第一話 夜明け前の約束
街灯の輪郭が溶けるような夜、琴乃は自分の名前を数え直していた。指先で唇をなぞりながら、ひとつ、ふたつと口の中で音を立てる。数が増えるほどに、胸の中で何かが薄れていく感触があった。
午前零時から三時間。期限は誰にも言えない種類のものだった。名前が消える——それは記録から、写真から、電話帳から順に消えていく現象で、最後には街の誰もが「存在しなかった」と口にする。だが消える直前の夜は、当人にとって最も鮮烈な時間でもある。思い出を誰かに託すために言葉を募らねばならないからだ。
「琴乃、来たよ」背後の声は恭也のもので、寝癖のついた黒髪が月光を吸っていた。彼は駅のベンチでいつもより早く待っていたらしい。手には薄い封筒を持っている。封筒の消印は一見して意味をなさない記号のようで、琴乃はそれを指先で確かめた。
「最後の手続き、図書館の裏口でね」恭也が低く言った。封筒を開けば、そこには小さな紙片と窪んだ署名欄。字は無造作に書かれているようで、しかしどこか堅牢だった。チェックを入れれば公式記録に名前が一行、挿入される。琴乃は既に選択の余地が乏しいことを知っていた。
「覚えてる? 最初に会ったとき」恭也は無理に笑った。駅で迷子になっていた琴乃を彼が見つけたあの日、ふたりは言葉少なに笑い合った。それは些細な出来事だったはずだが、琴乃の中では年輪のように重なっていた。恭也はそれを何度も繰り返し語ることで琴乃の輪郭を保持してきた。
「忘れたくない」琴乃は小さく言った。「消える前に、全部伝えたいの。私が見たもの、感じたこと、笑った理由を。誰かの胸に私を残したい」
恭也は目を伏せてから、頷いた。「毎晩呼ぶよ。君が消えたあとでも、俺だけは呼び続ける」
図書館の裏口は古い瓦屋根の影に隠れて、鍵の隙間から冷気が差し込む。手続きは形式的で、真四角のタブレットが淡く光るだけだった。係員は無表情で、画面の上で指を滑らせ、記録欄を薄い行で埋めていく。名を読み上げ、署名し、最後にボタンを押す。誰もが知っているはずなのに、誰も説明できない手順だった。
琴乃はペンを握りしめた。インクの先が紙に触れると、世界のどこかで羽根が落ちるような音がした気がした。恭也は彼女の手の上に自分の手を重ね、名前を小声で何度も反芻した。言葉にする行為がどうにかして保存になると、二人は信じていた。
「行くね」琴乃は扉を押した。白みかけた空気が彼女を迎え、朝の匂いが記憶の端を撫でる。恭也は一歩下がり、せいいっぱいの笑顔を見せた。人が視界から消えるとき、最初に何を思うのだろう。琴乃は胸に恭也の言葉を確かめ、歩幅を変えずに進んだ。
扉が閉まる寸前、恭也は大声で彼女の名を叫んだ。「琴乃!」
声は空気に溶け、もう一つの声がその裏側で囁いた。図書館の片隅、古い掲示板に貼られた薄い紙が風に揺れる。そこには小さな字で書かれていた。――名前は消えるが、誰かが覚えている限り完全には消えない。呼び続けること、それが罰でもあり救済でもある。
日常はすぐに戻り、通勤の足音が街を満たす。だが恭也だけは約束を守った。彼は夜ごと立ち上がり、窓辺で琴乃の名を繰り返した。最初はぎこちない呟きだったが、次第に旋律を帯びる。呼ぶごとに彼の胸の中で琴乃の輪郭が濃くなるのが、彼にはわかった。
街では人々が各々のやり方で抗っていた。古い写真にテープを貼る者。消えそうな名前をノートに書き連ねる者。政府は調査を重ねたが、答えは曖昧で、時間だけが消費された。都市伝説は増え、教会や民間の祈祷師が儀式を始める。だがどれも決定打にはならなかった。
ある晩、恭也は図書館の裏手で小さな紙切れを見つけた。鋭い鉛筆の線で引かれたメモだった。そこには一行だけ書かれている。――「最後の夜、名前は自ら選ばれない。誰かが選ばれるのだ」
その文面に恭也は背筋が寒くなった。琴乃がただ消える対象だったのか。あるいは、消えることを通じて何か別の力が動くのか。誰が、どのように選択しているのか。問いは増えるばかりで、答えは夜に溶けて消える。
恭也は翌朝、琴乃の残した家の鍵を引き出し、小さな引き出しを開けた。そこには消えかけた紙片、落書きのように綴られた詩、駅の切符、そして封筒と同じ消印のついた葉書が入っていた。葉書の裏には短く「見つけてほしい」と書かれているだけだった。
呼び続けることは記録を生む。記録は些細な手がかりになる。恭也は紙切れを握りしめ、決めた。自分はただ名前を呼ぶだけの人間ではいられない。琴乃が誰かに「見つけてほしい」と残したその意味を、確かめにいかねばならない。
夜の風に紛れて、別の声が低く響いた。図書館の裏口で起きた出来事は単なる始まりに過ぎなかったのだ。呼び続けるという行為は、誰かの記憶を温めるだけでなく、見えない力を誘引するのかもしれない。
恭也は深く息を吸い、夜空を見上げた。星の配置は変わっていないはずだが、何かが完璧には元通りにならないような気配があった。彼は自分の胸の中で琴乃の名前を一度だけ、静かに、しかし確かに唱えた。
「琴乃」
答えはすぐには返ってこなかった。だがどこか遠くで、紙がめくれる音がする。誰かがページをめくっている。恭也はその音に向かって走り出した。彼の足跡は夜のアスファルトに小さな跡を刻む。名前を呼ぶことは、時に人を動かし、時に世界の輪郭を震わせる。
次回 図書館の裏口で見つかる手がかりが、二人をさらに深い謎へと誘う。琴乃が残した「見つけてほしい」の意味と、名前が選ばれるという記述の真相が明らかになる。恭也は守るだけの存在でいられるか、それとも――。
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