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天明七(1787)年 正月

 与介が村を去ってから、三年とすこしが経った。太陰太陽暦の十一月は、寒さがもっとも厳しくなる季節にあたる。比較的あたたかい平野部にあるこの村でも、今年は雪が分厚く積もっていた。


 三年前の凶作は、村人が力を合わせてどうにか乗り切ることができた。牛馬が何頭も死んだ、厳しい年であったことは確かだが。


 それから二年間は、平年並みの取れ高があった。二年前、次なる飢饉のため、村でも倉を設けて米を蓄えることが決まった。五年かけて村人が一年間食べていけるだけの糧食を蓄える計画だ。もっとも、村民の足並みが揃わずに、倉は予定されていた半分も埋まらなかったが。


 長助も江戸へ、飢饉があってもよく穫れるという甘藷の種芋を買いに行った。道中で与介の行方を尋ねることもあったが、色よい返事は得られなかった。


 しかし、次なる飢饉への対策は間に合わなかった。今年の夏、大雨と大洪水によって、村の田圃はほとんどが押し流されてしまった。あとに残ったのは、高台の倉と一部の家、それと山に植えた甘藷だけだった。嘆きつつ、どうにか無事だったなけなしの田を手塩にかけて耕し、区画整理をする。復旧作業を進めつつ、天を恨むことしか、百姓のできることはない。


 代官の吉田を経由しての請願があまり功を成さなかったため、傳三が中心となって一揆が起こされた。そのおかげで年貢は減免されたが、傳三は城下で磔刑に処された。彼も村人も、抜本的な解決を出来ずにいる長助を責めようとはしなくて、それが長助にとっては苦しいものでもあった。


 どんな方策をもってしても、やはり食料が足りないのが現実だった。町で米を買おうにも、商人の買い占めがひどく、米価があまりにも吊り上がっていて現実的ではなかった。


 ただでさえ飢えによって悪い方向へ進んでいた村の空気は、雪と寒さによってますます険悪になっていった。洪水からの土地の再分配を巡った喧嘩で死人が出かけたり、村の倉に収められた米の分配を巡った紛争で村民がふたつに割れてしまったり。公儀に調停を頼み出ようにも、どの村も似たような状況で代官の手が回らない。


 そんな冬の日のこと。


 夜遅く。長助は、戸外から物音を聞いた。夜盗かもしれない。刀を構えて、慎重に扉を開く。名主の屋敷は、ふつうの百姓家と違って扉もあれば、門柱もある。


 そこには、骨と皮ばかりに瘦せ細った男がうつぶせに倒れていた。


「おい、大丈夫か」


 男はぐったりとして、返事もしない。とにかく家へ運ぼうと、長助は彼を抱え起こした。


「もしかして、与介か……?」



 翌朝。一晩寝て、芋と麦の粥を口にした与介は、すっかり元気を取り戻していた。


「まったく、情けないったらありゃしねぇな。勇み立って江戸に出ても、食いっぱぐれてのこのこと故郷に帰ってきちまうなんて」


「いやいや、与介が無事でいてくれてよかった。いままで、どこにいたんだ」


「江戸の外れで、日雇い人足をしていたんだがな。この不況で食うに困ったあげく、賭け事に手を出しちまって。もちろん勝てるはずもなく、金から家から全部が取り上げられちまったんだ。ほうほうの程で彷徨っているうちに、気が付けば足がこっちにむかっていたというわけだ」


 そこまで言って、与介は煙管から煙の輪を吐き出した。座敷の天井にぶつかった煙は、形を崩してから外へと出ていく。


「この村も、洪水にやられてさ。皆がぶじに生き延びられるかも、分からない状況なんだ。そのうえで……沈みかかった泥船に、乗ってくれるか」


「どうせ日の本全部が沈みかかっているんだ。名誉挽回といこうじゃないか」


 与介は、村じゅうのだれよりもよく働いた。いちど村を出ておきながら舞い戻った、その恥を取り戻すために。

 


 いまだ厳しい寒さの続く、太陰太陽暦十二月の夜。長助と与介は、手仕事に縄を結いながら話していた。与介の家は洪水で流されてしまっていたから、名主の屋敷に居候している。


