第88話「ダンス①」
その日は、午後から空気が少しやわらいで、家の中の時間がゼリーみたいにぷるぷると揺れて見えた。
わたし――かおりんは、宿題を午前中のうちにやっつけたので、勝利者の余裕をまとってリビングへ行くと――
「ワン、ツー、スリー、フォー! はいターン、からのキメ!」
しおりんが、スマホを立てかけて動画の前で踊っていた。床に敷いたラグの上、普段結わいていないポニーテールがぶんぶん跳ねてる。足さばきは軽いけど、たまに方向音痴が発動して、ソファに小指をゴンとぶつけては「いった〜」と変な声を出す。
「……何やってるの?」
「研究。時代の、ね」
「その言い方だけはインテリなのに、中身が盆踊りだよ」
「失礼な!これは流行の“踊ってみた”です。今は座るだけじゃなく、踊れる座道部なんだよ」
「部の概念、だいぶ拡張されたね」
スマホから流れる軽いビート。部屋の真ん中にあるローテーブルを端に寄せて、広いスペースを確保するしおりんの手際が無駄にいい。あれ、この人ほんとにノリノリだ。
「ね、かおりんも一緒にやろう」
「いや、わたしは見る係で……」
「見るだけの人が一番あとで後悔するの、世の常」
「そんな格言はない」
口では抵抗しながら、心のどこかはちょっとワクワクしてるのを、わたしは知っている。だって、午前の宿題を乗り切った体は、ちょうどなにか動きたいリズムに満ちていて、窓の外の雲まで軽くステップを踏んでいるみたいに見えたから。
「……一曲だけなら」
「キタ! 座道部・舞踊支部、開幕!」
*
リビングのテーブルを押しやって、クッションを壁側に積み上げる。花瓶は安全地帯へ避難。準備が整ったら、スマホの再生ボタンをタップ。
♪ ちゃっ、ちゃら、ちゃっ、ちゃ〜
「最初は右足から、ワンツー」
「右? わたしの右どこ!?」
「それ、毎回言うけど人体構造からやり直す?」
「しおりんに言われたくない!」
わたしたちは向かい合って、鏡代わりに窓ガラスの反射を使う。最初はズレる。めちゃくちゃズレる。わたしが右へステップすると、しおりんは同じ右に来て正面衝突。「ご、ごめん!」「いや今のはわたしが右を……え、左を……」
「脳が混乱してるうちに、ターン!」
「いきなり難易度上げないで!」
くるっと回った瞬間、視界がふわっと白んで、バランスを崩したわたしはソファにドサッ。しおりんもタイミングを外して、隣にパタン。二人で同時に笑ってしまう。
「はぁ、苦しい。笑いすぎて腹筋が……」
「運動じゃなくて笑いの筋肉が鍛えられてる気がする」
それでも二回、三回と繰り返すうちに、不思議と身体が覚え始める。右足からのステップ、手の角度、ターンの勢い。窓に映る二人の影が、少しずつ、ほんの少しずつだけど、重なり始めた。
「今の、合ったね」
「うん。ほら次のキメ、手をこう――」
「こう?」
「そう、それ!」
しおりんの指先が、わたしの手の甲をやわらかく導く。触れたところから、ちいさな電気みたいなものが皮膚の下を走って、胸の奥でピンと弦が鳴る。なんでだろう、このリズムは忘れたくない。
「うん……楽しい」
「だよね」
短く目が合って、同時に照れ笑い。曲が終わる頃には、息がウサギみたいに弾んで、床に倒れ込んだ二人の肩が、同じテンポで上下していた。
*
「ちょっと! なに、そのドスンドスンは!」
階段の下から、怒号――いや、ママりんの凛々しい声が響いた。ドアがバンと開いて、エプロン姿のママりんが登場。買い物袋を片手に、もう片方の手で腰にビシッと手を当てる。
「下の階まで響いてるってば! 地震かと思ったわよ!」
「じ、地震ではないです! 文化活動で……」
「文化活動が盆踊りの拡大解釈なの!?」
しおりんがスマホを掲げ、再生画面を差し出す。「これ! 若者の間で流行ってるの!」ママりんは無言で画面を覗き込み、数秒、ふむふむと頷いたあと――
なぜか、音も鳴っていないのに、リビングのど真ん中でポーズを真似し始めた。
「――こういうのはね、腰でリズムを取るのよ。ほら、こう。昔はディスコっていうのがあってね」
「情報量が急に昭和!」
気づけば、ママりんはセンターに立っていた。すごい。存在感が。プロのMCか何か?
「お母さん、そこから手を斜め上。肩は固めずに。はいワンツー、からのヒップ!」
「しおりん、指導者モードやめて」
「いけるわね、あなたたち。じゃ、本番。音出して」
しおりんが慌てて音量を上げ、曲が始まる。三人、おのおのの場所へ。床の木目が、ステージのセンターラインに見えてくる。
「ママりん、すご……」
「でしょ?」
くるっと回ったママりんのエプロンの紐が、ふわっと遅れて翻る。その瞬間、わたしの笑いのスイッチが入ってしまって、踊りながらくすくす笑ってしまう。気がつけば、三人、同じ振りで、同じところで笑って、同じタイミングで息を切らしていた。
曲が終わって、三人で床にぺたん。肩で息をしているわたしたちを見て、ママりんが満足げにうなずいた。
「よし。夕飯の支度、してくる」
「さすが家庭のセンター」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
ママりんはひらりと手を振ってキッチンへ消えていった。エプロンの背中が、妙に頼もしい。




