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完全破壊家族

作者: 埴輪庭

父がゲイだと知ったのはちょうど大学一年生の夏頃だった。


きっかけは母からの「離婚するから」というたった一本のLINEだ。


慌てて事情を聞いてみれば、どうやら父は浮気をしていたらしい──それも、男と。


正直なところ、最初に感じたのは怒りでも悲しみでもなかった。


ただ純粋な困惑だけが頭の中をぐるぐると回っていた。


父がゲイ。


その四文字がどうしても現実のものとして像を結ばない。


毎朝きっちりネクタイを締め、「行ってきます」と判で押したように玄関を出ていくあの人が男性と──。


いや、そこは別にいいのだ。


僕は同性愛について特別な偏見は持っていない。というか、僕自身、男でも女でも両方ともイけるのだ。男のセフレもいるし、女のセフレもいる。


だから父が同性愛者だったとしても、それ自体を責める気にはなれなかった。


ただ──浮気は別だ。


これは完全に別の問題である。


相手が男だろうが女だろうが家庭を持つ人間が外に愛人を作るのはどう考えても褒められた行為ではない。


そこだけは譲れない一線だった。


母からのLINEには感情を押し殺したような淡々とした文面が続いていた。


「あなたには直接話すつもりだったけど、こっちの気持ちが落ち着かなくて」


「とりあえず報告だけ」


「夏休み、帰ってこられる?」


僕は返信を打とうとして、何度も指を止めた。


なんと言えばいいのか分からない。


「大丈夫?」では軽すぎる。


「帰ります」だけでは冷たすぎる。


結局、十分ほど悩んだ末に「分かった。来週帰る」とだけ送った。


それから数日、僕は妙にふわふわした気持ちで過ごしていた。


講義を受けていても、バイト中にレジを打っていても、どこか上の空だ。


友人に「最近ぼーっとしてない?」と指摘されて、初めて自分の異変に気づいた。


実家に戻ったのはLINEを受け取ってから六日後のことである。


新幹線を降りて改札を抜けると見慣れた街並みが広がっていた。


何も変わっていない。


当たり前だ。


たかだか数ヶ月しか経っていないのだから。


けれど僕の目にはその風景がどこか他人事のように映った。


家に着くと母は台所に立っていた。


背中越しに「おかえり」と言われ、その声の硬さに胸が詰まる。


振り向いた顔には濃い隈が刻まれていた。


ここ数日、ろくに眠れていないのだろう。


「……父さんは?」


「仕事。今日は遅くなるって」


それだけ言うと母はまた包丁を握った。


トントンと規則正しい音が静まり返ったリビングに響く。


夕食の席で、母は堰を切ったように話し始めた。


父のスマートフォンに届いた見知らぬ相手からのメッセージ。


問い詰めた末に明かされた真実。


そして二十年以上連れ添った夫が実はずっと本当の自分を隠していたという衝撃。


「気持ち悪い」


母の口から、その言葉が零れ落ちた。


「二十三年よ。二十三年も一緒にいて、あの人のこと何も分かってなかったの。私、ずっと騙されてたのよ」


僕は黙って聞いていた。


反論したい気持ちがなかったわけではない。


「気持ち悪い」という表現には正直なところ引っかかるものがあった。


だが今の母にそんな正論を突きつけるのは酷だろう。


彼女もまた、被害者なのだ。


「……母さん」


「なに」


「一度、三人で話さない?」


母の箸が止まった。


「話す? あの人と? 何を」


「色々。これからのこととか、今まで言えなかったこととか」


母は僕を睨むような目で見た。


その視線には信じられないとでも言いたげな色が滲んでいる。


「あなた、お父さんの味方なの」


「そうじゃない。ただ、このまま感情だけで決めていいのかなって」


「感情だけですって?」


声が震えていた。


「私がどれだけ──」


