転生者の親のすゝめ
朝霧が立ち込める森の奥深く、落ち葉を踏みしめる音だけが静寂を破っていた。
狩人達の朝は早い。夜明け前に目を覚まし、まだ冷たい空気の中で、剣の刃先を確認する。狩人にとって、準備は命綱だ。食糧を調達し、村を守り、そしてなにより、家族を養う。そのすべてが、この手の働きにかかっている。
森を包む霧は、まるで魔物の吐息のようだった。白い靄が地面すれすれを這い、古びた木々の根元に絡みつくように滞留している。頭上の枝葉はしっとりと濡れ、時折ぽとりと雫が落ちては、枯葉を打ち鳴らす。どこかで小川のせせらぎが聞こえ、森の奥で鳥がひと鳴きした。すべてが、静かな緊張に包まれている。
「クリス! そっちに行ったぞ!」
霧の向こうから、友人のライルの声が響いた。
クリスは剣の柄を握り直す。目の前には、全長二メートルを超える巨大な猪。泥にまみれた牙が陽光を弾き、咆哮が森を震わせる。
「来い……!」
突進してくる猪に対し、クリスは微動だにせずに構える。猪が勢いのまま突っ込んできた瞬間、クリスは剣を縦に振り抜いた。
ほんの一瞬の交錯。刃が厚い皮膚を裂き、筋肉と脂肪の層を断ち割りながら、勢いそのまま深く食い込んでいく。骨に近い硬さを感じたかと思えば、一瞬の手応えのあと、肉がわずかに軋んで裂けた。金属が肉を裂く音と、濃密な血の匂いが広がる。巨体はその勢いのまま、地を巻き上げて倒れた。
クリスは息を整え、剣を土に突き立てる。肩で息をしながら、沈黙した獲物を見下ろした。
「さすが。相変わらず見事な切り口だな」
声とともに、弓を肩にかけたライルが駆け寄ってきた。
「この大きさなら、今日はもう引き上げていいだろう。ミーシャとアランくんが待ってるだろ? 後処理はこっちでやっておくよ」
「助かる。頼んだ」
クリスは短く答えると、少し照れたように頬をかいて、くるりと背を向けた。
その背中に向かって、仲間の狩人たちから怨嗟の念がぶつけられる。
「ミーシャは俺と結婚する予定だったのに!」「俺はまだ認めちゃいないからな!」「アランくんのパパは俺だ!」「ミーシャ、なんでクリスなんかと!」
ライルが肩をすくめ、ため息まじりに笑う。
「まったく……。あいつらの後始末もこっちでやっとくよ」
クリスは狩人仲間たちの妬み嫉みの入り混じった視線に背を向けながら苦笑し、「いつもすまんな」とだけ言い残して歩き出した。
息子が生まれて、半年が経った。
『アラン』と名付けたその子は、生まれたばかりのころはよく泣いた。夜中に何度も起こされ、抱き上げ、あやし、背中をさすり続ける日々。それでも、あの柔らかな泣き声すら愛おしく思えた。
だが、いつからかアランは泣かなくなった。夜泣きがぴたりと止まり、目覚めても静かに天井を見つめるようになった。何かを観察するような、考えるような瞳で。
家に戻ると、暖炉の火がやわらかく灯り、部屋の中にはパンとミルクの香りが満ちていた。
妻であるミーシャは椅子に腰かけ、アランを優しく抱いて眠っていた。陽の光が差し込み、母子の姿を黄金色に包んでいた。
「ただいま」
クリスが小さく声をかけるが、ミーシャもアランも目を覚まさない。その静かな寝息を聞きながら、クリスはそっとコートを脱ぎ、台所へ向かった。
温かいコーヒーを入れ、木のコップを両手で包みながら戻ると、アランがもぞもぞと身をよじり、ミーシャの腕の中から抜け出そうとしているのが見えた。
「おっと、アラン。危ないぞ」
クリスが手を伸ばすと、アランは父を見つめ、わずかに唇を尖らせたような表情を見せた。
「はは……何だ、その顔は」
抱き上げたアランは、ぐずりもせず、じっと父の顔を見つめた。小さな手がクリスの胸に触れ、次に指先が腰に下げた剣に触れようとする。
