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名前も存在もない俺だけが、世界を書き換えられる件 ―観測されない男は、すべての記録を上書きする  作者: 空城ライド


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第1話 誰にも覚えられない男

最初は「地味な能力系」に見えますが、徐々にスケールが上がっていきます。

戦闘・頭脳戦が好きな方におすすめです。

 俺がこの役所で働き始めて三年になるが、いまだに名前を呼ばれたことがない。

 正確には、呼ばれていても俺に向けられたものではなかった。

 そして今日もまた、俺の机だけが「そこにないもの」として扱われている。


「おい、記録簿の第三束はどこだ!」

「棚の右端です」

「誰だ今の」

「知りません」

「気味悪……」


 ひどい話だと思う。

 助けた側が気味悪がられるのは、さすがに職場の空気としてどうかしている。もっとも、この役所の空気に品位を期待したことはない。埃っぽくて、乾いていて、誰もが紙と判子の匂いを肺に溜め込んで生きている。人より先に書類が出世するような場所だ。


 中央記録局の地下三階、保管補助室。

 日当たりゼロ、将来性ゼロ、会話の温度もゼロ。

 俺の職場を三行で説明するとこうなる。


 朝から騒いでいるのは、新任の監督官補佐らしい。革靴だけは上等で、顔には「自分はもっと上へ行ける」と書いてある。実際、こういう顔の人間はだいたい上へ行く。能力や人格はあまり関係ない。自分が上へ行く物語を疑っていない人間は強い。


「おい、君」

 補佐官が通りがかりの書記生をつかまえた。

「はい!」

「保管補助室の担当を呼べ。帳簿番号七八四二の原本が見つからん」

「ええと……担当、ですか」

「そうだ。責任者でも雑用でも何でもいい、そこにいる人間を呼べと言っている」

「そこにいる人間……」


 書記生の視線が、俺の体を素通りして背後の棚に刺さる。

 ああ、そうなるよな。知ってる。


「誰も、いませんが」

「は?」


 補佐官が眉をひそめた。

 そして、俺の机の前まで来る。正確には、来て、俺を見ずに机を見る。机の上には山のような帳面、黒インク、乾いたペン先、昨夜まとめた索引札。十分に「誰かが使っている」痕跡があるはずなのに、彼らの認識はそこだけ器用に曇る。


「……奇妙だな。机だけある」

「片付けると怒られるので、置いてあります」

 俺はそう言った。

 補佐官は肩を震わせ、勢いよく振り返る。

「だから誰だ!」

「ですから、保管補助室の担当です」

「どこにいる!」

「目の前です」

「ふざけるな!」


 怒鳴られた。

 言っていることは事実だけなんだが、事実は人の機嫌を悪くすることがある。


 書記生は青ざめて一歩下がり、補佐官は本気で気味悪がっていた。演技ではない。本当に見えていない人間の反応だ。

 視線は合う。耳にも届く。なのに、数秒後には俺の輪郭だけが頭から抜け落ちる。

 最初は便利だと思った。

 次に、不便だと思った。

 今は、面倒だと思っている。


「……帳簿番号七八四二なら、北壁の死蔵棚です」

「また声が」

「三段目の左から二番目。綴じ糸が青い」

「誰か確かめろ!」


 命じられた書記生が半泣きで棚へ向かい、数十秒後、本当に原本を抱えて戻ってきた。

 補佐官の顔が引きつる。


「ありました……」

「ばかな」

「青い綴じ糸です」

「……本当に?」


 おかしいのはお前らの認識のほうだ、と言いたかったがやめた。

 この手のやりとりは何度もしている。勝ったところで意味がない。相手は次の瞬間には俺のことを忘れる。


 案の定、補佐官は書類をひったくると、怪訝な顔のまま去っていった。書記生もぺこりと空気に向かって会釈して、それから首を傾げ、何に礼をしたのかわからなくなったような顔で去る。


