っているはずなのに、合っていない顔をする。
「……誰だ?」
「保管補助です」
「いや、今はそれはいい! 控えだ、叙任記録の控えが一冊消えて――いや、違う、あったはずのものに“知らない名前”が増えている!」
「増えている?」
書記生が反応した。
「さっきは“存在しないはずの名前”って」
「そうだ! 古い叙任記録に、登録されていないはずの人物が載っている! しかも、そこだけ妙に新しい筆跡で……」
俺は、さっき閉じた黒い台帳を見た。
あの一文。
軽微な改訂権限。
喉の奥で何かがひっかかる。
「場所は?」
「第二保管庫だ。だが――」
職員は言い淀む。
見えていない相手に説明することの違和感か、それとも単純に混乱しているのか。
「だが?」
「……誰に頼めばいいかわからない」
「俺が行きます」
「誰が!?」
「俺です」
「だから誰だ!」
このやりとり、そろそろ省略したい。
「いいから、行きましょう」
書記生が半ば強引に言った。
「……わかった、ついて来い。誰だか知らないが」
知らないままで結構だ。
俺は黒い台帳を机の引き出しに押し込み、立ち上がった。
足元が、ほんの少し軽い気がした。
――さっき、何かが変わった。
気のせいかもしれない。
だが、こういう“気のせい”は無視しないほうがいい。
階段を上る途中、書記生が小声で聞いてきた。
「さっきの、もう一回できますか」
「できる保証はない」
「でも、やるんですよね」
「たぶん」
自分でも驚くほど、迷いはなかった。
空欄を見た時の苛立ちが、まだどこかに残っている。
第二保管庫は、一階の奥にある。
地下よりは人の気配があるが、それでも静かだ。ここでは誰もが、音を立てることを無意識に避けている。記録は静かな場所で扱うべきものだと、全員が思い込んでいる。
「これだ」
案内してきた職員が、一冊の帳面を指した。
分厚い叙任記録。革の背に金の箔押し。重さで言えば人の頭くらいはありそうだ。
机の上に開かれている。
問題の箇所はすぐにわかった。
「……なるほど」
名前の列に、一つだけ“浮いている”文字がある。
周囲と馴染まない線。
紙の上で、居心地が悪そうにしている名前。
さっきと同じ感覚だ。
「これ、見えます?」
書記生が聞く。
「見える」
「俺には普通に見えるんですけど……」
「普通に見えるなら、それでいい」
問題は、見え方じゃない。
俺はページに手を置いた。
紙の冷たさが、指先からじわりと伝わる。
――これも、直るのか?
直す、という表現が正しいのかはわからない。
さっきやったのは“修正”だったのか、それとも“上書き”だったのか。
どちらにせよ。
「やってみます」
誰に言ったわけでもない言葉を、口に出す。
ペン先を、浮いた名前の一画に触れた。
瞬間。
視界が、ほんの一瞬だけ白くなる。
「っ」
体がぐらりと揺れた。
足元が消えたような感覚。
「おい、大丈夫か!?」
書記生の声が遠い。
紙の上の文字が、ほどける。
インクではない。
“意味”が崩れる。
そして――
元からそこになかったように、消えた。
同時に、背後で誰かが息を呑む。
「……消えた?」
職員が呟いた。
「今の、消えたのか?」
書記生が震えた声で言う。
「さっきまであった名前が……」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「これでいいんですよね」
「……いい、のか?」
「元々なかったなら」
自分で言っていて、少しだけ怖くなる。
“なかったことにする”のは、思っているより簡単らしい。
部屋の空気が変わる。
さっきまでの混乱が、静かに収束していく。
「……助かった」
職員がぽつりと呟いた。
「誰だか知らんが」
「どういたしまして」
たぶん、またすぐ忘れる。
それでもいい。
今はそれでいい。
俺は帳面から手を離した。
その瞬間、違和感が走る。
「……あれ」
書記生が、俺のほうを見ている。
正確には、“見ようとしている”。
「さっきより……見える、気がする」
「気のせいじゃないですか」
「いや、でも……」
書記生の視線が、ほんのわずかだが、外れていない。
今までは数秒でずれていたのに。
「名前、なんでしたっけ」
「覚えてないですよね」
「……いや、えっと……」
口を開きかけて、止まる。
結局、言葉は出てこない。
「やっぱり無理か」
「何がです?」
「いえ、こっちの話です」
ほんの少しだけ、何かが変わった。
それは確かだ。
だが、決定的ではない。
俺は無意識に、地下の机を思い出していた。
黒い台帳。
空欄の行。
あそこに、何が書かれるのか。
「……戻ります」
俺は言った。
「もう?」
「確認したいことがある」
書記生は少し迷ってから、頷いた。
「俺も行きます」
「どうして」
「なんか……見逃すと後悔しそうで」
いい勘をしている。
地下へ戻る階段は、行きよりも少しだけ長く感じた。
足音がやけに響く。
扉を開ける。
変わらないはずの部屋が、ほんの少しだけ違って見えた。
机の上に置いたままの帳面。
その引き出しが、わずかに開いている。
「……触りました?」
「触ってません」
書記生が首を振る。
俺はゆっくりと近づいた。
引き出しに手をかける。
中の黒い台帳が、静かにそこにある。
開く。
さっきのページ。
空欄だった行。
そこに――
さっきはなかった文字が、増えていた。
名前の欄は、まだ空白のまま。
だが、その下に一行。
軽微な改訂権限 行使確認。
対象:叙任記録 一件。
そして、そのさらに下に。
――次の改訂対象、未指定。
俺はしばらく、その文字を見つめていた。
未指定。
つまり、選べるということだ。
「……これ、見えます?」
「いや、何も」
書記生は何も見えていない顔をしている。
そうか。
なら、これは俺だけの記録だ。
俺だけが触れることができて、俺だけが読むことができる。
俺だけの――
「仕事、増えましたね」
俺は言った。
「は?」
「どうやら、そういうことらしい」
誰にも覚えられない男に、
誰にも知られない仕事が増えた。
悪くない。
たぶん、これが始まりだ。
読んでいただきありがとうございます。
小さな改訂が一つ。
それだけなのに、何かが確実に動き始めました。
まだ名前のない主人公に、「できること」が増えています。
次では、その“できること”が少しだけ危険な形で広がります。