「それが気になるのか? ダメだ。アランにはまだ早い」
手を引き離すと、アランは不満げな目をした。まるで、自分が何をしようとしたかを理解していたかのように。
クリスはその目を見つめ返しながら、口角をあげて呟く。
「大きくなったらな。そのとき、教えてやる」
そのとき、後ろから気配を感じて振り返ると、月明かりのように柔らかく輝く金髪が肩に流れ、大きな瞳がクリスをまっすぐに見つめていた。可愛いでも綺麗でもない。息を呑むような、圧倒的な美しさ。ミーシャは、村中の男たちの憧れだった。
クリス自身も、かつてその中の一人だった。何度も交際を申し込んでは断られ、それでも諦めずにアタックを続けた末に、ようやく彼女の隣に並ぶことを許された。
「もう帰ってたの? おかえりなさい」
その声に、クリスは肩の力を抜いた。
「ただいま。なかなか大きい獲物が狩れたんだ。あとで楽しみにしててくれよ」
ミーシャとアラン。
目の前にあるこの静かな幸福が、クリスにとっては何よりも大切なものだった。
アランが生まれてから十か月が過ぎた。はいはいはすでに卒業し、今ではおぼつかない足取りで家の中を自由に歩き回るようになった。小さな足音が床板をたたくたびに、クリスとミーシャはその成長を微笑ましく見守った。
言葉も驚くほどの早さで覚えていた。最初はたどたどしい発音だったものが、いつの間にか文になり、気づけば会話が成立していた。
──いや、成立しすぎていた。
ある朝、食卓に湯気の立つパンとスープが並ぶ中、アランは自分の椅子によじ登ると、背筋をぴしりと伸ばし、丁寧に両手を合わせた。ふわふわの髪が朝日を受けてきらきらと光る。
「母さん、今日も食事の用意をありがとうございます。いただきます」
その一言に、ミーシャは口元をほころばせる。
「はい。いただきます」
その様子を見ていたクリスは、パンを口に運びかけた手を止める。
「いつもありがとう、ミーシャ。いただきます」
慌てて感謝を述べると、ミーシャと目を見合わす。そして、どちらともなく小さく笑った。最初こそアランのこの物言いに仰天したが、今ではこの光景にも慣れてしまっていた。
アランの“違和感”は言葉づかいだけではなかった。
ミーシャが子ども向けの物語を読み聞かせていると、アランは途中で首をかしげて口を開いた。
「母さん。これって、どういう意味ですか?」
読み終えた後も、物語の筋よりも言葉の定義や構造にばかり興味を示す。それからというもの、彼は一文字一文字に興味を示し、ひと月もすると文字の読み書きをマスターしてしまった。
家にあった絵本を全部読み終えると、今度は屋根裏から引っ張り出した分厚い本を手にするようになった。物語、エッセイ、歴史書──内容が理解できているかは不明だが、目の動きやページをめくる手つきには、確かな意志が感じられた。
ある午後、クリスが庭で木剣の手入れをしていると、アランが庭の隅からふらふらと現れた。手には、どこからか拾ってきた枝。
「こうですか?」
そう言いながら、幼児とは思えぬ腰の落とし方と重心移動で、剣の構えを真似てみせた。クリスは驚いて目を見開くと、剣を置き、アランの傍に膝をついた。
「惜しい。こうだよ」
言葉とともに手を添えて姿勢を直すと、アランは小さな手で枝を握り、懸命に真似をする。赤ん坊らしく力強さはないが、動きは赤ん坊とは思えぬ程筋が通っていた。
布団に包まれて寝ているアランの寝顔は年相応で、無垢な子どものそれだった。だが、ある晩。
「……すみません、部長……来月の目標は必ず……」
アランの苦しげな寝ぼけ声に、クリスは思わず起き上がった。
――ブチョウ……ってなんだ?