「分かってる。分かってるよ、母さんの気持ちは」


僕は必死に言葉を選んだ。


「でもさ、離婚って一生に関わることじゃん。だったらせめて、ちゃんと話し合ってからでも遅くないと思うんだ」


母は何も答えなかった。


ただ俯いて、冷めかけた味噌汁を見つめているだけだ。


僕には分かっていた。


これは簡単に解決する問題ではないと。


母の中にある嫌悪感は一朝一夕で消えるものではない。


それでも話し合いの場だけは作りたかった。


このまま感情の波に呑まれて、取り返しのつかない結末を迎えるのだけは避けたい。


それが今の僕にできる、精一杯のことだった。


多分相当揉めるのだろうな──そんな風に思ってはいた。少なくとも、この時までは。



家族会議が実現したのはそれから三日後の日曜日だった。


リビングのテーブルには誰も手をつけていない麦茶のグラスが三つ並んでいる。


氷はとうに溶け、水滴がコースターに染みを作っていた。


父は僕の正面に座り、母は僕の隣だ。


まるで裁判のような配置だと思った。


被告人席の父。


傍聴人の僕。


そして検察官の母。


最初に口を開いたのは父だった。


「……まず、謝らせてくれ」


低い声が静まり返った室内に響く。


「浮気をしていたのは事実だ。言い訳はしない」


母は無言のままだった。


その横顔には軽蔑とも嫌悪ともつかない感情が張り付いている。


「ただ、一つだけ訂正させてほしいことがある」


父は顔を上げた。


僕は息を呑む。


「俺は……元からそうだったわけじゃないんだ」


「どういう意味」


母の声は氷のように冷たかった。


「言葉通りの意味だ。俺は最初から男が好きだったわけじゃない。美奈子と結婚した時、本当にお前のことを愛していた。それだけは信じてくれ」


沈黙が落ちる。


母は何も言わない。


父は続けた。


「覚えてるか。健太が中学に上がった頃から、お前は俺を拒むようになった」


母の肩がかすかに震えた。


「最初は疲れてるのかと思った。仕事と育児で手一杯なのは分かってたから、無理強いはしたくなかった」


父の声にはどこか疲れたような響きがあった。


「でも一年経っても、二年経っても何も変わらなかった。俺なりに努力はしたつもりだ。記念日にはレストランを予約した。誕生日にはアクセサリーを贈った。旅行にも誘った」


「そんなの──」


「全部断られた」


母が言葉を詰まらせる。


「触ろうとすれば避けられ、キスをしようとすれば顔を背けられた。十年だ。十年以上、俺たちはまともに肌を合わせていない」


僕は黙って聞いていた。


知らなかった。


いや、知ろうとしなかったのかもしれない。


両親の寝室事情など、子供が首を突っ込む領域ではないと思っていた。


「それでも我慢してた。俺には家族がいる。美奈子がいて、健太がいる。それだけで十分だと自分に言い聞かせてた」


父は麦茶のグラスに手を伸ばしたが結局飲まずに戻した。


「あの日──部下の飲み会があったんだ」


声のトーンが変わる。


「若い連中と適当に飲んで帰るつもりだった。でも終電を逃して、結局は課の佐々木と二人で二次会に行くことになった」


佐々木。


その名前を聞いた瞬間、母の表情が強張るのが分かった。


「飲みながら、つい愚痴をこぼしてしまった。家のこと。お前のこと。普段なら絶対に言わないような話を酔った勢いで全部喋った」


父は目を伏せた。


「気づいたら、ホテルにいた」


空気が凍りつく。


「俺が──俺があいつを抱いていた」


母が立ち上がりかけた。


僕は咄嗟にその腕を掴む。


「母さん、最後まで聞いて」


「聞けるわけないでしょう!」


悲鳴のような声だった。


「こんな話、聞かされて平気でいられると思うの?」


「聞いてくれ」


父が頭を下げた。


深く、深く。


「朝になって、俺は死ぬほど後悔した。何をしてるんだと。酔っていたとはいえ、部下に手を出すなんて最低だと」


声が震えている。


