第98話「文化祭②」
校舎の窓の外が、少しだけオレンジ色を帯びはじめたころだった。
人の波も昼間より落ち着いて、廊下には焼きそばとポップコーンと、どこか紙とインクの匂いが混じった“文化祭の終わりかけ”の空気が漂っている。
猫耳カチューシャを外して、うちのクラスの教室――即席喫茶の片隅で、わたしはストローをくるくる回していた。
「ふぅ……」
思わず漏れたため息に、向かいでポテトをつついていたゆはりんが、ぱちりと瞬きをした。
「かおりん、お疲れさま、です……」
「ゆはりんこそ。今日一日、猫耳メイドさん、がんばってたじゃん」
「か、かおりんが“似合う”って言ってくれたから……がんばれました……」
そう言って、恥ずかしそうにスカートの裾を指でいじるゆはりん。
この子はほんと、何気ない一言でズルいくらいこっちの体温を上げてくる。
「片づけ始まるまで、ちょっと休憩って感じかな」
「後夜祭は、グラウンド、でしたっけ」
「そうそう。キャンプファイヤーと生演奏と、定番のやつ!」
そこへ、教室のドアが「ガラッ」と勢いよく開いた。
「かおりん、ゆはりん。グラウンドの音チェック始まったって。……それと」
奈々りんが、手にスマホを持ったまま近づいてくる。
いつも通りの落ち着いた顔……だけど、口元がわずかに緩んでいた。
「“その二人”、もうすぐ昇降口着くらしい」
「えっ!」
心臓が、どくんと跳ねた。
「しおりんと、ひかりん……ですよね」
ゆはりんが、おそるおそる確認する。
「うん。『電車ぎりぎりだったけど間に合った! 今から校門突撃~☆』って。最後の絵文字はひかりの文だね」
「うわぁ……目に浮かぶ……」
わたしは思わず笑って、席を立った。
エプロンの紐をほどきながら、胸のどこかがぞわぞわしている。
「行こっか。迎えに」
「はいっ」
「……ついでに、しおりんが迷子にならないようにね」
「それ迷子になるの、ひかりんのほうじゃ……」
三人で顔を見合わせて、くすっと笑う。
喫茶の教室をあとにして、廊下を駆け出した。
*
昇降口は、ちょうど帰り始めた人たちでざわついていた。
しかし、その人だかりの向こうに――見慣れたシルエットが、すぐにわかる。
「かおりーん! 我ら降臨!!」
ひときわ大きな声が響いて、人の輪が割れた。
紺色のカーディガンにデニムスカート、派手めなトートバッグ。大学生仕様の、でもどこか変わらないテンション高めの女子――ひかりん。
その隣には、落ち着いた色のワンピースにショルダーバッグ。
髪をゆるくまとめた、わたしの自慢のお姉ちゃん――しおりんが、少し照れたように手を振っていた。
「し、しおりん!」
気づけば、わたしは小走りで駆け寄っていた。
「かおりん、文化祭委員長の顔してる~。えらいえらい」
「委員長じゃないし! 普通のクラスメイトだし!」
そう言いつつ、しおりんに抱きつく。
ほのかに香る柔軟剤の匂いと、安心する体温。
高校に来てくれたのは一年ぶりくらいかもしれない。
「かおりーん! わたしは!? お出迎えハグは!?」
「ひかりんはあとで」
「えーん!」
ひかりんがオーバーに泣き真似をして、わたしの肩をとんとん叩いた。
その後ろから、おずおずと顔を出す影がある。
「……ゆはりん、奈々ちゃんも来てたんだ」
しおりんの視線が、わたしたちの後ろにすっと向く。
「こんにちは」
「お久しぶりです……!」
奈々りんが軽く頭を下げ、ゆはりんが胸元でトートを抱えたまま会釈する。
なんだろう、三人とも、さっきまでより少しだけ表情が固い気がする。
(……そりゃそうか。三角とも四角ともよくわからない関係の中心人物が二人、まとめて来たんだもんね)
そんなことを思っているうちに、ひかりんが両手を広げた。
「さーて! 高校文化祭ってやつ、案内してもらいますかね!」
「はいはい。じゃあまずはうちのクラスの喫茶から!」
わたしが先頭に立つと、しおりんがすっと隣に並んで歩調を合わせてくる。
自然に頭をぽん、と撫でられて、ちょっとだけ胸がじんわりした。
*
「――で、これがうちの猫耳喫茶です」
教室の前まで来ると、まだ営業中の札が下がっていた。
カーテン越しに灯りがこぼれて、楽しそうな声が漏れている。
「うわ、看板かわいいね~。『にゃんにゃんカフェ』って書いてある」
「名前、決めるとき一瞬揉めたけどね……」
ひかりんがきょろきょろと見回す。
「かおりんもゆはりんも、ここでメイドやってたの?」
「い、一応……」
「やってました……」
ゆはりんが、耳まで赤くして俯いた。
その肩を、奈々りんが「ふっ」と意味ありげに見つめる。
うん、その視線はわかる。わたしも見たかった、ゆはりん猫耳姿……!