天井を見上げ、ぽかんと口を開けたまま、しばらく動けなかった。
最近では、ミーシャとお風呂に入るのを極端に嫌がるようになった。
「アラン、一緒にお風呂入りましょう」
「母さんと一緒は……ちょっと……」
湯気に包まれた洗面所で、赤くなった顔をそらす姿は、赤ん坊ではなく思春期の少年のそれだった。
それを見てミーシャは笑うが、薪を抱えながらそれを見ていたクリスは真顔になる他なかった。
ある日、アランが寝たのを見計らってクリスはミーシャを呼び出した。
「やっぱりこの子ちょっと変だって! 一歳にもならない子があんな反応するか?」
そう訴えたクリスに、ミーシャは笑いながら肩をすくめた。
「元気でいてくれるんだし、いいじゃない。天才なのよ、あの子は」
「……天才なのはそうだけどさ」
二人してただの親バカだった。
またある日、アランはまっすぐにクリスを見つめて尋ねた。
「父さん、“魔法”って本当にあるんですか?」
手に持っていたフォークが滑り落ちそうになった。
「な、なんだ急に……魔法はあるけど、赤ん坊が関心持つようなもんじゃないぞ」
「あるんですね」
その目の奥には、明確な探究心があった。
サラダを飲み込んだミーシャが手をひらひらと動かすと、指先に小さな火球が灯される。
「アラン、これが魔法よ」
「すごい!」
アランの目がぱっと輝いた。
「ぼくにも、できますか?」
「うーん、今のアランにできるかしら」
「なんでですか?」
きょとんとアランが首を傾げる。
「魔法を使うためにはね、魔力を使うの。でも、今のアランはちょっと魔力が少ないかもね」
「魔力……」
アランは何かを噛みしめるように頷いた。
「アラン、もし興味があるなら魔法の本、読んでみる?」
「読みたいです!」
ミーシャがクリスを振り返る。
――まあ、読ませてもどうせ使えないだろう。
少し考えてから、ゆっくりとうなずいた。
「たしか、屋根裏にしまってたな……」
それからというもの、アランは屋根裏にあった魔法書を読み漁るようになった。古代言語で書かれた呪文、理論式、構文──彼はそれらを当たり前のように読み、時に頷きながらページを進めていた。
しばらく経ったある日の朝、クリスが庭に出ると、地面の一角に焦げ跡と小さな穴が空いていた。
「おい……これ、なんだ?」
アランは無邪気な声で返す。
「なんでしょうね?」
クリスには、アランの額が少し汗ばんでいるように見えた。
そんな日々が続いたある晩のこと。
クリスは、酒場の片隅でライルと向かい合い、木のジョッキを傾けていた。空気はどこか穏やかで、酔いも手伝ってか、言葉がぽつりぽつりとこぼれる。
アランの異常な成長について話題が及ぶと、ライルは少し言葉を伸ばしながらジョッキを口元に運んだ。
「それ、“転生者”ってやつじゃないか?」
「転生者?」
クリスが聞き返すと、ライルは目を細めて続けた。
「都から来た吟遊詩人が歌ってたよ。前世の記憶を持って生まれ変わる子どもがいるってさ」
「……前世の、記憶?」
「まあ、ただの詩さ。現実にあるわけないさ」
ライルは冗談めかした笑みを浮かべながら、再びジョッキを傾ける。
クリスも同じように笑ってみせた──だが、その笑みにだけ、わずかな陰が差していた。
息子・アランの視線。仕草。言葉の端々。
思い返すほどに、どれもが“普通の子ども”とは少しずつ違っていた。
──怖い。
唐突に浮かんだ感情に、自分でも驚いた。
けれど、その違和感を否定するには、あまりに証拠が揃いすぎている。
──アランは、本当に、ただの子どもなのか?
