第96話「雨宿り」
雨は、なんの前触れもなく降り出した。
講義棟を出た瞬間、空がぱんっと弾けたみたいに冷たい粒が肩口を打つ。わたしはポニーテールを押さえながら、空を仰いだ。
「うそでしょ、晴れの予報だったじゃん……!」
「しおりん、こっち!」
正門脇の屋根の下で手を振るひかりん。いつもみたいに明るい笑顔。だけど今日は、その笑顔の向こうに、豪雨のカーテンが波打っている。
「傘、持ってきた?」
「……持ってない」
「よし、わたしの家、近いからダッシュ! 座道の極意その十二、濡れる前に濡れない!」
「意味のない極意きた!」
わたしの抗議は雨音にさらわれ、二人で駆け出した。キャンパスのタイルは滑りやすくて、手をつないだまま半ば引きずられる。ひかりんの手は、笑っちゃうくらいあったかい。
角を二つ曲がって、横断歩道を渡って、古めの煉瓦造りのマンションへ。エントランスに飛び込んだ瞬間、全身の力が抜けた。
「はーっ、助かった……」
「しおりん、びしょびしょじゃん。早く上がって、乾かそ!」
エレベーターで五階。降りた先の廊下は静かで、遠くの雨の反響だけが擦りガラス越しに伝わってくる。ドアが開くと、ふわっと甘い香り――シャンプーと柔軟剤を混ぜたみたいな、ひかりんの家の匂いが広がった。
「おじゃまします」
「どうぞー。スリッパそこ。あ、タオル! これ使って!」
渡された真っ白なタオルを頭にかぶって、ごしごし拭く。頬をこすると、柔らかくてちょっとだけひんやり。思わず目を閉じる。
「服どうする? 乾燥機回すから、替え持ってくる」
「えっ、いいよ、そこまでしてもらうのは……」
「なに遠慮してるの。風邪ひいたら座道に支障が出る。極意その十三、健康第一」
さっきから極意が便利すぎる。
ひかりんは奥へ走り、戻ってきたと思ったら、オーバーサイズのパーカーを胸に抱えていた。淡いグレー、胸元に小さく星の刺繍。
「はい、これ貸す!」
ひかりんが差し出したのは、彼女がよく着ているグレーのパーカー。袖口がふんわりしていて、触るとちょっと柔軟剤の香りがした。
「わ、ありがと……これ、ひかりんの匂いする」
つい口に出してしまって、顔が熱くなる。
「え? なになに、しおりん、それ、フラグ?」
「ち、違うから!」
二人で吹き出す。笑うと、雨音まで軽くなるようだった。
ひかりんの家のリビングは広くて、白いソファと観葉植物、それに座道部の賞状が額に入って飾ってある。
「ひかりんの家、ほんとにキレイだね」
「でしょ? 極意その十四、“片付けは美の礎”!」
「……また増えてる」
そんなやりとりをしながら、わたしたちはお互いの髪をドライヤーで乾かした。温風の音のなかで、ひかりんがわたしの後ろ髪をすくように手ぐしを入れる。
「しおりんの髪、つやつやだね。これ、風の抵抗ゼロだよ」
「風速計じゃないんだから!」
「いや、物理的に見ても座道的に見ても完璧!」
わざと大げさに言うから、笑いながら肩を小突く。ひかりんが楽しそうに笑い返す。目がまぶしくて、わたしの心臓がトクンと跳ねた。
「よし、温まったところで、お菓子タイム!」
テーブルには紅茶とクッキーの缶。香りのよいアールグレイが湯気を立てている。
「しおりん、レモン入れる派?」
「うん、あ、でもミルクティーも好きかも」
「じゃあ、両方試そ。実験、実験!」
理系のノリでカップを並べ、ふたりでティータイム。ひかりんがひと口飲んで、「あまっ、幸せ!」と笑う。その笑顔が、まるで午後の陽射しみたいに明るい。
話題は大学の授業のこと、座道部のネタ、先生の口癖……どれもくだらないのに、どうしてこんなに楽しいんだろう。
ふと、雨の音が優しくなった。外では小鳥の声がかすかに混じって聞こえる。
「ねえ、しおりん」
「ん?」
「今日、雨降ってラッキーかも」
「どうして?」
「だって、こうやって一緒にいられるじゃん」
その言葉に、胸がきゅっと鳴る。
「……そうだね。晴れてたら、まっすぐ帰ってたもん」
「うん。神様の座道だよ、これは」
「そんなの聞いたことない!」
「新しい極意、十五番目。“雨の日に心を洗う”」
わたしは笑いながら、紅茶をもう一口。雨の音が、まるで拍手みたいにやさしく響いた。
そのあともふたりでゲームをしたり、動画を見たり。ひかりんが突然「ねえ、スピードやろう!」とトランプを取り出したときは、
「ひかりん、また勝負ごと!? この前も負けたのに!」
「今度はハンデあげる。勝ったら、クッキーもう一枚!」
「安っ!」
「しおりんは食い意地で強くなるタイプだと思う」
「ひどい!」
テーブルの上でカードが弾け、ふたりの指が重なる。
「あっ、ごめん!」
「い、いいよ! これもスピードの極意……!?」
「なんでも極意にするな!」
カードが散らかって、笑い声が響く。雨の午後の部屋が、まるで小さな世界になったみたいだった。
やがて、ひかりんがふと窓の外を見て言う。
「ねぇ、雨、止んだみたい」
「ほんとだ」
ガラスに残った雫が光を反射して、小さな虹みたいにきらきらしてる。時計を見たら、もう夕方の五時。
「そろそろ帰るね」
「うん。駅まで送るよ!」
「いいよ、濡れないし」
玄関まで来て、靴を履こうとしたとき、ひかりんがぽつりと言った。
「ねぇ、また雨の日に来てよ」
「え?」
「晴れの日もいいけどさ、雨の日って、なんか落ち着くんだよね。しおりんといると、余計に」
その笑顔がまっすぐで、胸が少しだけ熱くなる。
「……うん。たぶん、また降る気がする」
「そのときは、傘忘れてね?」
「わざと忘れるのも座道の極意……?」
「座道その十六、“偶然を楽しむ”!」
ふたりで笑い合う。ドアを開けた先、夕立の匂いが空に溶けていた。
わたしは軽く手を振って、振り返る。ひかりんはドアのところで、まだ笑っていた。
――雨の日の午後。
きっと、また降る。
そしてきっと、また彼女の家に行くだろう。




