第90話「スピード①」
その日、家はひどくおだやかだった。
エアコンの低い唸りに、キッチンから麦茶の氷が溶ける音がぽちゃん、と混ざる。窓の外では蝉が最後のがんばりを見せていて、カーテンの影がゆっくりと床を横切っていく。
「退屈だね、かおりん」
わたし――しおりんは、座卓に頬杖をつきながら言った。テレビは消してある。スマホも伏せてある。やることがない休日って、贅沢だけど、油断するとただ溶けて消える。
「んー、退屈。……でも、こういう日も嫌いじゃないよ」
ソファの背にもたれていたかおりんが、ぐーっと伸びをしてから振り向く。ポニーテールがふわりと弧を描いた。
その軌跡を目で追って、ふと思いつく。
「トランプ、やろうか」
「神経衰弱? 大富豪? ババ抜き?」
「スピード」
一拍置いて、かおりんの目がきらっと光る。
「いいね。久しぶりに本気出す?」
「出してもらおうか、座道部・反射神経担当」
「そんな担当いなかったでしょ」
笑いながら、わたしは引き出しからトランプを取り出す。新品じゃない、角が柔らかくなった、うちの定番デッキ。切ると、紙の匂いがふっと立った。
わたしたちは座卓の向かい合う位置に座る。距離は近い。わたしの膝が、テーブルの下でかおりんの膝にたまに触れる。わざとじゃない――たぶん。
「ルール確認。ジョーカーなし、Aは1扱い、連続出しOK、手札は各自20。中央は場札2枚オープン。“スピード”のコールは、同時に置いたときの判定用」
「了解。で、賭けは?」
「……賭け?」
「勝ったほうの“お願い”をひとつ。なんでも、とは言わないけど、できる範囲で」
その言い方がやけに落ち着いていて、わたしは思わず咳払いをした。
かおりんの“できる範囲”って、範囲が広いんだよね。家事の分担から、明日のデザート選びまで。ときどき“ハグ1回”とか混ざる。ずるい。
「いいよ。じゃあ負けたほうが勝ったほうのお願いをきく、で」
「よーし、やる気出てきた」
かおりんは指をぱちんと鳴らす。指先が細くて、爪は短く切り揃えられている。座道部で鍛えた姿勢のまま、上体がすっと前傾する。
わたしも背筋を伸ばし、カードをきれいにカットして配る。互いの山札の横に手札の“めくり置き場”をつくり、中央に場札を伏せて二枚。
「せーの、でひっくり返すよ」
「はいはい、かおりん、負けても泣かないでね」
「泣かないけど、勝ったらお願い、遠慮しないよ」
「こわ」
笑って、同時に息を吸う。
空気の重心が、テーブルの上に集まっていくのがわかる。手の中のカードの縁が、体温で少し湿る。
わたしは心の中でカウントダウン。
「……せーの」
ぱっ、と中央が開いた。
左は「7」、右は「Q」。
同時に、わたしたちの手札から音が立つ。
「はい」「っと」
かおりんが8を、わたしがJを置く。
続けざまに、わたしが10、かおりんが9。右の列はQ→J→10→9→8、の順で一気に沈む。テーブルの上をカードの白い縁が走り、紙が擦れる音がリビングに軽く弾ける。
「速いね、かおりん」
「そっちこそ。……次、欲しいのは?」
「言うわけないでしょ」
笑い合いながらも、視線はカードから外さない。
わたしたちの指先が、何度もテーブルの中央でぶつかりかけては、ぎりぎりで避ける。ときどき、ほんの一瞬だけ触れて、離れる。
触れたところが、墨で印を押したみたいにじん、と残る。
「っ、スピード!」
ほぼ同時に2枚置いた瞬間、わたしが先にコールした。
かおりんの口がむっと結ばれる。悔しそう。かわいい。
「判定、しおりんの勝ちで」
「ありがとうございます」
淡々と言いながら、手は止めない。
山札をめくり、可能なカードを落とし、詰まったらまためくる。
視界の端で、かおりんのまつ毛がゆれる。呼吸が浅くなる。
カードをめくる手が止まらない。
互いの呼吸が浅くなる。
ときどき目が合って、どちらも逸らす。
そのくせ、次の瞬間にはまた重なり合う。カードと指と視線が。
テーブルの上でカードが重なっていく速度に、心臓の鼓動が追いつけない。
「……はぁ、はぁ」
気づけば、息が上がっていた。
たかがスピード、されどスピード。酸素よりも体温が足りなくなる。
「しおりん、口、開いてる」
「集中の証拠です」
「ふふ。――ほい、8」
「あ、くっ。……7!」
一瞬の迷いで流れが傾く。
わたしは反射で7を叩き込むが、かおりんの手がすべり込む。
わたしの手と、かおりんの手がすべり合って、紙が擦れる。
互角。だけど、空気は完全に“熱”になっていた。
テーブルの上に、二人分の“真剣”が散らばっていく。
いや、真剣なんて言葉は大げさだけど、でも今はほんとに真剣なのだ。