「そう、明日の庚申待、与介は来るのか」


「コウシンマチ? なんだ、それ」


「知らないのか」


 あまりの驚きに、長助はあと少しで結い終わるところの縄を落としてしまった。一からやり直しだ。


「庚申、いやかのえさるの日に、徹夜をするあれ。といえば伝わるか」


「ああ、親父がたまに出かけていたのはそれだったのか。六十日に一回、何しに行くんだろうと思っていたよ」


 与介が、納得の表情でうなずく。


「両親は、俺になにもしてくれなかったからな。食い物は仲間から掠めていたし、寺子屋の謝礼は境内の掃除でチャラにしてもらっていたし。もちろん、庚申講なんてもの教えてくれるはずがない」


 うすうす察してはいたが、はじめて実態を聞いて顔をひきつらせた長助を、与介は笑った。


「いいんだ、クソみたいな少年時代っていうのも楽しいものさ」


 そう、無理に言っているような感じもしたが、長助は何も言わなかった。


「そっか。そう、庚申待の話だね。ひとの身体のなかには、三尸という虫が棲んでいて、庚申の晩には天に昇って、神さまに俺たちの悪事を報告するんだ。そうすると、神さまは人間の寿命を縮めてしまう。三尸の虫が身体から出ていかないよう、徹夜するっていうのが庚申待だ。庚申待をする仲間が庚申講、記念に建てるのが庚申塔」


「なるほど、十年前の謎がようやく解けたぜ」


 与介が、手をぽんと打った。


「あのとき俺たちが壊したのは庚申塔で、お詫びに回らされたのは庚申講の面々、ってわけか」


「そういうことだ。それで、明日は来るか」


「ああ、ためしに一度だけ行ってみるよ。ここしばらくは働きづめで疲れているし」


「与介、村の休日にも働いていたからな。ただ、残念なことに明日は、七色菓子もなければ精進料理もない簡易版だ。なにせ、このご時勢では倹約もやむを得ない」


「まあ、そうだよな」


「けれども、俺からひとつ提案を用意してあるんだ。それには、江戸で顔の利く人間が必要なんだ、協力してくれるか」


「もちろん、この村でいちばん江戸に詳しいのは、俺に決まってる」


「それじゃあ、計画は……」


 長助の話を聞いて思わず、与介は煙草を思いっきり吸い込んだ。出かかった咳を慌てて抑えて、返事をする。


「はあ、お前面白れぇこと考えんな。いいぜ、ひとり詳しそうな知り合いがいる」


「それじゃあ、頼むよ。縄も結えたし、おやすみ」


 長助は、一年半前に結納を挙げた千代と過ごすため、襖の向こうに行ってしまった。与介は、行燈の火を吹き消すと布団に潜り込んだ。二十日の月が、山際から顔を出す時間。


「まったく、面白れぇな。よっしゃ、俺も働くとするか」



 最初の勤行、般若心経を唱え終わると、庚申講は夕食の時間になる。ほんらいなら、精進料理を食べるところだが、この日の夕食は麦飯握りだけだった。普段なら夜が明けるまで雑談にふけるのだが、この日の庚申待はすこし違っていた。


「みなさん、お話したいことがあるのですが、良いでしょうか」


 立ち上がった長助に、村人の視線が集中する。講に参加するのは、各家の当主を中心に二十人ほど。それが、持ち回りで決まる当番の家に集まる。今回の当番は、長助その人だ。


「みなさん、村の入り口にある庚申塔はご存じですよね。私が若気の至りで壊してしまったものも、その一つです」


 小さな笑いが起こったが、広がりはせずすぐに消え去った。大勢の前で話すのは、何年経っても苦手だ。つい、堅苦しくなってしまう。


「この講が庚申塔を建てなくなって、もう四十年になります。そこで提案ですが、我々の手で、庚申塔を復活させませんか」


 誰も予想だにしていなかったのだろう。一瞬凍り付いた場の空気は、熊のような髭面をした男によって破られた。喜兵衛だ。


「庚申塔を再び建てる、というのは賛成じゃ。しかし儂らに今、そんな余裕はないじゃろう。何も、食い繋ぐのがやっとの今にせんでもよいではないか」


 喜兵衛に同調する声が広がる。そうだ、今はそんなことに金を費やす暇があれば米を確保するべきだろう、と。


「はっ、喜兵衛の爺さんは意見が古臭いな。庚申待は社交に欠かせないから仕方なく参加しているがな、庚申なんざ時代遅れだ。時代は富士山だよ、富士山。山頂から見た眺めの美しさ、まさに神のなせる業だ」