その答えの出ない問いが、静かに、しかし確実に、クリスの胸の奥で根を張りはじめていた。
それは、突然霧のように忍び寄ってきた。
月が雲に隠れ、夜がひときわ深く感じられる頃。見張りの鐘が村に響き渡った。
「魔物が森に出たぞ! かなりでかいのが一体だ!」
クリスは剣と革鎧をつかみ、玄関に向かう。すると、寝巻き姿のミーシャがアランを抱いて立っていた。
「気をつけて、あなた」
ミーシャの声は落ち着いていたが、指先が震えていた。アランも眠気の残る目でクリスを見つめ、小さく「がんばってください……」とつぶやく。
「大丈夫だよ。すぐ戻る」
微笑を浮かべてそう言うと、クリスは戸を開け、夜の冷気の中へと駆け出した。
広場では、村の男たちが次々と集まり、簡単な作戦を立ててすぐさま森へと向かった。
森に足を踏み入れると、湿った空気がまとわりつき、土と草の匂いが鼻を突いた。足元の草むらがざわつき、不穏な気配が周囲に漂っていた。
やがて、茂みの奥からぬらりと姿を現したのは、漆黒の甲殻を纏った巨大なカマキリのような異形の魔物だった。
六本の脚が地を叩くたび、硬質な音が響き、土が飛び散る。月光を吸い込むように黒く濡れた甲殻は、不気味に光を返す。前脚の大鎌は人の身の丈ほどあり、空気を切るたびに死を予感させた。
耳を裂くような咆哮が夜を貫き、魔物が突進してくる。
「囲めッ!」
誰かの叫びに反応し、男たちが左右に分かれる。しかし、魔物の方が速かった。鋭い腕が薙ぎ払われ、反応の遅れた一人が吹き飛ばされた。骨の砕ける音と叫びが重なる。
刃が甲殻に当たるたび、弾かれるように火花が散る。反動で手が痺れ、、隙を突かれた者が次々に倒れていく。
それでも、引くわけにはいかない。クリスは叫んだ。
「怯むな! 一斉にかかれ!」
魔物の背後に回り込んだ瞬間、クリスは足場を踏みしめ、一気に剣を突き立てた。
鈍い衝撃が返る。刃は甲殻に食い込み、緑に濁った液が噴き出す。
だが、魔物は怯むどころか、一瞬身をくねらせただけで、すぐに体勢を立て直した。まるでただのかすり傷とでも言わんばかりに、その動きに衰えはなかった。
鬱陶しい蝿を振り払うように鋭い前脚が空を薙ぎ、クリスの頭を掠める。背後の木々が真っ二つに折れた。跳ね上がる泥と血の匂いに包まれながら、男たちは必死に食らいついた。
突如、魔物の前脚が横薙ぎに振るわれた。クリスは咄嗟に剣を構え、その一撃を受け止めたが、轟く衝撃で全身が浮き上がった。
重力が一瞬消えたような感覚の中で、体が宙を舞い、背後の木に激突する。胸の奥で鈍い音がして、視界が一瞬白く染まった。
意識が薄れる中、魔物の鎌が振り下ろされるのが見えた。
その刹那。
風を裂く音が夜の静寂を破った。鋭い音とともに、魔物の鎌が弾かれる。宙を裂いて飛来した一本の矢。その先端には、青白い魔力の光が宿っていた。
「助かった、ライル……」
「はやく立て! 次は出来るか分からないぞ」
鋭く飛んでくる声に、クリスは地を這うように立ち上がった。剣を握る手に再び力を込める。
「ここで倒れたら──ミーシャとアランが──!」
脳裏に、ミーシャの穏やかな笑顔と、アランの無邪気に笑う顔が浮かぶ。あの温かな時間を、絶対に守らなければならない。その一心だけが、クリスの体を突き動かした。
痛む腕も、裂けた脇腹も意識の外に追いやる。全身に残った力を込めて、クリスは魔物に向かって突っ込んだ。
剣を振るうたび、甲殻が火花を散らして弾く。真正面からの一撃では通らない。ならばと、脇に回り込み、関節部を狙って斬りつけるが、鋭い足が間一髪でそれを防ぐ。
背後から、ライルの放った魔力のこもった矢が矢継ぎ早に飛んできて、魔物の動きをわずかに鈍らせる。連携を取りながら、少しずつ有利な位置を奪っていく。
気がつけば、立って戦っているのはライルとクリスの二人だけだった。他の男たちは負傷し、あるいは気絶し、あるいは息もなく地に伏している。
