第12話 触れてはいけない記録
「それ、触らない方がいいよ」
背後からの声は、妙に落ち着いていた。
振り返る。
白衣の男が、壁にもたれてこちらを見ている。
年齢は三十前後か。医者らしい格好だが、目の焦点が普通じゃない。
「……見えてるのか」
俺は聞いた。
「一応ね」
男は軽く笑う。
軽いが、誤魔化しではない。
「全員じゃないけど」
男は続ける。
「“そういう状態”の人間は、だいたい見える」
「そういう状態?」
リゼが一歩前に出る。
男は彼女を見る。
一瞬だけ、興味を示した顔をした。
「君も見える側か」
「まあね」
「珍しいな」
そう言いながらも、驚きはない。
つまり。
こいつは慣れている。
「……医者か」
俺が聞く。
「一応」
男は肩をすくめた。
「でも、普通の患者じゃない」
視線が、ベッドに向く。
対象。
台帳に書かれていた人物。
「この人、さっきから“ズレてる”」
男の言葉は、俺たちの認識と一致する。
「……どういう状態だ」
俺は聞く。
男は少し考えてから言った。
「簡単に言えば、存在が不安定」
そのままだ。
「生きてるけど、完全じゃない」
「原因は」
「わからない」
即答だった。
「でも、これ」
男は俺を見る。
「君たちが関係してるでしょ」
ミハイルがびくりとする。
俺は何も言わない。
「否定しないってことは、そうなんだろうね」
男はあっさり言った。
追及する様子はない。
ただ、確認している。
「……どうするつもり」
男が聞く。
「直す」
俺は答える。
「直るのか?」
「やってみる」
男は少しだけ考えて、頷いた。
「なら、止めない」
その判断は早かった。
「ただし」
男は続ける。
「下手に触ると、崩れるよ」
「崩れる?」
「完全に」
つまり。
死亡。
「……ありがたい情報だ」
「どういたしまして」
軽い口調だが、内容は重い。
俺はベッドに近づく。
対象を見る。
呼吸はある。
だが、浅い。
存在が、薄い。
「……さっきより不安定だな」
リゼが言う。
「進行してる」
「放置の影響か」
「たぶんね」
時間経過で悪化する。
つまり。
猶予はない。
「……やるぞ」
ペンを取る。
ミハイルが一歩近づく。
「今回は……どうするんですか」
「完全に戻す」
曖昧ではなく。
確定させる。
「いけるんですか」
「やるしかない」
他に選択肢がない。
台帳を開く。
対象の情報。
少ない。
だが、足りる。
「……位置を合わせる」
小さく呟く。
存在のズレ。
それを。
元の位置へ。
ペンを動かす。
触れる。
その瞬間。
「――っ」
負荷が来る。
今までで一番、重い。
頭がきしむ。
視界が歪む。
「おい、大丈夫か」
男の声が聞こえる。
「……黙ってろ」
ペンを押し込む。
対象の“状態”。
それを引き戻す。
曖昧から、確定へ。
だが。
抵抗が強い。
「……重いな」
さっきの比じゃない。
外の対象。
範囲が広がった影響か。
「アーカス!」
ミハイルの声。
リゼの視線。
すべてが遠い。
集中する。
ペン。
意味。
位置。
それだけ。
「……戻れ」
押し込む。
さらに。
強く。
その瞬間。
何かが“噛み合った”。
「……っ!」
負荷が、抜ける。
急に軽くなる。
ペンを離す。
静寂。
そして。
「……あ」
ミハイルが声を上げる。
ベッドの上。
対象の呼吸が、深くなる。
顔色が戻る。
瞼が、ゆっくりと動く。
「……戻った」
リゼが言う。
医者の男も、目を細める。
「……本当にやったか」
俺はゆっくりと息を吐いた。
「……たぶんな」
成功。
今回は、完全に。
曖昧ではなく。
確定させた。
「……すごいな」
男が言う。
「普通じゃない」
「知ってる」
俺は短く答える。
そのとき。
頭の奥で、鈍い音がした。
「……っ」
軽くよろける。
「大丈夫か!」
ミハイルが支える。
「……問題ない」
だが。
さっきとは違う。
これは。
「……削られたな」
小さく呟く。
「何が」
リゼが聞く。
「……わからない」
だが、確実に。
何かが減っている。
台帳を開く。
文字が増えている。
――対象改訂:完全成功。
その下。
――代償:不明(観測不能領域)。
「……は?」
観測不能?
「どういうことですか」
ミハイルが聞く。
「……見えない」
何を失ったのか。
それすら、わからない。
「……最悪だな」
自覚できない代償。
それが一番厄介だ。
そのとき。
医者の男が言った。
「一つ、いいか」
「何だ」
俺が見る。
「君」
男は少しだけ目を細めた。
「さっきより、“薄くなってる”」
心臓が、一拍止まる。
「……何が」
「存在」
短い答えだった。
「さっきより、少しだけ」
リゼも、静かに頷く。
「……確かに」
ミハイルは、少し遅れて言う。
「……なんか、ぼやけてます」
それは。
逆だ。
普通は、固定されていくはずなのに。
俺は。
削れている。
「……なるほど」
台帳を見る。
観測不能領域。
つまり。
見えない部分が増えている。
「……バランス、か」
得た分、失う。
単純な話だ。
だが。
その“失う”が何かは、わからない。
「……次だな」
台帳の文字が、また変わる。
――残対象:二件。
そして。
――警告:連続改訂による崩壊リスク増大。
「……おい」
思わず声が出る。
「どうしました」
ミハイルが聞く。
「……やりすぎると、壊れるらしい」
自分が。
「……誰が」
「俺が」
静寂が落ちる。
リゼが小さく言う。
「だから言ったでしょ」
止めたい理由。
それが、ここで出てきた。
「……でも」
俺は台帳を見る。
残り、二件。
放置すれば、進む。
「……止まれないな」
小さく呟く。
その言葉は。
確定していた。
読んでいただきありがとうございます。
ついに“完全な改訂”が成功しましたが、その代償は見えない形で進行しています。
そして、止まれない状況へ。
ここからさらに緊張感が上がっていきます。
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