「今はもう着替えちゃったの?」
「もうすぐ片づけだから、さすがにね」
「残念~。じゃあさ、写真見せてよ。あとででいいからさ」
ひかりんの軽い一言に、ゆはりんが「ひぃ」と小さく悲鳴を上げる。
それを見てしおりんがくすっと笑い、わたしも釣られて笑った。
「とりあえず中入る?」
「うん、ちょっとだけお客さんにならせてもらおうかな」
教室のドアを開けると、クラスメイトたちから一斉に視線が飛んできた。
その中で、特に仲のいい女子が「うわ! 噂のお姉ちゃん来た!」と叫ぶ。
「えっ、噂って何の?」
「“超美人のお姉ちゃんがいるらしい”って、前から聞いてたの」
「やめてよ、ほんとに……」
しおりんが困ったように笑って、ひかりんが横から胸を張る。
「そうです! しおりんは我らが座道部の象徴、美しき先代部長です!」
「紹介の癖が強い……」
わいわい盛り上がる中、とりあえず空いている席に五人で座った。
クラスメイトが喜々としてメニューを持ってくる。
「しおりん、なに頼む?」
「んー、ココアかな。ひかりんは?」
「メロンソーダ! テンション上げてこ!」
そんなやりとりをしながら注文していると、向かいのゆはりんがそわそわと落ち着かない様子で手を組んでいた。
「ゆはりん、どうしたの?」
「い、いえ……なんか、夢みたいだなって……」
「夢?」
「高校の文化祭に、お姉さんたちが来て、一緒にお茶して……座道部のみんなが同じテーブルにいるの、なんか、すごく……」
言葉を探すみたいに、ゆはりんは視線をくるりと巡らせる。
しおりんと目が合うと、ふわっと笑って会釈して、すぐにまた視線を落とした。
「……あったかい、です」
その一言に、胸の奥がきゅっとなった。
(わかる。わたしも、ちょっと夢みたいだ)
数年前までは、こうやってしおりんと教室でお茶して。
ひかりんが騒いで、奈々りんが呆れた顔して、その横でゆはりんが笑ってて。
現実にはありえない並びなのに、目の前では当たり前みたいな顔をしている。
「うん、いいじゃん。夢みたいな現実ってやつ」
しおりんが柔らかく言って、ストローの包み紙をくるくる丸めた。
「写真、撮る?」
奈々りんが、ぽつりと提案する。
「撮ろう撮ろう! はい、スマホ出して~!」
ひかりんの号令で、テーブルの上には全員分のスマホが並んだ。
誰のを使うかをじゃんけんで決めて、結局わたしのスマホで撮ることに。
「かおりん真ん中ね」
「え、わたし?」
「当然だろ、主役」
ひかりんが肩をぐいっと引き寄せる。右側にはしおりんが自然に座り、左には奈々りん。
ゆはりんはしおりんの隣で、そっと身を寄せてくる。
「はい、いきますよ~。3、2、1――」
スマホのタイマーが点滅し、わたしたちは勢いでぴったりくっついた。
頬と頬が触れ合う距離。肩と肩がぶつかる、ぎゅうぎゅうの密度。
「――0!」
パシャッ、と小さなシャッター音。
ほんの一瞬のことなのに、心臓の鼓動はしばらく落ち着かなかった。
「見せて見せて!」
撮れた写真をみんなで覗き込む。
中央でわたしが笑っていて、その両脇でしおりんとひかりんがピースして。
奈々りんは少し照れたように、でも穏やかな顔で笑い、ゆはりんは頬をほんのり赤く染めながら口元を緩めていた。
「……なんか、修学旅行の写真みたい」
「うん、“座道部修学旅行 in 文化祭”って感じ」
しおりんがそう言って笑う。
胸の奥が、じんわりと温かくなっていった。
*
喫茶をあとにして、わたしたちは校内をぐるぐる見て回った。
