第89話「ダンス②」
夕方の光が、レースカーテンを透かしてリビングに落ちる。オレンジと薄紫の境目みたいな時間。照明は点けず、自然光のなかで踊ることにした。
「――もう一回、やろっか」
「うん」
ママりんが去ったあと、家の音がしっとりと落ち着く。遠くで鍋がこつんと鳴り、包丁がまな板を刻むリズム。キッチンのその音も、わたしたちのBPMに混ざり合っていく。
スマホから流れ出す、さっきより少し静かな曲。テンポはゆっくり。手の軌道が、空に線を引くみたいに見える。
「かおりん、ここで笑って」
「え」
「笑ってる顔、踊るより綺麗だから」
不意打ち。心臓がふっと浮いて、着地に少し時間がかかる。わたしは言葉の代わりに、頬の筋肉を動かしてみた。ぎこちない笑顔が、ほんの少しずつ、息といっしょにほどけていく。
「うん、いい」
「……演出家?」
曲の終わり、最後のポーズでしおりんと手が合わさる。手のひらの温度が、ゆっくりと混ざって、夕陽よりも柔らかい色になる。
静かに音が止まって、ふたりでソファへ倒れ込む。天井の木目を数える。四本、五本。呼吸がやっと同じリズムに落ち着いた。
「次、どの曲やる?」
「んー……それよりも」
「それよりも?」
「お腹、すいた」
同時に笑って、キッチンの方を見やる。すると――
「アンコールいくわよー!」
ママりんの声。フライパン片手に戻ってきた。え、なに? キッチンとステージを往復する新種のエンターテイナー?
「いえいえいえ! 今は夕飯!」
「アンコールはご飯を美味しくするスパイス!」
「新理論がすぎる!」
抵抗むなしく、再び音量が上がる。フライパンが意外と打楽器として優秀で、シャカッ、カンッ、という金属音がリズムに乗っかってくる。ママりん、完全にノってる。
わたしたちも負けていられない。床に裸足を戻して、位置につく。
ワン、ツー、スリー、フォー――
体が覚えはじめた振りは、さっきよりスムーズに流れる。しおりんの横顔が、夕陽に縁どられてきれいだ。ポニーテールの一本一本が、音の粒みたいに跳ねる。手を伸ばすと、そこに音が乗る気がした。
「――決まった!」
最後のキメ。三人、完璧にそろった……つもりだったけど、わたしは半歩前に出すぎて、ママりんのフライパンとコツン。小さな打楽器音がオチみたいに鳴って、わたしたちは同時に吹き出した。
「はい、今度こそ夕飯!」
「はーい」
*
食卓には、温かい湯気。煮物の匂い。サラダの色。ふう、と息を吐いてスプーンを持つと、さっきまで踊っていた体が、すっと“座る”モードに戻るのがわかる。座道って、たぶんこういう切り替えのことを言うんだろう。しおりんに教わった言葉が、いまさら胸のなかで腑に落ちた。
「二人とも、いい汗かいたわね」
「うん。ママりんのせいでね」
「褒め言葉と受け取っておくわ」
しおりんが、スープをふうふうしながら言う。
「ねえ、次はだれ呼ぶ? ひかりんとか、奈々りんとか」
「やめて。床が抜ける」
「じゃあ、ママりん」
「さらに危険度が上がった」
くだらないやりとりで笑って、スプーンが皿に触れるたび、ちいさな音が家中の静かさに溶けていく。窓の外では、夜の匂いがゆっくり立ち上がりはじめていた。
*
食後。片付けを済ませて、ソファに並んで座る。動画を見返すと、さっきの三人の踊りがちゃんと映っていて、わたしたちは交互に早送りしたり、一時停止したり、「ここ良くない?」と指差し合ったり。
「……ねえ、かおりん」
「なに」
「踊ってるときより、こうして笑ってるときのほうが、わたしは好きかもしれない」
「唐突な告白だなあ」
でも、その言葉は、すっと胸に落ちた。ダンスの汗が、ゆっくりと心に冷えていくみたいに。わたしたちは顔を見合わせて、ちょっと真面目に頷き合った。
「――でもまた、踊ろうね」
「うん。次は、もうちょっとだけ上手に」
その約束のちょうど上を、天井の木目が一本だけ長く伸びているのを見つけて、なんだか縁起がいい気がした。
「じゃ、最後の最後に……」
「まさか」
「ストレッチ」
しおりんが立ち上がって両手を上に。わたしも後に続く。ママりんもいつの間にか背後で参加していて、三人でぐぐーっと伸びる。背骨の一本一本がほどけていく。
「ふあぁ……」
「声が出ちゃうの、あるある」
ストレッチを終えて、床にぺたりと座る。三人分の影が、レースカーテン越しの街灯に長く伸びて、重なって、少しだけ揺れた。
「――今日は、いい日だったね」
「うん」
そう答えたわたしの声は、たぶんいつもより少し甘くて、少しだけ誇らしかった。だって、わたしたちは踊って、笑って、ちょっとだけ揃って、そして確かに“座って”今日の終わりに辿り着いたのだから。
「明日も、リピート?」
「脚が言うこと聞いたらね」
笑いながら、スマホの画面をぱたんと伏せる。部屋の灯りを落とす直前、ママりんが小声で言った。
「アンコール、また今度」
わたしたちは声をそろえて答えた。
「――また今度」
夜風がカーテンの裾を撫で、わたしのポニーテールの先をひと撫でしていった。胸のどこかで、まだ小さく続いているビートを抱えたまま、わたしはソファにもたれて目を閉じる。今日のリズムは、きっと夢の中でも鳴り続ける。ほんのり甘い、三人分のテンポで。