二人は互いに背を預けるように連携しながら、何度も打ち合い、擦れ違い、木々を盾にして身をかわす。魔物も疲弊してきている。しかし、クリスの体力もまた限界に近かった。
喉の奥から絞り出すような声とともに、クリスは岩を蹴った。体が宙を裂き、魔物の懐へ一直線に飛び込む。
それを待っていたかのように、大鎌が唸りを上げて迫る。風を裂く音が耳を貫く。
一瞬、時が凍りついた。
「《身体強化》!」
咄嗟に呪文を唱えた瞬間、淡い青白い光がクリスの全身を包む。周囲の音が遠のき、すべてがゆっくりと動いて見える。風が止まり、魔物の振るう大鎌の軌道すら、まるで水中を通るように滑らかだ。
その中で、クリスだけが加速する。強化された肉体が指先まで冴え渡り、感覚の一つ一つが研ぎ澄まされる。
刹那、体をひねり、回避の最小軌道を描くように滑り込む。風圧が頬を削り、すぐ後ろで木々が爆ぜる音が響いた。
目の前に現れたのは、喉元の一瞬の隙。
「そこだッ!」
重心を絞り込み、剣を一閃する。甲殻が軋み、濁った体液が弾け飛ぶ。刃は深く、正確に命の急所へとめり込んだ。
刃が深々と喉元を裂き、緑の液が噴き出す。
魔物の動きが止まる。甲殻の隙間から蒸気のような息が漏れ、次の瞬間、巨体が地響きを立てて崩れ落ちた。
ようやく、静寂が戻る。
クリスは膝をつき、肩で荒い息を繰り返した。
そのとき──。
「村が襲われてる!」
血相を変えた男が、暗闇の中から飛び込んできた。
「お前らが行ったあと、変なやつが急に来て暴れ始めたんだ! 助けてくれ!」
その一言で、疲労が一気に吹き飛んだ。
クリスは反射的に立ち上がり、胸を締めつけるような焦りに突き動かされて走り出す。
「クリス!」
背後からライルが何か叫んだが、その声はもう届かない。ただ前を、村を、ミーシャとアランのいる家を目指して駆けた。足元の土が滑り、何度も転びかける。それでも、立ち止まるという選択肢はなかった。
やがて視界に入ったのは、見慣れたはずの村とは思えぬ光景だった。
塀は破壊され、瓦礫と化した木片が道を塞ぐ。土煙がまだ空中を漂い、家々の壁には爪痕のような裂け目が走っていた。
地面には黒く焼け焦げた痕跡、魔物の暴走によるものか、あちこちで小さな火が燻っている。
誰かのうめき声がかすかに聞こえたが、姿は見えない。辺りには、人の気配よりも死の気配のほうが濃く満ちていた。
まるでそこだけが戦場だったように、村の中心部だけが無残に破壊されていた。
自宅が見えた瞬間、言葉を失った。
門の前には、縦に両断された人型のなにかの死骸が横たわっていた。あたりは血の匂いと鉄の匂いが入り混じっている。
「……誰がこれを?」
恐る恐る歩みを進める。すると、すぐに聞こえたのは、かすれた泣きじゃくるような声だった。
「ううっ……う、ああ……。母さん、母さん。」
揺らめくランプの光の中、そこにあったのは、胸に裂傷を負って倒れているミーシャと、その胸に縋るように泣きながらしがみついているアランの姿だった。
「アラン! ミーシャ!」
声がうわずる。駆け寄る足がもつれそうになる。
ミーシャの胸は大きく裂け、血がとめどなく流れ続けている。
だがその傷に、アランの小さな手から淡い光が注ぎ込まれていた。その光は、緑色に淡く輝いていた。それは、“ヒール”と呼ばれる初歩の治療魔法。魔力の制御を習得した者にしか使えないはずの魔法。
「父さん……母さんが……!」
震える声。顔は涙と血でぐしゃぐしゃになっている。
それでも、手は止めない。ただただ、必死に母を救おうと魔法を放ち続けていた。
「アラン……魔法を……?」
言葉が喉に詰まる。
適切な魔法の動作。正確な制御。二歳にも満たない子ができるはずがない。
だが、必死に助けを求めるようにこちらを見つめるアランの目を見た瞬間──胸の奥に広がったのは、恐れではなかった。