廊下の展示を見て、軽音部のライブを覗いて、謎の占いコーナーでひかりんが「恋愛運爆上がり」とか言われて照れて。
そのたびにわたしは笑ったり、からかったり、ちょっとだけドキッとしたり。
「ね、かおりん」
階段を下りる途中、しおりんが小声で話しかけてきた。
「なに?」
「さっきの写真さ、わたしのスマホにも送って」
「うん、あとでまとめて送るよ」
そう答えると、しおりんはふっと表情をゆるめる。
「……かおりん、いい顔してるからさ。今」
「え?」
「高校のかおりんも、今のかおりんも、どっちも好きだなって思った」
あっさりそんなことを言われて、言葉が詰まる。
階段の途中で立ち止まりそうになったのを、奈々りんの視線に気づいて必死でこらえた。
(ずるい。たまに、ほんとずるい)
でも――そういうところが、昔から好きだった。
*
日がとっぷり暮れる頃、校内放送が流れた。
『まもなく後夜祭を開始します。参加希望の生徒は、グラウンドに集合してください』
グラウンドには、すでにたくさんの人が集まっていた。
中央には大きなキャンプファイヤーの準備がしてあって、その周りを取り囲むように輪が広がる。
「うわ、いいねこれ。ザ・青春って感じ!」
「ね」
体育館シューズを砂まみれにしながら、わたしたちも輪の中に加わった。
火が点けられると、ぱちぱちと音を立てて炎が立ち上る。
オレンジ色の光が、全員の顔を少しだけ非日常に染めた。
隣を見ると、ゆはりんが炎をじっと見つめている。
その横顔を、奈々りんが静かに見守っている。
さらにその隣にはしおりんとひかりん。自然に輪がつながるように、手の距離が近づいていた。
「……ねえ、かおりん」
ふいに、ゆはりんが袖をつまんでくる。
「ん?」
「今日、一緒にいられて……嬉しいです」
炎の光が、ゆはりんの瞳をきらきら照らしていた。
「……わたしも。来てくれて、ありがとね」
「えへへ……」
そのとき、反対側でひかりんが「ねねね!」と急に声を上げた。
「みんなで手つなごうぜ! 輪になって踊るやつとか、青春もののアニメっぽく!」
「唐突だな……」
奈々りんが呆れたように言うけど、どこか楽しそうだった。
「いいじゃん。こういうときくらい、ちょっとくらいベタでも」
しおりんが、ひかりんの提案に乗る。
「じゃ、ほら」
自然な流れで、わたしは左右に手を差し出していた。
片方にはゆはりんの、小さくて柔らかい手。
もう片方には、奈々りんの、しっかりした温かい手。
少し遅れて、奈々りんの向こうでひかりんとしおりんの手がつながる。
「……これ、なんか」
「ハーレム円陣?」
「うるさいよ、ひかりん」
炎の向こうで誰かが笑っている。
わたしたちも、それにつられるみたいに笑った。
音楽が流れ始め、周りの生徒たちが少しずつ輪になって揺れ出す。
わたしたちも、炎を中心にゆっくり一歩ずつ足を運んだ。
ぎこちなくて、バラバラで、でもなんとなく合っているリズム。
手の温度だけが、確かで、優しくて、胸の奥に残っていく。
(ああ――)
ふと、思う。
(こういうのが、きっと“青春”ってやつなんだ)
誰かひとりを選ぶことなんて、たぶんまだできない。
ゆはりんのことも、奈々りんのことも、お姉ちゃんのことも、ひかりんのことも。
全部まとめて、今はただ、大切で、愛おしい。
炎のはぜる音と、音楽と、みんなの笑い声。
その全部を、わたしは胸いっぱいに吸い込んだ。
*
後夜祭が終わる頃には、空には星がうっすらと浮かび始めていた。