「謝ろうと思った。土下座してでも許してもらおうと。でもあいつは──佐々木は先に謝ってきたんだ」


僕は眉をひそめた。


「誘ったのは自分だと。ずっと俺のことが好きだったと。でも上司だから、家庭持ちだから、絶対に言うまいと我慢していたと」


父の声に微かな温かみが混じる。


「あいつは泣いていた。すみませんでした、忘れてください、異動届を出しますって。何度も何度も頭を下げて」


沈黙。


「そんな姿を見ていたら、なんだか……たまらなくなって」


母がゆっくりと座り直した。


その顔からはさっきまでの激情が消えている。


代わりにあるのは深い疲労と諦めに似た何かだった。


「それで、関係を続けたってわけ」


「……ああ」


「私を裏切って」


「そうだ」


父は否定しなかった。


言い訳も、弁解も、一切しない。


ただ事実だけを認めている。


「最低ね」


母の声はもう怒りに震えてはいなかった。


むしろどこか虚ろで、感情の抜け落ちたような響きがある。


「十年拒んだ私も悪いって言いたいの? だから浮気しても仕方ないって?」


「そうは言ってない」


「でもそう聞こえるわ」


母は立ち上がりかけて、けれどまた座り直した。


何かを言おうとして、言葉が見つからないような顔をしている。


「……私だって、好きで拒んでたわけじゃない」


その声は先ほどまでとは違っていた。


怒りでも軽蔑でもなく、どこか疲れ切ったような響きがある。


「あなた、自分がどれだけ求めてきたか分かってる?」


父が顔を上げた。


「休みの日なんて、朝も昼も夜もよ。一日に何回求められたか、覚えてないくらい」


僕は思わず目を逸らした。


聞きたくない。


こんな話は聞きたくない。


けれど耳を塞ぐわけにもいかなかった。


「新婚の頃は我慢できた。愛されてるんだって思えたから。でも五年、十年って経つうちにだんだん辛くなってきた」


母の目が潤んでいる。


「体が持たないのよ。毎晩のように求められて、断れば不機嫌になって。休日は特に酷かった。朝起きて、昼食の後、夜寝る前。まるで私のことそういう道具みたいに──」


「美奈子」


父が遮った。


その声には苦しげな響きがあった。


「分かってる。俺が異常だったんだ」


認めた。


父は自分の性欲の強さを認めた。


「抑えようとした。本当に努力した。でもどうしても駄目だった」


「努力って」


「心療内科にも通った」


母の表情が変わる。


明らかに知らなかったという顔だ。


「三年くらい前だ。自分でもおかしいと思って、こっそり受診した」


父は両手を組んで、じっとテーブルを見つめている。


「カウンセリングを受けて、薬も処方された。性欲を抑える作用があるとかで。でも副作用が酷くて、仕事に支障が出るようになって」


「そんな話……聞いてない」


「言えるわけないだろう。『俺は性欲が強すぎて病院に通ってます』なんて」


自嘲するような笑いが漏れた。


「結局、三ヶ月で通うのをやめた。何も解決しないまま」


沈黙が降りる。


僕は二人の顔を交互に見た。


父の苦悩。


母の苦痛。


どちらも本物だ。


どちらも嘘をついていない。


ただ、二十年以上かけて積み重なった擦れ違いが取り返しのつかないところまで来てしまっただけ。


「……父さん」


声を出すのに勇気がいった。


「今も、そうなの」


父は僕を見た。


その目には息子に対する申し訳なさのような感情が浮かんでいる。


「今も、その……抑えられないの」


長い沈黙。


やがて父はゆっくりと頷いた。


「ああ」


たった一言。


けれどその重さは計り知れない。


「佐々木と会うようになって、少しは落ち着いたと思ってた。でも根本的には何も変わってない。俺は──俺はたぶん、一生このままだ」


母が深い溜息をついた。


もう怒る気力もないというような、諦念に満ちた溜息だった。


「だから男に走ったの? 私じゃ足りないから?」


