君のうしろ
放課後のチャイムが鳴って、俺は教室を出た。部活に入っていないせいか、帰り道はいつもどこか所在なさげだ。部活動でにぎやかに残っていくクラスメイトたちの声を背に、校門を出て、淡々とした歩幅で住宅街へと向かう。空はまだ青くて、秋に入りかけた風が少し冷たい。
ふと、足が止まった。前に見える角、商店街のはずれに――まだあったんだな、あの駄菓子屋。
「山崎商店」。ひび割れた木の看板に、色あせたラムネのポスターが貼ってある。店先にぶらさがった透明のケースには、くじ付きのチョコやら、妙に甘ったるいガムやらがぎっしり並んでいた。小学低学年のころは、ここが世界の中心みたいな場所だった。
……ハルナ。
名前が浮かんだ瞬間、胸が妙にきゅっとなった。あの頃、俺とハルナはよくここで、アイスを一本買って半分ずつ食べたり、五十円のスナック菓子を並んで食べたりしてた。夏の日差しの下、駄菓子を片手に校庭で犬と一緒に走り回った。ハルナが笑うと、白い歯と結んだ髪がやけにきらめいて見えた。
でも――そんな時間は長くは続かなかった。
小学校三年くらいだったか、同じクラスの男子にからかわれた。「おまえら、いつも一緒に帰ってんの? お似合いじゃん」とか。俺はそのとき、なんでだか知らないけど、顔が真っ赤になって言い返せなかった。ただバカにされたって気持ちだけが残って、翌日からハルナと一緒に帰るのをやめた。
あれからどうなったんだっけ。俺たちは自然と話さなくなって、気づけば中学でも、ほとんど別のグループに分かれてしまっていた。
今になって思えば、あのとき冷やかしてきたやつ――たぶんハルナのことが好きだったんだろう。俺への態度が妙に意地悪だった理由も、そう考えれば説明がつく。気づいたのはずっと後で、わかったところでどうにもできなかった。
俺は駄菓子屋の前で立ち止まったまま、しばらく考えこんでいた。足を止めた俺を、ランドセルを背負った小学生が不思議そうに追い抜いていく。ああ、そうか。俺たちも、あんなふうに小さな背中で毎日ここを通っていたんだ。
気づけば、懐かしさに負けて戸を引いていた。カラン、と鈴の音。中の空気は昔と同じ、ちょっと湿気を含んだような甘いにおいがする。並んだ菓子の色とりどりが、やけに目にうるさい。
「いらっしゃい」
奥から声がして、老婆がゆっくり顔を出した。店主のおばあさん――まだ元気だったんだ。俺は会釈だけして、棚を眺める。小学生のころ、何度も選んだうまい棒、ビニールに入ったよくわからないソーダ味のゼリー。手が勝手に伸びて、ラムネ菓子をひと袋取った。
外に出て、ベンチに腰掛ける。袋を開けると、ざらざらした砂糖の粒が指に付いた。口に放り込むと、炭酸みたいな刺激が広がって、妙に懐かしい。……思い出と一緒に噛みしめるように、俺は空を見上げた。
口の中でラムネがぱちぱちと弾ける。その小さな音に混じって、遠い記憶が勝手に浮かんでくる。
あのとき、俺とハルナは近所でも有名なくらい、一緒にいる時間が長かった。学校が終わると駄菓子を分け合い、公園でボールを投げ合い、犬を連れて走り回った。ハルナの家には茶色い雑種犬がいて、俺はその犬の名前を「チビ」って呼んでいた。どっちが先に命名したのかは覚えてないけど、呼べば耳をぴんと立てて駆け寄ってきた。
ハルナはよく笑ってた。少し高い声で、くすぐったいくらい無邪気に笑う。その笑い声に引っ張られるようにして、俺もいつも笑ってた。駄菓子屋の前でチビにポテトフライを分け与えたとき、おばあさんに怒られて二人で逃げたこともあったな。あのとき、ハルナの背中を見ながら「ずっとこうしていたい」と、子どもなりに思ったんだ。
……それなのに。
「おまえら付き合ってんの?」
あの男子の冷やかしは、今も耳に残っている。あのときの俺は、からかわれることが恥ずかしくて仕方なかった。否定したくて、でもうまく言葉にできなくて、ただ顔をそむけることしかできなかった。
その翌日から、俺はハルナを避けるようにした。わざと違う道を通って帰ったり、声をかけられても聞こえないふりをしたり。幼い自分の小さなプライドが、あの笑顔を遠ざけてしまった。