子どもが、俺たちの子どもが、母親を救おうとしている。
その事実だけが、強く、まっすぐに心を打った。
すべての理屈が、静かに崩れていく。
「……もう大丈夫だ、アラン。あとは父さんに任せろ」
その一言に、アランは安心したように小さくうなずき、そのまま意識を失って、ぐったりとクリスの腕に倒れ込んだ。
クリスはその小さな体を抱きしめる。
小さくて、軽くて、でも確かに──あたたかい。
──お前が何者でもいい。たとえ転生者ってやつでも。お前は、間違いなく俺の息子だ。
クリスは、そっとアランの頭を優しく撫でた。そして、ミーシャのもとへとにじり寄る。息子が繋いだ母親の命、今度は父親の手で。彼女を救う番だった。
朝焼けが、瓦礫と灰に埋もれた村をそっと照らし出していた。
崩れた屋根の間から、煤けた木材が突き出ている。畑は踏み荒らされ、地面のそこかしこに魔物の爪痕が残されていた。燃え残った家屋の柱からは、まだ微かに煙が立ちのぼり、夜の名残を引きずるように空へ消えていく。
辺りに漂うのは、血と焦げの匂い。
静寂を破るのは、瓦礫の山を掘り返す音と、どこからか聞こえてくる低いうめき声だけだった。
だが、その地獄の中で、ひとつの奇跡があった。
ミーシャの命が、助かったのだ。
アランが見せた奇跡のような治癒の魔法と、クリスの必死の応急手当が功を奏し、あのとき裂かれた胸はゆっくりと、しかし確実に癒えていった。
まだ横になってはいたが、彼女は確かに、生きていた。
その枕元に、アランがずっと寄り添っていた。
小さな手でミーシャの指を握り、何度も確かめるように、その温もりを感じ続けている。
瞳の奥には疲労と安堵、そして何かを守り抜いたという決意が宿っていた。
だが、村全体に目を向ければ、現実は無慈悲だった。
生き残った村人は、ほんの一握り。井戸は崩れ、家畜はほとんど死に絶え、食糧も資源も無くなっていた。
どれだけ踏ん張っても、ここで再び暮らすことは、もう叶わない。
「……この村は、もう終わりだな」
誰かがぽつりと呟いたその言葉に、誰もが沈黙で同意を示した。
クリスは、かろうじて形を保った家の柱にもたれかかり、朝焼けに煙る空を仰いだ。
指の隙間に感じるのは、使い古した剣の柄の感触と、傍らで眠る家族の微かに伝わる体温だけだった。
そのとき、肩にぽんと手が置かれた。
振り返ると、そこにはライルが立っていた。片腕を血のにじんだ包帯で固定し、顔も髪も煤と土にまみれていたが、それでも彼は、変わらぬ軽やかな笑みを浮かべている。
「よお、クリス」
「……ライル」
「大変なことになったな」
「ああ……まさかたった一晩でこうなるとは」
声にこもる痛みと悔しさは、言葉以上に重かった。
「お前ら、行くあてあるのか?」
「いや……俺はここで生まれて、ここで生きてきた。ほかに行ける場所なんて、ない」
クリスの声は乾いていた。希望の光が遠く、どこにも向けられない思いだけが重く胸に沈んでいた。
「ならさ、王都に行ったらどうだ?」
「……え?」
「アランくん、誰にも教わってないのに、ヒールが使えたんだろ?」
「ああ、ミーシャの命を救ってくれた」
「だったらなおさらだ。王都には、ちゃんと魔法を学べる場所がある。魔法学院だとか、研究機関とか。そういうとこで、アランをちゃんと育ててやれ」
クリスは黙ったまま、ミーシャの寝顔を思い浮かべた。
まだ目を閉じている彼女の手は冷たく、でも確かに生きていた。
そしてその命を繋いだのが、あの幼い息子だったという事実は、彼の胸の奥を静かに震わせた。
「……でも、そんな金うちには」
「お前、今まで狩った魔物の素材がまだ残ってるだろ。あれを売れば、相当な金になるはずだ」
「いや、そんな高く売れないだろ」
「売れる。……俺が保証する」
ライルの口調には、妙に重みがあった。まるで、すでにその価値を知っているかのように。