「違う。そうじゃない」


「じゃあ何なの」


「佐々木は……俺を受け入れてくれた」


その言葉に母は何も返さなかった。


返せなかったのかもしれない。


「何度求めても、嫌な顔一つしない。むしろ喜んでくれる。そういう相手がいるって知った時、俺は──」


父は言葉を切った。


続きを言う必要はなかった。


僕にも、母にも、分かっていたから。


父は救われたのだ。


十年以上拒まれ続けた末にようやく受け入れてくれる存在と出会って。


それが正しいことなのかどうかは分からない。


浮気は浮気だ。


裏切りは裏切りだ。


けれど父もまた、苦しんでいたのだという事実は否定できなかった。



長い沈黙の後、母が僕の方を向いた。


「……健太」


その目は赤く充血している。


「あなたはお父さんのことどう思うの」


来た。


いつかは聞かれると思っていた質問だ。


僕は麦茶のグラスを手に取り、一口だけ飲んだ。


ぬるい。


「正直に言っていい?」


「……ええ」


「浮気とか不倫は良くないと思う。そこは擁護できない」


父が目を伏せた。


「でもそれ以外はどうとも思わないかな」


母の眉が動く。


「どうとも思わないって、どういう意味」


「言葉通りだよ。父さんが男の人と付き合ってるってこと自体は別に嫌悪感とかないし」


「あなた……」


母の声には信じられないという響きがあった。


「自分の父親よ? その父親が男と寝てたのよ? それを聞いて何とも思わないの?」


「うん」


あっさりと答えた。


「思わない」


沈黙。


父も母も、揃って僕を見つめている。


その視線の中に困惑の色があるのが分かった。


「……なんで」


母が絞り出すように言う。


「普通、ショックを受けるものじゃないの? 気持ち悪いとか、信じられないとか」


「うーん」


僕は首を傾げた。


「いい機会だから言っちゃうけどさ」


何かが弾けたような感覚があった。


もう隠す必要もないか、と思った。


どうせ家族はこの有様だ。


今さら僕一人が取り繕ったところで何の意味もない。


「僕、バイなんだよね」


空気が凍った。


文字通り、凍りついた。


「……は?」


母の声。


「バイセクシャル。男も女も両方イける」


父が目を見開いている。


母は口をぱくぱくさせていた。


「大学入ってからかな。色々試してみたんだ。最初は女の子と付き合ってたんだけど、ある時サークルの先輩に誘われてさ」


「ちょ、ちょっと待って」


母が手を振った。


「何を言ってるの」


「言葉通りだよ。今、男のセフレが二人いる。女の子は三人かな。年だって関係ないよ、自慢じゃないけどストライクゾーンは十代から還暦までイケちゃう。……あ、セフレって分かる? セックスフレンドの略なんだけど」


「分かるわよそのくらい!」


悲鳴に近い声だった。


「そういうことを聞いてるんじゃなくて……あなた、本気で言ってるの?」


「本気も本気。むしろなんで今まで黙ってたんだろうって感じ」


父は何も言わない。


ただ呆然と僕を見つめているだけだ。


「正直さ、父さんの気持ちは分かるんだよね。性欲が強いのも、抑えられないのも。僕もそうだから」


「健太……」


「いや、父さんほど強くはないと思うけど。でも一人じゃ満足できないって感覚は理解できる。だから複数人と関係持ってるわけだし」


母が額を押さえた。


「信じられない……」


「あ、ちゃんと避妊はしてるよ。そこは心配しないで。病気の検査も定期的に受けてる」


「そういう問題じゃないでしょう!」


母が叫んだ。


「あなた、自分が何を言ってるか分かってるの?」


「分かってるよ。だからこそ言ってるんだ」


僕は肩をすくめた。


「だってさ、今この状況でそんなの隠してても意味ないじゃん。父さんがゲイだってバレて、家族会議なんて開いてさ。その場で僕だけ清廉潔白なふりしてる方がおかしいでしょ」