校舎の明かりがぽつぽつ残ったグラウンドの隅で、わたしたちは名残惜しそうに並んで座っていた。
「そろそろ電車やばい?」
「うん、このあと一本逃したら、帰りめんどくさいかも」
しおりんがスマホの時刻表を見ながら、少し残念そうに笑う。
ひかりんは寝転びながら星を見上げて、大きく伸びをした。
「いやー、高校文化祭、良いね! まじでタイムスリップした気分!」
「ひかりん、ずっと騒いでたもんね」
「騒ぐのが存在意義だから!」
そんなやりとりを聞きながら、奈々りんが「……ね」と小さく呟く。
「また、来てほしい」
その声は、わたしに向けられたものか、しおりんたちに向けられたものか、きっと両方だった。
「うん。来年も文化祭あるし、その前にだって遊びに来てよ」
わたしも素直に言葉を返す。
「行く行く! なんならわたし、模擬店でタピオカ屋やるわ! “座道式タピオカ”!」
「座りながら飲んだら、ただの腰痛コースじゃん……」
ひかりんの適当な宣言に、全員が笑った。
その笑いが少し落ち着いたころ、しおりんが静かに立ち上がる。
「……約束しよっか」
夕方より少し冷たくなった風が、ワンピースの裾を揺らした。
「来年も、その次も。わたしたち、たぶんそれぞれ忙しくなるけどさ。
どこかでちゃんと集まって、“座道部”ごっこでも、“文化祭ごっこ”でもいいから――一緒に笑う時間、つくろ?」
それは、なんでもないことを言うみたいな声だった。
でも、わたしの胸には、ぎゅっと深く突き刺さる。
「……うん。約束」
わたしが頷くと、ゆはりんも、奈々りんも、ひかりんも、順番に「約束」と口にした。
星空の下で交わした、小さな誓い。
そのあと、校門までの道を、わたしたちは並んで歩いた。
手はつながない。もうさっき、散々つないだから。
でも、肩と肩が自然に触れる距離を保ちながら。
校門のところで、しおりんがくるりと振り返る。
「かおりん」
「なに?」
「今日の主役、ちゃんと楽しそうでよかった」
そう言って、わたしの頭をぽんぽんと撫でたあと――ふっと笑う。
「やっぱりさ。かおりんが笑ってるの、いちばん好きだな」
炎じゃなくて、今度は街灯の光がその横顔を照らしていた。
心臓がまた、どくんと跳ねる。
「……抜け駆け禁止」
ぽつりと、奈々りんがつぶやく。
「えっ?」
「わたしも、かおりんの笑顔、好きだから」
ゆはりんも、小さく手を挙げる。
「わ、わたしも……です」
「はいはいはい! わたしも!!」
ひかりんが元気よく叫んで、全員の視線を集める。
しおりんは一瞬目を丸くしたあと、ぷっと吹き出した。
「じゃあ、みんなで守ろっかね。かおりんの笑顔」
「なにそれ、責任重大なんだけど……!」
でも、悪くない。
むしろ――ちょっとだけ、泣きそうなくらい嬉しかった。
電車の時間が迫ってきて、しおりんとひかりんが駅の方向へと歩き出す。
わたしたちは校門の前で手を振りながら、それを見送った。
やがて二人の姿が角を曲がって見えなくなると、風の音だけが残る。
「……帰ろっか」
奈々りんが言う。
「はい……」
ゆはりんが頷く。
「うん」
夜の校舎を振り返る。
さっきまで明かりがともっていた窓も、少しずつ暗くなっていく。
(この景色を、きっとわたしはずっと忘れない)
胸の奥で、そっとそう思った。
秋の夜風が制服の袖を揺らす。
わたしはその中に、炎の匂いと、笑い声の残り香と、少しだけ甘い、百合みたいな気配を感じていた。