その目に、ただの楽観ではない何かを見て、クリスは言葉を失った。
しばらく沈黙が流れたあと、ライルは優しく語りかけるように言った。
「いつか言おうと思ってたんだ。アランくんの才能は……こんなところにしまっておくには勿体なさすぎる。あの子には、もっと広い世界を見せてやるべきだ」
胸の奥に、確かな言葉が突き刺さった。
このままここにいさせてはいけない──。
その想いが、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
「……そうだな。そうしよう」
そう、これは旅立ちのときだ。
そして数日後。
ミーシャの容体が安定し、アランも元気を取り戻した朝。
クリスたちは、荷車に荷をまとめ、小さな丘の上に立っていた。
風が吹くたびに、瓦礫に覆われたかつての村が揺らぎのように見えた。
それでも、空はどこまでも高く、雲は変わらず流れていた。
「じゃあ、元気でな。王都に行っても、無理すんなよ」
ライルの声に、クリスは笑って手を振り返した。
「お前もな。落ち着いたら、手紙出す」
「おう。楽しみにしてるぜ」
ふと見れば、アランが丘の向こうの道をじっと見つめていた。
まだ幼い瞳の奥に、確かな意志の光が宿っている。
こうして──彼らの、新しい旅が始まった。
──そして、これは当人たちの知らぬ真実。
あの夜、村を襲った魔物は、ただの獣ではなかった。
その正体は、魔王に仕える“四天王”の一角──《魔獣使いのクロウ》。
王国騎士団の精鋭が束になっても敵わぬとされる、恐るべき存在。
だが、それを討ち果たしたのは、名もなき村の名もなき一家だった。
詠唱なしでは魔法が使えないとされるこの世界で、無詠唱で火を操ってみせた母・ミーシャ。
誰でも使える初級魔法《身体強化》だけで、四天王の従魔を真正面から倒した父・クリス。
そして、まだ幼いながら四天王本人を屠った転生者・アラン。
この一家は、もはや“普通”ではなかった。
そして、その真実を唯一知る者がいた。
──ライル。
「まさか、クロウ様がやられるとはな……」
村を見下ろす丘の上で、ライルは独りごちる。
その手で顔を覆うと、額から一対の角が現れた。
彼の正体は、魔王軍の魔族。潜入任務を受けて、長年村に潜んでいた密偵だった。
はじめは、ミーシャとクリスの力に気づいただけだった。しかし、ふたりの間に生まれたアランが、さらに“異常”であると知ったとき──事態は変わった。
魔王軍は、脅威の芽を摘もうとした。
クロウは、町の一つや二つであれば問題なく殲滅できる程の強さを持つ配下の魔獣を差し向けたが、それらはクリスに退けられた。
そして現れたのが、《魔獣使いのクロウ》本人──だった。
……だが、そのクロウさえも倒された。
ライルは肩をすくめ、空を仰ぐ。
その瞳には、どこかやるせなさと、わずかな誇らしさが混じっていた。
「魔王様。クリスを助けたこと、感謝してくださいよ。もしあそこであいつが死んでいたら、アランくんがどうなってたか」
誰にともなく呟いたその声は、風に溶けていった。
「それに、魔王領に近いこの場所から、あの怪物たちを遠ざけたことにもね」
静かに目を伏せ、ライルはその夜の記憶を振り返る。
あのとき、クリスがクロウの従魔に殺されかけた瞬間、矢を放ちって助けたのは他ならぬライルだった。
だが、それは情けではない。
その時点で、既に勝負は決していたのだ。クロウは、アランに敗北していた。
ライルが矢を放ったのは、ただアランと魔王軍の間に“無意味な遺恨”を残したくなかったからだ。
その後に何が起こるかを、誰よりも理解していたからこその助けだった。
「魔王軍に幸あれ、ってな」
そしてぽつりと、どこか投げやりに笑った。
「あー。マジで田舎帰って畑耕そ」
転生者には、怪物を。
それが、転生者の親のすゝめ。