誰も何も言わなかった。


父は目を逸らし、母は頭を抱えている。


「まあ要するにさ」


僕は続けた。


「父さんが男の人を好きになったこと自体は僕は責める気になれないんだ。だって僕も同じようなもんだから」


「同じ……」


父がようやく口を開いた。


「お前も、男と……」


「うん。割と頻繁に」


「……そうか」


それだけ言って、父は黙り込んだ。


何を考えているのか分からない。


ショックなのか、安心したのか、それとも別の感情なのか。


母は依然として頭を抱えたままだ。


「私……何を聞かされてるの……」


「現実だよ、母さん」


「現実って」


「うちの家族、揃いも揃ってアレだったってこと。父さんはゲイで、息子はバイで。まあ、母さんだけはノーマルみたいだけど」


「ノーマルって……」


母の声は力なかった。


「そういう言い方しないでよ……」


「ごめん。でも事実でしょ」


僕は麦茶を飲み干した。


「とにかく、僕が言いたいのは父さんを責めるつもりはないってこと。浮気はダメだけど、性的指向がどうとかは関係ない。それだけ」


リビングには重苦しい沈黙が漂っていた。


父は俯いたまま動かない。


母は虚ろな目でテーブルを見つめている。


家族会議は予想とはまったく違う方向に転がってしまった。



母がぽつりと呟いた。


「健太もお父さんも、頭おかしいわね」


その声にはもう怒りの色はなかった。


どこか諦めたような、疲れ切ったような響きがある。


「──そして、私も」


僕と父が同時に顔を上げた。


「……母さん?」


「美奈子?」


母は乾いた笑みを浮かべている。


その表情が妙に不気味だった。


「もしかして、母さんも同性愛者なの?」


僕は思わず聞いていた。


母は首を横に振る。


「違う。そういうことじゃない」


「じゃあ、どういう……」


「この前死んだ私の父。健太、覚えてる?」


唐突な話題の転換だった。


僕は眉をひそめる。


「うん、まあ。でも母さん、僕をお爺ちゃんに会わせようとしなかったよね」


「当たり前よ」


母の声が低くなった。


「あんな鬼畜」


空気が変わる。


父も僕も、何も言えなくなった。


「私はね、小さい頃から実の父親に性的な暴力を受けてきたの」


母の声は恐ろしいほど平坦だった。


まるで天気の話でもするかのように淡々としている。


「母は最初、止めようとしてくれた。でもだんだんおかしくなっていってね」


「おかしく……」


「私が父を誘惑してるんじゃないかって疑うようになったの。小学生の娘が実の父親を」


吐き気がした。


胃の奥から何かがせり上がってくるような感覚。


「最初は週に一度くらいだった。それがだんだん増えていって、中学に上がる頃には毎晩のように」


「美奈子……」


父が手を伸ばそうとした。


けれど母はその手を避けるように身を引いた。


「高校卒業と同時に家を出た。二度と戻らないって決めて。それ以来、あの人たちとは連絡を取ってない」


沈黙。


僕は何も言えなかった。


言葉が見つからない。


「私ね、ずっと思ってたの。正しい家族の形ってなんだろうって」


母の目が潤んでいる。


「普通の夫婦。普通の親子。そういうものにずっと憧れてた」


声が震え始めた。


「だからあなたと結婚した時、本当に嬉しかったのよ。やっと普通の家庭が持てるって」


父が俯く。


「健太が生まれた時も。この子だけは私みたいな目に遭わせないって誓った」


「母さん……」


「でもね」


母は顔を上げた。


その目には深い絶望のようなものが宿っている。


「どんなに頑張っても、普通になれなかった」


「そんなことない」


僕は思わず言った。


「母さんは十分普通だったよ。少なくとも僕にとっては」


「嘘よ」


「嘘じゃない。本当だよ」


父も頷いた。


「美奈子。俺は……そんなこと知らなかった」


「言えるわけないでしょう」


母の声には諦めに似た響きがあった。


「自分の父親に犯されてましたなんて」


「でも……」


「あなたを責めてるわけじゃないの。言わなかった私が悪いんだから」


母は両手で顔を覆った。


その肩が小刻みに震えている。


僕は立ち上がり、母の隣に座り直した。


そっと背中に手を置く。


父も椅子を引いて近づいてきた。


「美奈子」


「……なに」


「すまなかった。俺は何も知らないまま、お前を傷つけてた」


「違う。あなたのせいじゃない」


「でも──」


「私が壊れてたの。最初から」


母が顔を上げた。


涙の跡が頬を伝っている。


「だから体を求められるのが怖かった。愛情だって分かってても、あの頃の記憶が蘇ってきて」


僕は黙って母の背中をさすり続けた。


こんな過去があったなんて、想像もしていなかった。


「辛かったね、母さん」


「……ええ」


「よく今まで頑張ってきたね」


その言葉に母の目から新しい涙が溢れた。


父も母の手を取っている。