 八右衛門はまだ二十代の半ば、庚申待の参加者ではもっとも若い。去年まで若者組の組長をしていたが、父の急逝に伴って跡目を継ぎ、こういった場にもでるようになった。若者衆の主導者だ。


 八右衛門に賛成する声もまた広がった。ふたつの勢力が、互いに威嚇をしながら長助に反対する。


「俺は、長助に賛成するぜ。マブダチだから、ってわけじゃあない。あいつがこう提案した理由に感銘を受けたからだ。長助、続きを話したれ」


 与介の助け舟に礼を言うと、長助はまた話し始めた。喜兵衛や八右衛門たちも、いちおう話だけは聞こうと口を閉じる。


「この村は、豊かではなくとも平和で、笑い声の絶えない場所でした。それにはいろいろな理由があります。けれど、私がいちばん好きだったのは、村人が一つだったこと。小さないざこざはあっても、ほとんど同じ方向を向いていたことです。しかし、いまではもうみんな、ばらばらになってしまった。私は、それをもう一度ひとつにしたい。この飢饉を乗り越えるには、皆さんの協力が不可欠ですから」


「それなら、銭のいらない方法でも良いんじゃないか」


「いえ、石仏を立てるという方法は、我々全員の名前を形にして、将来に残すことのできる数少ない手段です。これこそが、一番だと思うんです」


「それなら一層、富士山でもいいじゃねぇか」


「庚申は、程度の差こそあれこの村のだれもが関わっています。村の団結を示すのに、ぴったりな存在だと思うんです」


 村人たちが、顔を見合わせる。喜兵衛も八右衛門も、納得の表情を見せた。結局のところ、この村を守りたい、より良くしたいという気持ちはみな同じなのだから。


「江戸に、石工の知り合いがいる。安く頼めると思うぜ」


 与介に続いて、皆が意見を出し合う。


「『庚申塔』という文字と、日月、それに簡単な三猿だけならば、値段を抑えられるんじゃないか」


「文字の下書きは、村寺の和尚さんに頼めばいい。寺子屋を教えているだけあって、字も綺麗だ」


 みなが一つの方向を向いて努力すれば、ものごとはあっという間に進む。その日の夜明けは、なぜだかふだんよりも早く感じられた。


 甘藷を少しずつ齧り、木の根木の皮を剥いで煮て食べる。美味くはない食生活だ。しかし、自分が一人ではないと知ってさえいれば、そう難しいことではない。むしろ、楽しめさえする。


 四か月後。夏の足音が近づいてくる時期に、みなが名を刻んだ庚申塔は完成した。簡潔ながら美しい、高さ三尺ほどの角柱。正面には、端正な楷書で「庚申塔」と大書されている。その上には、丸い太陽と三日月。その下には、見ざる聞かざる言わざるの恰好をした三匹の猿が行儀よく並んでいる。台座にびっしりと記されたのは、この塔を作った、みなの名前。長助、与介、喜兵衛、八右衛門、長兵衛……そして、傳三も。


 塔の右側面には、これまた丁寧な楷書で、彼らの生きた時代が記された。「天明七丁未年四月二十三日」



 初夏。洪水から立ち直った、田植え。青い空と碧い苗は、光を互いに反射して、輝いているようだった。


 五月。江戸では打ちこわしが頻発し、治安が大いに悪化した。高まり続ける世論に応えて、田沼政権から定信政権へと移行した公儀はついに、有効な飢饉対策をはじめる。お救い米の放出や米流通の促進はある程度功を奏し、江戸にふたたび米が出回るようになった。


 秋。去年の壊滅的な取れ高が嘘のような大豊作。二年ぶりの秋祭りは、それはそれはにぎやかなものだった。




 苦しかった日々を、忘れてはいけない。

 喪ったものを忘れずに、前へと進もう。

 輝かしい未来へと、彼らは進んだ。

 さあ、こんどは僕らの番だ。

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