第11話 外へ出る理由
範囲が広がった。
その事実だけで、空気が変わる。
「……外、ですか」
ミハイルが言う。
「そうだな」
俺は短く答える。
黒い台帳の文字は、はっきりしている。
場所が、この建物ではない。
つまり。
「ここにいれば安全、じゃなくなった」
リゼが言った。
「最初から安全じゃない」
俺は言う。
「まあね」
リゼは肩をすくめる。
だが、ニュアンスは違う。
今までは“ここで完結していた”。
これからは違う。
「……行くしかないのか」
ミハイルが小さく呟く。
「選択肢はないな」
放置すれば進む。
それはもう確認済みだ。
「でも」
ミハイルが言う。
「外って……普通に外ですよね?」
「たぶんな」
俺も外の仕組みまでは知らない。
ここは役所だ。
外のことは、あまり関係ない。
関係なかった。
「……面倒だな」
思わず漏れる。
「今さら?」
リゼが笑う。
「ここまでは楽だった方だよ」
それは否定できない。
閉じた場所。
管理された空間。
記録が集まる場所。
だからやりやすかった。
「外は、もっと散らかってる」
リゼの言葉は、妙に現実味があった。
「……知ってるのか」
「ちょっとだけ」
曖昧だ。
だが、嘘ではない。
「とりあえず」
俺は言う。
「行くしかない」
「今から?」
ミハイルが驚く。
「今だ」
「いや、準備とか」
「準備しても変わらない」
台帳は待ってくれない。
むしろ。
時間をかけるほど、悪化する可能性がある。
「……そういうもんですか」
「そういうもんだ」
ミハイルは少しだけ考えてから、息を吐いた。
「……わかりました」
覚悟を決めた顔だった。
さっきよりも、明らかに。
関係性が変わっている。
ただの巻き込まれではない。
自分で選んでいる。
「いいのか」
俺は一応聞く。
「もう引けないですから」
ミハイルは苦笑する。
「名前、覚えちゃいましたし」
その一言で、少しだけ空気が軽くなる。
「……そうだな」
俺も小さく頷いた。
「じゃあ、行こうか」
リゼが先に動く。
迷いがない。
最初から決まっていたように。
「……道は」
俺が聞く。
「知ってる」
即答だった。
「この建物、出たことあるから」
意外だった。
「外に?」
「うん」
リゼは振り返らずに言う。
「あなたはないでしょ」
否定できない。
俺はここにいる。
ずっと。
外に出る理由がなかった。
出る必要も。
……今までは。
階段を上る。
地下から一階へ。
さっき通ったばかりの道だ。
だが、感覚が違う。
戻るのではなく、出る。
それだけで。
少しだけ、重い。
「……外って、どんな感じなんですか」
ミハイルが聞く。
「普通」
リゼが言う。
「普通に人がいて、普通に生活してる」
「それが一番怖いな」
俺は言った。
「ここは“異常”が前提だ」
外は違う。
普通の中で、異常が起きる。
その方が厄介だ。
「まあ、すぐ慣れるよ」
リゼは軽く言う。
「慣れたくないな」
正直な感想だ。
だが、たぶん慣れる。
人間はそういうものだ。
一階を抜ける。
出口が見える。
扉の向こうに、光がある。
……眩しい。
「……久しぶりだな」
思わず呟く。
「初めてでしょ」
リゼが突っ込む。
「そうかもしれない」
どちらでもいい。
扉を開ける。
外に出る。
光が差し込む。
空気が違う。
広い。
「……」
少しだけ、立ち止まる。
足が止まる。
「どうしました」
ミハイルが聞く。
「いや」
言葉を探す。
「……情報が多い」
それが一番近い。
人。
音。
動き。
すべてが、ばらばらに存在している。
整理されていない。
「だから言ったでしょ」
リゼが言う。
「外は散らかってる」
「……確かに」
だが。
それでも。
ここに来た理由は一つだ。
「対象は」
俺は言う。
台帳を開く。
場所を確認する。
通りの名前。
建物。
「……近いな」
徒歩で行ける距離だ。
「じゃあ行こ」
リゼが言う。
軽い。
だが、動きは速い。
俺とミハイルもついていく。
人混みの中を進む。
違和感がある。
視線が、少しだけ残る。
「……見られてるな」
俺が言う。
「そりゃそうでしょ」
リゼが答える。
「もう“いる”んだから」
固定された影響だ。
完全ではないが。
無視される存在ではなくなっている。
「……やりにくいな」
「今さら」
その通りだ。
少し歩く。
すぐに目的の建物が見えた。
小さな診療所。
古びているが、ちゃんと機能している。
「……ここか」
台帳の情報と一致する。
「対象は?」
ミハイルが聞く。
ページを確認する。
名前。
症状。
「……不安定」
その一言だけ書かれている。
「それだけ?」
「それだけだ」
情報が少ない。
だが。
それはつまり。
「行って確認するしかない」
リゼが先に扉を開ける。
中に入る。
消毒の匂い。
静かな空間。
役所とは違う種類の静けさ。
「……いらっしゃい」
受付の声。
普通だ。
何もおかしくない。
だが。
奥の方。
一つだけ。
違和感がある。
「……あそこだな」
ベッドの一つ。
人が横たわっている。
だが。
周囲と“ズレている”。
「……これ」
ミハイルが小さく言う。
「さっきと同じ感じです」
俺も頷く。
曖昧な状態。
存在が、少しだけ浮いている。
「……対象確認」
小さく呟く。
そして。
ペンを取る。
だが。
その瞬間。
背後から声がした。
「それ、触らない方がいいよ」
振り返る。
医者らしき男が立っている。
だが。
視線が、まっすぐ俺に向いている。
「……見えてるのか」
俺が聞く。
男は少しだけ笑った。
「一応ね」
その一言で。
空気が、また変わった。
これは。
一人じゃない。
“見える側”が。
増えている。
読んでいただきありがとうございます。
ついに外の世界へ出て、対象も変わりました。
そして“見える存在”が、少しずつ増えてきています。
ここからさらに状況は複雑になります。
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