第92話「スピード③」
三本目は、序盤から互いに遠慮が消えた。
カードの置き音が速い。めくる音も速い。
“勝ちたい”が、ちゃんと表に出ている。
でも、それがぶつかってイヤな感じにならないのは、たぶん信頼してるからだ。
「スピ――」
「どっち!?」「同時!」
一瞬の審判は引き分け。笑いに流す。
テーブルの上には、真剣と笑顔が同居している。
家の静けさはそのまま。外の蝉は少しだけ声を弱めた。
「……7!」
「6!」
「5!」
「4!」
二人の声が重なる。
数字の階段をお互いに踏みあって、降りていく。
速度が上がると、世界がカードと手だけになる。視界が狭くなって、でも気配だけはよくわかる。
たとえば、かおりんが次にほしがってるカード。
たとえば、わたしの息が少し上がり始めたこと。
たとえば、テーブルの下で、互いの足の甲がまた当たって、今度はどちらも退かないこと。
「――スピード!」
ラストのラスト、同時のコール。
判定は……わたしのほうが一瞬早かった。
かおりんは、口を小さく“へ”にしてから、ふっと笑った。
「負けたー。くやし」
「いい勝負でした」
「ほんとね。で、お願いは?」
二回目のお願い。
迷ったのはほんの一瞬だった。けれどその一瞬の間に、かおりんの瞳がこちらを探るように揺れたのを、わたしは確かに見た。
「今日の写真、もう一枚。今度は――“変顔”」
「なんで」
小首を傾げるその仕草が、無防備で、目が離せなかった。
笑ってごまかそうとしたのに、言葉の先が少し掠れてしまう。
「真剣顔もいいけど、変顔も欲しい。二枚、並べるの」
「アルバムに残すつもり?」
「うん。――『スピードの午後』ってタイトルで」
「……ダサい」
そう言いながら、かおりんは肩を震わせて笑った。
その笑い声の振動が、触れ合った肩越しにゆっくりと伝わってくる。
その距離のまま、彼女がわずかに身を寄せた。髪の先が頬を撫で、息がかかる。
スマホのカメラを構えた指先が、少しだけ震える。
わざと間の抜けた顔をしようとして、うまく笑えない。
かおりんが唇を尖らせて、「はい、いくよ」と囁く。
その声の近さに、胸が反応してしまう。
カシャ。
シャッターの音が、小さな溜息のように響く。
画面には、ふたりの顔が寄り添って映っていた。
表情はふざけているのに、頬の温度や視線の交わりが、どうしようもなく本気だった。
笑いながら見つめ合ううちに、息が合わなくなる。
かおりんが視線を伏せ、指先でわたしの手をそっと押さえた。
ただそれだけで、胸の奥が静かに跳ねる。
言いながら、かおりんは笑って、頷いた。
ふたりで肩を寄せ、今度はわざと間の抜けた顔をして、シャッター。
画面には、さっきとは別の種類の幸福が写っていた。