 あとには俺と、積み上がった紙だけが残る。


「平和だな」

 誰もいない部屋で呟くと、声だけが少し浮いた。


 平和、という言い方は違うかもしれない。

 正しくは、静かだ。

 俺が何をしても大抵の人間は覚えない。褒められもしないし、責任も押しつけられない。その代わり、誰かの記憶に席を持てない。

 昼休みに一緒に飯を食う相手はいないし、昨日の会話の続きも存在しない。挨拶は毎回初対面から始まる。


 人間は慣れる生き物だ。

 だから俺も、慣れた。


 ――慣れた、つもりだった。


 昼過ぎ、上の階から回ってきた廃棄候補の束を仕分けていると、その中に一冊だけ奇妙な台帳が混ざっていた。

 革表紙の黒帳面。背には題字がない。封蝋は割れていて、管理印も押されていない。

 こんな無所属の帳面が中央記録局にあること自体、珍しい。


「誰のだ、これ」


 開いた瞬間、嫌な感じがした。

 紙の古さではない。文字だ。


 中身は一覧式の索引だった。名前、所属、出生、異動、死亡。人一人の生涯を一行で縫いとめる、記録局らしい冷たさの帳面。

 だが、ところどころの文字がひどく歪んでいる。消された跡に上書きしたとか、インクが滲んだとか、そういう傷みではない。もっと、何と言うか――文字そのものが、落ち着くべき場所から半歩ずれている。


 俺は文字の乱れに妙に敏感だ。

 誤字脱字を見つけるのが得意、と言えば可愛げがあるが、実際はそんな生易しいものじゃない。紙の上の違和感が、時々、喉に骨のように引っかかる。


 ぱらりとページをめくる。

 知らない名前。知らない名前。知らない名前。

 その途中で、指が止まった。


 空欄だ。


 一行だけ、名前の欄がまるごと空いている。

 所属も、出生も、異動も、死亡も、すべて空白。

 なのに、その上下にはびっしりと人名が並んでいて、そこだけ不自然に「抜けて」いた。


「……なんだこれ」


 帳面の余白に、薄く走り書きがあった。


 ――保管補助室 地下三階 机列四


 喉が、少しだけ詰まった。

 机列四。俺の机だ。


 冗談にしては趣味が悪い。

 俺は台帳を持って、自分の机へ戻った。椅子に腰かけてからもう一度見直す。何度見ても、空欄の横にある住所指定はここを指していた。


 保管補助室、地下三階、机列四。


 それは、俺のいる場所だ。

 俺しかいない場所だ。


「俺の、記録……?」


 口にしてみたが、妙に現実味がなかった。

 自分の名前を書類で見た記憶が、ない。

 いや、戸籍だとか雇用簿だとか、そういうものはたぶんどこかにあるのだろう。なければ役所で働けるはずがない。だが、俺はそれを見つけたことがないし、誰かがそれを読み上げたところも聞いたことがない。


 自分の足場が紙の上にない。

 それは今さらな話のはずだった。


 なのに、その空欄を見た瞬間、妙に腹が立った。


 誰でもいい。

 一行くらい、残せよ。


 自分でも驚くほど子供じみた怒りだった。

 普段なら受け流す。どうせ記録されたところで、誰かの記憶に残る保証はない。そう割り切ってきた。割り切っていたはずなのに。


 指先が勝手にインク壺へ伸びる。

 羽ペンを取ったところで、扉が開いた。


「やば、やばい、やばい……っ」

 飛び込んできたのは、さっきの書記生だった。顔色が悪い。息も上がっている。

「どうしました」

「ど、どこから声が」

「ここです」

「うわっ、いた! いや、いたのか!?」


 見えてないのか見えてるのか、そろそろ統一してほしい。


 書記生は棚に手をつき、必死に呼吸を整えた。

「監督官補佐が怒ってて……帳簿番号七八四二、記載と原本が合わないって」

「合わない?」

「死亡年が、一年ずれてるんです。原本は帝国暦四八七年、索引簿は四八八年。どっちかが改竄だって」

「改竄、ね」

「笑いごとじゃないです! 上で責任の押しつけ合いが始まってて……このままだと自分がやらかしたことにされる……」


 それは災難だ。

 この役所では、記録の誤りは人格の誤りより重い。誰か一人の昇進が消える程度なら笑って済ませる連中も、台帳の数字が狂うと顔色を変える。紙が人間より偉い場所だからだ。


「原本を持ってきてください」

「え?」

「見ます。たぶん原因は別です」

「い、いやでも、あなた誰でしたっけ」

「今はそれどうでもいいでしょう」

「確かに!」


 判断が早くて助かる。


 書記生が駆け戻っていく。俺は黒い台帳を閉じ、脇へ避けた。

 数分後、彼は例の原本と索引簿を抱えて戻ってきた。机に並べると、確かに死亡年だけが一つずれている。他の筆跡は同じだ。単純な書き間違いではない。


 俺は索引簿の「八」の字を見た。

 また、喉に骨が刺さるような感覚がした。


「……これ、八じゃないな」

「え?」

「もともと七だったものを、八に寄せてる」


 説明はできない。ただわかる。

 文字が嫌がっている。そこだけ紙の上で座りが悪い。


 書記生は半信半疑の顔をした。

「直せるんですか?」

「たぶん」


 俺は言ってしまってから、何を言っているんだと思った。

 直せる?