……ハルナは、どう思ってたんだろう。
思い返すと、あのころのハルナは、何も言わなかった。ただ、少し困ったように笑って、それから俺の後ろ姿を追いかけてくることもなくなった。きっとあのとき、傷つけたのは俺じゃなくて、ハルナのほうだったんだ。
ラムネの甘さが、急に苦く感じた。舌の奥に残る微かな酸味が、胸の奥の後悔に重なる。
もし、あのとき素直に「ハルナといるのが楽しい」って言えていたら。今も隣で笑っていたのは、もしかしたら――。
けれど現実には、俺は一人で駄菓子を食べている。隣に犬も、あの笑顔もいない。ただ夕暮れが落ちてきて、街灯の明かりが少しずつ灯るばかりだ。
「……今、どうしてるんだろうな」
ぽつりとつぶやいて、自分でも驚いた。声に出したところで答えが返ってくるわけじゃないのに、胸の奥が勝手にハルナを探している。
ベンチに腰掛けたまま、俺は袋の中のラムネをもうひと粒、舌の上に転がした。さっきよりも甘さが強く感じるのは、思い出がどんどん濃くなっているせいかもしれない。
夕方の風が吹いて、商店街の旗がばさばさと揺れる。遠くで子どもの笑い声が響いて、その音に混じって、記憶の中のハルナの笑い声も蘇る。……どうしてこんなに、はっきり思い出すんだろう。
あの頃。夏の午後、俺とハルナとチビは、学校が終わるといつも原っぱへ行った。駄菓子をポケットに突っ込んで、ボールを追いかけて、汗だくになって遊んだ。草の匂い、土の手触り、蝉の鳴き声――全部が一緒にあった。
ハルナは犬の首輪を引いて「いくよ!」と声をあげ、俺はその横で走りながら笑った。走り疲れて地面に寝転がったとき、雲を見上げながら「大人になったらさ」とか、よくわからない夢を語り合ったこともあった。小さな手で差し出されたスナック菓子の味、犬の舌が手の甲を舐める感触――どれもが妙に鮮やかで、今の自分の記憶よりも確かに思い出せる。
……それなのに。あの一言で全部が変わった。
「おまえら付き合ってんの?」
何気ない冷やかしに、俺はただ慌てて、照れて、何も言えずに逃げた。それがどういう意味を持つかなんて、当時の俺には考えもしなかった。ただ「笑われたくない」という気持ちだけで、ハルナを遠ざけてしまった。
あの日以来、俺は「一緒に帰ろう」って言えなくなった。ハルナもそれを察したのか、声をかけてくることは減っていった。すれ違うときに少し困った顔をしていたのを覚えている。
なのに俺は――その顔からも目を逸らした。
思えば、俺はずっと臆病だったんだ。恥ずかしいとか、からかわれたくないとか、くだらない理由ばかりを盾にして、大事なものから目を背けていた。
ハルナにとって、俺はどう映っていたんだろう。裏切られたと思ったのか、呆れたのか、それともただ「子どもだな」って笑って許してくれたのか。……今となっては、もう確かめることすらできない。
風に混じって、犬の遠吠えがどこかから聞こえた。瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。まるでチビの声みたいに思えたからだ。
あの犬も、もう生きてはいないだろう。俺と同じように、ハルナに撫でられ、名前を呼ばれながら年を重ねて、きっと静かに旅立ったはずだ。……そう考えたとき、不思議と涙が出そうになった。犬にさえ、俺はまともに別れを言えていない。
気づけば、駄菓子の袋は空っぽになっていた。砂糖の粉が指先に残っていて、舐めとるとほんの少しだけ甘さが蘇る。でもその甘さも一瞬で消えて、苦い後悔だけが残った。
「もし、あのとき勇気を出していたら」
頭の中で何度も繰り返している言葉。口に出せば簡単なのに、なぜか言葉が喉に詰まる。
俺はハルナに「また一緒に帰ろう」と言えたかもしれない。
「笑われても気にしない」と強がることだってできたかもしれない。
でも実際は、なにもできなかった。小さな俺には、笑われることが世界の終わりみたいに怖かったんだ。