三人で、しばらくそのままの姿勢でいた。


やがて母がふっと乾いた笑みを浮かべた。


「でもね」


その声にはまた別の色が混じっている。


「苦しいのはそんな過去の事じゃないのよ」


僕は首を傾げた。


「……どういう意味」


「ねえ健太」


母が僕の目を見た。


その視線には罪悪感のようなものが滲んでいる。


「あなた、ここに住んでた時、何度か下着がなくなってたでしょ」


僕の体が固まった。


「あれ、私が盗んだのよ」


頭が真っ白になる。


「は……?」


「息子の下着を盗むなんて、最低よね。分かってる」


母の声はどこか遠くから聞こえてくるようだった。


「でもどうしても止められなかったの」


「ちょ、ちょっと待ってよ」


僕は後ずさりそうになった。


「何言ってるの。意味が分からない」


「お医者様からは愛着障害だって言われたわ」


母は虚ろな目でテーブルを見つめている。


「幼少期の体験が原因で、歪んだ愛着を形成してしまったって。だから私は……」


言葉が途切れた。


父も僕も、何も言えなかった。


めちゃくちゃだ。家族があっというまに壊れてしまった。


ただ僕が思うにこうなったのは誰のせいでもなくて、僕らは壊れるべくして壊れたんだなとは感じている。


「これからどうしたら……」


母が掠れた声で言う。


これから? う~ん、離婚だろうか?でも……


「父さんと母さんが離婚して、僕らが一家離散したとして、それで何がどう変わるんだろう」


特に何か考えがあったわけでもないがなんとなく思った事を声に出して言ってみる。


でも父さんも母さんも何も言わない。


「そういえば母さんはさ、僕とどうにかなりたいって思っていたんだよね。だから下着を盗んだんだよね」


母は何も答えない。否定しないということはそういう事なのだろう。


それに対して父さんも何も言わない。何か思っていたとして、言える立場ではないだろう。


「なら、もういいんじゃない?」


僕はつとめて明るく言った。


父も母もきょとんとしたように僕を見る。


その顔はまるで狐につままれたようだった。


突然の提案が理解の範疇を超えているらしい。無理もない。数分前まで地獄のような告白合戦を繰り広げていたのだから。


けれど僕の頭はかつてないほど冷静だった。


僕はゆっくりと立ち上がった。


迷わず父の元へ歩み寄る。


そして顔を覗き込みそのまま唇を重ねた。


チュッという軽い音ではない。


ねっとりと絡みつくような接吻だ。


舌を突っ込み上顎を愛撫する。これは大学の後輩から教わったテクニックだった。


父の背筋が少し跳ねたのが伝わってくる。


離れると次は母の番だ。硬直している母の顎を強引に上向かせる。


同じように唇を塞いだ。


父よりも深く長く舌を這わせる。


母の喉が小さく鳴った。


二人ともあっけにとられて全く抵抗しない。


いや抵抗できなかったのかもしれない。


数秒の沈黙の後ようやく正気を取り戻したようだった。


「なにを……」


言いかけた両親の手を僕は強く握りしめる。


その手は冷たく汗ばんでいた。


僕は聖母のような慈愛を込めて微笑んでみせる。


「僕らは頭のオカシイ家族だよ」


はっきりと告げた。


「父さんもおかしいし母さんもおかしい」


二人の視線が僕に集まる。


「そして勿論この僕もおかしい」


誰も否定しなかった。否定できるはずもなかった。僕たちは社会のレールからとっくに外れている。


「僕らみたいな人間を理解してくれる人なんて滅多にいないだろうね──僕ら以外には」


父の目から力が抜けていく。


母の目から怯えが消えていく。


そう、僕たちは同じ穴の狢だ。秘密を共有した共犯者だ。


──だから仲良くしようよ。


そう囁く。


僕が知る限り仲良くするにはこれが一番手っ取り早いんだ。


二人の手を引いて立たせる。


「三人で寝室にいこう」


父と母が顔を見合わせた。


「子供じゃないんだからやることはわかってるよね」


そう言って僕は二人を促して廊下へと歩き出した。


倫理も常識もリビングに置き去りにしたまま。




翌朝の食卓はいつになく賑やかだった。


カーテンの隙間から柔らかな朝日が差し込んでいる。


「コーヒー淹れたぞ」


父がポットを持ってくる。


その顔色は驚くほど良かった。


憑き物が落ちたように晴れやかだ。


「ありがとう」


母が自然な笑みで受け取る。


昨夜までの神経質な空気は微塵もない。


テーブルには焼きたてのトーストとスクランブルエッグが並んでいた。


僕も席につきトーストを齧った。


サクッという音が心地よく響く。


「今度の週末だけどさ」


父が何気なく切り出した。


「三人で温泉でも行かないか」


母が嬉しそうに頷く。


「いいわね。久しぶりにゆっくりしましょうか」


「僕も予定空けとくよ」


僕たちは顔を見合わせて笑った。


(了)


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