 書類を?

 勝手に?

 それはただの不正だ。


 まともな判断なら、ここで手を引く。

 補佐官の怒りも、書記生の涙目も、俺には関係ない。誰も俺を覚えないなら、誰のために手を汚す必要もない。

 そのはずだった。


 なのに俺は、さっきの空欄を思い出していた。


 一行くらい、残せよ。


「責任は?」

と書記生が聞いた。

「取れません」

「ですよね!」

「でも、結果だけなら残せるかもしれない」

「それ、すごく不安になる言い方ですね!?」


 俺は索引簿の頁を押さえ、羽ペンの先で「八」のはらいに触れた。

 その瞬間、紙の冷たさが指から腕へ流れ込む。

 視界が、かすかに揺れた。


 気のせいだと思いたかったが、違う。

 文字のほうが、こちらを見返してくる。


「……おい」

 思わず低く呟いた。


 紙の上の「八」が、崩れる。

 正確には、崩れたように見えた。黒い線がほどけ、もとの「七」に戻っていく。インクが滲んだのではない。紙の上の事実そのものが、静かに座り直した。


 次の瞬間、上の階で大きな物音がした。

 誰かの怒鳴り声。続いて、別の声。


「補佐官! 見つかりました、古い控えです! 原本も索引も帝国暦四八七年で一致しています!」

「は?」

「さっき見た時は違ったはずじゃ――」

「あなたの見間違いでは?」


 書記生が口を開けたまま固まる。

 俺も、たぶん似た顔をしていたと思う。


「……今、何をしました」

「俺にもわかりません」

「わからないのにやったんですか!?」

「やってから考えるのは、役所では非推奨なんですが」

「今さら常識人みたいな顔しないでください!」


 もっともだ。


 上の階の騒ぎは、みるみる収まっていく。まるで最初から問題などなかったかのように。

 書記生は青い顔のまま俺と書類を交互に見た。


「もしかして……あなた、すごい人なんですか」

「そう見えます?」

「いえ、まったく」

「正直で助かる」


 だが、笑っている場合ではない。

 俺は自分の手元を見る。さっき閉じたはずの黒い台帳が、いつの間にか少しだけ開いていた。風でもないのに、頁が一枚だけめくれている。


 そこには、先ほどまで空欄だった行があり――


 名前の欄は、まだ空白のままだった。

 けれど所属の欄に、細い字で一文だけ増えている。


 保管補助室記録補助官。

 軽微な改訂権限を確認。


「……は?」


 書記生が覗き込もうとして、首を傾げた。

「何かあります?」

「見えないんですか」

「黒い帳面しか」

「そうですか」


 心臓が、一拍遅れて鳴った。

 始まり方としては最悪だ。自分のことが知りたいだけだったのに、知らなくていい扉が少し開いてしまった感じがする。


 それでも、視線はその一文から剥がれなかった。


 軽微な改訂権限。

 そんなものがあるなら、軽微ではないものもあるのだろうか。


 俺の空欄は、何で埋まる。

 あるいは、何を書けば埋まる。


 上の階からまた誰かの声がした。今度は怒鳴り声ではない。焦った呼び声だ。


「地下三階! 誰か、地下三階にいるか!」

「いますよ」

 と俺は反射で返したが、たぶんその返事は半分くらい壁に吸われただろう。


 書記生がごくりと唾を飲む。

「……また問題です」

「役所ですからね」

「さっきより大きいです」

「役所ですね」

「笑ってる場合ですか! 今度は古い叙任記録です、存在しないはずの名前が載ってるって!」


 俺は黒い台帳を閉じた。


 存在しないはずの名前。

 妙に耳に残る言い方だった。


 少なくとも、退屈な午後ではなくなったらしい。

 ここまで読んでくださってありがとうございます。


 誰にも覚えられない男が、ようやく「何かを変えてしまった」第1話でした。

 役所の地下で始まった違和感が、次では少しだけ大きな形になります。


 まだ名前のないものが、どこまで記録に触れられるのか。

 次話も、静かにおかしな方向へ進んでいきます。

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