安永六(1777)年 夏
「今度という今度は許さんぞ、与介! 土蔵の柱に縛り付けてやる、付いてこい」
「長兵衛さん、な、許してくれよ後生だから」
「俺からも頼むよ、親父。今回ばっかしは、俺の方が悪いんだ」
「うん、長助、怪我はないな。悪いが黙っておいてくれ。お前もすぐにわかるさ」
文句をたれながらも引きずられていく与介を、長助は臍を噛む気持ちで見ているしかなかった。こんなとき、自分の無力さを痛感する。
話は、一刻ほど前にさかのぼる。街道から村へ入る分かれ道、石仏が数基並ぶ前。与介が煙管から、煙の輪を吐き出した。大きな輪が二つ、どこまでも高い夏の空へと浮き上がっていく。
「それでよ、團十郎の忠信が大見得を切って言ったんだ。『これこそはァッ、源九郎狐なりッ』と。やっぱり本物はちげぇんだよな、全身びりびりって震えたぜ」
「いいなあ、与介は。江戸には面白いものがたくさんあるんだろうな」
「長助、お前は江戸に出たことないのか。江戸はいいぞ、天下じゅうから集まった人々の活気に満ちている」
「江戸どころか、俺はこの村から出たことも二度くらいしかないから」
「そっか、お前お坊ちゃんだもんな」
「何だよそれ」
「だってよ、お前はここいら一の地主サマの一人息子だもんな。これ以上ないってくらい手塩にかけて育てられて」
「取り消せよ」
「おいおい、どうしたよ」
長助は、いつもいつも、名主の息子であるというだけで特別視されることに辟易していた。違う身分と敬遠されるよりも、仲間とつるむ少年時代を送りたかったが、結局それは叶わなかった。それならば、青年時代は。与介ならば、あるがままの自らを受け入れてくれると信じていたがゆえに、たった一言にもひどく失望させられた。
「だから、取り消せよ……」
「うぉっ、ああっ」
急に詰め寄せてきた友人におもわず後ずさった与介は、道端の側溝に足を取られ、尻から倒れ込んだ。
がしゃん、ばり。細身ながら筋肉質な青年の体重をもろに受けた石仏は、絶望的な音を立てて倒れ落ち、二つに割れてしまった。
「与介、ごめん。怪我はない? 」
「ああ、大丈夫だ。しかし、ひどく壊れちまったな……」
「ああ……」
八十年前の日付と一行の漢文が刻まれた石仏は、大人の腰ほどの高さがあった。石仏といっても、地蔵のように仏の像を刻んだものではない。中世の板碑の流れを継ぐ、文字列を中央に刻んだものである。「奉造立庚申待供養二世安樂諸願成就攸 元禄十丁丑年十一月吉祥日 當村講中」そう刻まれた上には太陽と月の陰刻、下には三匹の猿の陽刻。その下に並ぶ造立者銘には、長助の祖先の名もある。
この石仏は、幼い頃からずっと見てきたものだ。それが横倒しになって、真ん中でふたつに割れてしまっている。愉快な表情をしていたはずの三匹の猿が、咎めるような顔つきでふたりを見ていた。
事故に怒りも吹き飛んで、きゅうに冷静になってしまった長助は恐る恐る、石仏の大きいほうのかけらを持ち上げた。
「俺が親父に謝る。小遣いから修繕代を工面すれば、講のみんなも許してくれるだろうし」
「俺も出す。さいわい出稼ぎから帰ってきたばかりで、懐も乾いていないからな」
「いや、俺が出すよ。きゅうに熱くなって殴りかかって、俺が悪いわけだし」
「それじゃあ俺の面子が立たない。俺も出す」
「……それなら」
正直なところ懐を痛めたくはなかった長助は、断る恰好を見せながらも内心喜んで与介の申し出を受け入れた。
「だから、今回ばっかりは与介は悪くないんだ。俺がついかっとなっちまって……」
「いや長兵衛さん、俺も悪いことは確かだから。直接壊しちまったのは俺だし、長助は許してやってくれよ」
「……与介、縄を解いてやるからついてこい。講の皆さんに謝りに行くぞ」
与介は、長兵衛に言われるがまま立ち上がった。
「ああ、長助、お前はうちに残っていろ」
「どうして、俺もいっしょに……」
「父の言うことが聞けんのか! 」
父親のあまりの剣幕にひるんでしまった長助は、ただ棒立ちになってふたりを見送ることしか出来なかった。
「いいから気負いなさんなって、どうせ俺は村の除け者なんだ。これ以上株が下がることはねえよ」
翌朝。若者宿の戸を開けた長助は、鼻をひどく刺すような匂いの室内に友人の姿を求めた。
「いたいた、与介」
「おう。長助、珍しいな。外で話すか」
名主の子の長助は若者組への加入を免れており、とうぜん若衆のたむろする若者宿に顔を出すこともほとんどない。
畦道の脇の斜面に、ふたりは並んで座った。青草の朝露が尻を濡らす。幼いショウリョウバッタが、短い翅をひろげて跳びはねていった。
「昨日はごめんな。あんなことになってしまって」
「いいってことよ。俺は今までにさんざんやらかしてきたからな、このくらい大した傷でもないさ。まあ、ツケにしといてやる。長兵衛さんからはなにも聞いていないのか」
「うん、夕べからこっち、なんと話しかけても答えてくれやしない」
「そうか。長兵衛さんも、家のためを思ってああしたんじゃないかな」
「え?」
「ほら、お前は跡継ぎだろ。そのお前に、不祥事の印象がついちまったらたまったもんじゃない。だから、お前抜きで謝罪参りに行ったんじゃないか、と思ってな。隠居間近のおっさんがやくざ者を連れて謝りに来て、かっか怒るやつはありゃしない」
「そっか、それならよかった」
「ああ」
「けど、そうか。親父も隠居が近いんだな」
「じゃねえの。長兵衛さんももう五十超えてんだろ」
「そっか、そうだよな……」
懐からおもむろに煙管を取り出した与介は、火皿を覗いてうなった。
「ああ、煙草を切らしてやがる。お前にやろうと思ったが形無しだな。それじゃあ、俺はもう行くな」
「うん、俺も親父の手伝いにいかないと」
手を振りあって、ふたりは別れた。
今年はじめての油蝉が二匹、必死に鳴いていた。




