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第97話「文化祭①」

 十月の風は、夏の名残りをかすかに残していた。

 朝から校舎の中はざわざわしていて、どこからかカレーの匂いと音楽が混じり合って流れてくる。

 わたし――かおりんは、クラスの出し物「喫茶・桜庵」のカウンターで、紅茶を入れていた。


「いらっしゃいませー! 本日のおすすめは、焼きたてクッキーと抹茶オレです!」


 言いながら、笑顔を作る。

 それでも、心の奥は少しだけ落ち着かない。

 ――理由は、ひとつ。


「かおりん、砂糖は何杯?」


 柔らかい声が、すぐ横から聞こえた。

 振り向くと、ゆはりんが紅茶のカップを両手で抱えて立っていた。

 淡いピンクのエプロン。髪に結んだ白いリボンが、照明の光を受けてふわっと揺れる。


「あ、二杯。ありがとう」

「了解です~」


 彼女の笑顔を見るたびに、胸の中がじんわり温かくなる。

 ――ゆはりんがいると、世界の色が少し優しく見える。


 だけど、最近はそれだけじゃない。

 笑顔を見るたびに、心臓が少し速くなる。

 言葉にできない“何か”が、胸の奥で小さく弾ける。


「かおりん、リボンずれてるよ」

「えっ、どこ!?」

「ここ」


 ゆはりんが、そっと指先でわたしのリボンを直す。

 その指が喉もとをかすめた瞬間、思わず息が止まった。


「……ありがとう」

「ううん、こちらこそ。かおりん、今日すごく似合ってるよ」


 その一言で、心の中に小さな波が立った。


 昼過ぎ。

 客足が落ち着いて、交代の時間。

 外から吹き込む風が少し冷たくなって、カーテンがふわりと揺れた。


「疲れたねぇ」

「でも楽しいね」


 ゆはりんが椅子に座って、紙コップのココアを飲む。

 ふと見ると、唇に少しだけ泡がついていた。


「ゆはりん、ここ」

「えっ?」

「泡、ついてる」


 わたしは指先でその泡を拭ってあげた。

 指に少しだけ甘さが残る。

 ゆはりんは一瞬きょとんとして、それから顔を真っ赤にして下を向いた。


「……かおりん、そういうの、反則です」

「えっ、な、なにが!?」

「もう、わかってるくせに」


 そう言って、彼女は笑った。

 胸がドキンと鳴って、何も言えなくなる。


 そのあと、教室のドアが開いて、奈々りんが入ってきた。

 制服のジャケットを軽く脱いで、腕まくりしている姿が大人っぽくてかっこいい。


「やっぱりここにいたか」

「奈々りん! 来てくれたんだ」

「当たり前。喫茶“桜庵”の看板娘を見に来たんだよ」


 さらりと言うその声に、鼓動がひとつ高くなる。

 奈々りんは、いつだって落ち着いていて、頼りになる。

 けれど今日は、どこか違う――視線が少しだけ真剣だった。


「お客さん、減ったなら、少し休め。代わりに私が立つよ」

「え、いいの?」

「まあ、一杯くらい淹れてみたかったし」


 奈々りんがポットを持つ手の動きが、無駄なく美しい。

 注がれる紅茶の音が、やけに心地よく聞こえた。


「ねぇ、奈々りんって、家でも紅茶淹れるの?」

「うん。落ち着くんだ。香りを嗅いでると、嫌なことが全部流れていく気がして」

「……わかるかも」


 奈々りんが、少しだけ笑った。

 その横顔が、光に照らされて穏やかに輝く。


「かおりん」

「なに?」

「……今日、ほんとに綺麗だよ」


 思わず息をのんだ。

 返事をしようとした瞬間、ゆはりんの声が割って入る。


「奈々りん、ずるいです! そういうの先に言わないでください!」

「え?」

「かおりんに“綺麗”って言うの、私も言おうと思ってたのに!」


 二人の言い合いに、わたしは思わず笑ってしまった。

 でも――胸の奥がくすぐったいように、痛い。


 夕方。

 喫茶の片付けを終えて、ひとりで屋上に出た。

 西の空がオレンジ色に染まっていて、風が髪をくすぐる。


 そこに、ゆはりんの声がした。


「かおりん、ここにいたんですね」

「うん。風が気持ちよくて」


 ゆはりんが隣に立つ。

 少しの沈黙のあと、彼女がぽつりと言った。


「今日、楽しかった。でも……ちょっと、胸が苦しかったです」

「どうして?」

「かおりんが、奈々りんと話してるの見て……変な気持ちになって」


 その言葉に、心臓が跳ねた。

 風がふっと強く吹いて、スカートの裾が揺れる。


「……ゆはりん」

「わたし、かおりんが誰といても笑っててほしいって思ってたのに。

 でも、奈々りんと笑ってる顔、見たら――なんか、悔しくなっちゃって」


 わたしは息を吸い込む。

 冷たい風が胸の奥まで入り込んで、言葉が震えた。


「ゆはりん、それって……」

「たぶん、好きなんです。

 かおりんのこと、“友達”以上に」


 夕陽の光が、彼女の頬を染めていた。

 わたしは何も言えず、ただその横顔を見つめる。


「びっくりさせちゃいましたね……」

「ううん」


 ――びっくりなんて、とっくにしてた。

 ずっと前から、ゆはりんを見るたびに心が揺れてた。

 でも、その気持ちを口に出すのが怖かっただけ。


 言葉にならない想いが、風の音に溶けていった。


 やがて、校舎の向こうから花火の音が響いた。

 パンッ、パンッ、と小さな光が夜空に咲く。


「綺麗……」

「うん」


 ゆはりんがそっと手を伸ばして、わたしの指先に触れた。

 そのぬくもりは、秋の空よりもやさしかった。


 ――けれど、わたしたちの知らないところで、

 この夜の終わりに“もう一つの風”が近づいていた。


 後夜祭のころ、校門の前に二つの影。

 大学帰りのしおりんと、隣で笑うひかりん。


 その出会いが、

 この文化祭の続きを、少しだけ違う色に染めていく。

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