そして今、俺はこうして一人でベンチに座り、ラムネの残り香と一緒に「もしも」に縋っている。ハルナはもう、俺の隣にいない。再会することもないかもしれない。けれど――どうしてだろう。思い出は、消えてくれないんだ。むしろ年を重ねるほどに鮮やかになって、今の自分を責め続けているようにすら思える。
空を見上げると、暮れかけのオレンジ色が滲んでいた。街灯が少しずつ光を強め、カラスの声が遠ざかっていく。あの頃の自分がここに座っていたなら、どんな顔でハルナを思い出しただろう。
……いや、そもそも、あの頃の俺なら、こんなふうに後悔なんてしていなかったはずだ。ただ隣にいて、一緒に笑って、犬と走って――それだけでよかったのに。
ラムネの袋を握りつぶすと、カサリと乾いた音がした。その音がまるで、過去と現在の境目を突きつけてくるようで、胸の奥がさらに重くなった。
ベンチから立ち上がると、商店街の通りはすっかり夕暮れ色に染まっていた。シャッターを閉める音や、どこかの家の夕飯の匂いが漂ってくる。俺の影は長く伸び、足元に重たくまとわりつく。駄菓子屋を振り返ると、古びた看板がまだ風に揺れていて、そこに子どものころの自分とハルナの姿が重なった。
小さな背中、短い歩幅、それでも楽しそうに駆けていく二人と一匹の姿。笑い声は確かに聞こえるのに、手を伸ばすと霧みたいに消えてしまう。過去ってやつは、どんなに鮮やかでも、触れられない。
「……戻れないんだな」
自分でも驚くほど静かな声だった。大声を出したわけでもないのに、胸の奥が震えた。今さら何を悔やんでも、あの時間は帰ってこない。もしハルナに会えたとしても、もう小さなガキじゃない。互いに知らない時間を過ごしてきた別々の人間だ。
それでも――あのときの笑顔だけは、俺の中でずっと輝いている。きっとこれからも。
俺は空を仰いだ。群青に沈みかけた空の中に、一番星がひとつ、かすかに光っていた。小学生のころ、ハルナとチビと三人で空を見上げ、「あれ、誰の星?」なんて言い合ったことを思い出す。ハルナは「チビのだよ」って即答して、俺は笑い転げた。犬に星をあげるなんて、子どもらしくて馬鹿みたいで、でもあのときはそれがすごく正しい気がした。
チビはもういない。ハルナが今どこで何をしているのかも知らない。それでも、星を見上げればあの声が甦る。忘れることなんてできない。
俺はポケットに手を突っ込む。小銭がまだ少し残っていた。もう一度、駄菓子屋に戻って何か買おうかとも思ったが、やめた。さっき食べたラムネの味が、まだ舌に残っている。これ以上重ねたら、せっかくの思い出が薄まってしまう気がした。
足を踏み出す。カラン、と駄菓子屋の戸が鳴る音が、背中に響いた気がした。振り返ろうか迷ったが、俺はそのまま歩き出した。過去に捕まっていたら前に進めない。そんなことはわかっている。
でも――忘れるわけじゃない。ハルナと過ごした時間、駄菓子屋の甘い匂い、犬の鳴き声。それら全部が、今の自分の一部になっている。
俺は歩きながら思う。
いつか偶然、どこかでハルナに会うことがあるだろうか。そのとき、俺はどんな顔をして「久しぶり」と言えるだろうか。笑えるだろうか。それとも、気づかないふりをして通り過ぎてしまうのか。――答えは出ない。
ただ一つ確かなのは、俺はあの頃の自分に戻ることはできないということ。そして、あの時間を忘れることもできないということ。
駄菓子の甘さが舌から消えるころ、俺は駅前の明かりの中に出た。人混みのざわめきが現実に引き戻す。制服姿の高校生たちが笑い合っている。そこにハルナの姿を探してしまう自分がいる。いないとわかっているのに、目が勝手に探してしまう。
胸の奥がひりついた。でも同時に、少しだけあたたかかった。きっと俺は、この感覚と一緒に生きていくんだろう。
――君と犬。
その言葉だけが、記憶の奥から浮かび上がってきた。
俺にとっての原点であり、手放してしまった宝物であり、それでもずっと残り続けるもの。
夕暮れの街を歩きながら、俺はその言葉を心の中で繰り返した。
幼いころの思い出というものは、不思議と年月を重ねるごとに鮮やかさを増すことがあります。特に、失ってしまったものや取り戻せない時間ほど、記憶はくっきりと色づいて残るように思います。