第85話「ゴム鉄砲」
その日、家は異様に静かだった。
両親は朝から出かけていて、わたし――しおりんはリビングで本を開いていたけれど、文字を目で追うばかりで頭に入ってこない。扇風機が首を振るたびにカーテンがふわり揺れて、夏の匂いがわずかに流れ込んでくる。
そんなとき、インターホンが鳴った。
「……はい。あれ、奈々りん?」
扉を開けると、そこには普段より少しきっちりした服装の奈々りんが立っていた。まっすぐな姿勢、少しだけ硬い表情。けれどその目は、いつになく熱を帯びている気がした。
「こんにちは。……かおりんに会いに来た」
「かおりんに?」思わず聞き返す。
奈々りんは短くうなずき、「大事な話がある」とだけ告げると、靴を脱いで迷いなく階段を上がっていった。
(……大事な話? なんか気になる)
胸がざわつく。わたしも“かおりん”って呼ぶし、他のみんなもそうだ。呼び方自体は珍しくない。けど、奈々りんの「かおりん」って、響きがなんか違うんだよな……柔らかくて、でも鋭い。まるで狙いを定めた矢みたい。
気づけば、わたしも立ち上がり、音を立てないように後を追っていた。
*
廊下に立ち、かおりんの部屋の前で耳を澄ます。
閉じたドアの向こうから、二人の声が聞こえる。
「奈々りん、どうしたの? 急に来て」
「……かおりんに会いたかったから」
「そんなふうに言われると……照れるよ」
(やっぱり……何かある)
わたしの心臓はいやにうるさい。
少しの間を置いて、奈々りんの声が低く落ちた。
「かおりん。わたし、この気持ちを隠すの、もう無理かもしれない」
「え……?」
「昨日の夜、ゆはりんが家に来たって……知ってる。あれを聞いた瞬間、胸がざわついて眠れなくなった」
かおりんが息を呑む音。
「……あの子の無邪気さに、かおりんを取られるんじゃないかって。不安で、悔しくて。わたし、線を引こうとした。でも……もうできない」
奈々りんの声が震えた。冷静な彼女には似合わない、むき出しの熱。
「ただ、ひとりの人として……かおりんが好きだ。ゆはりんにも、しおりんにも負けたくない。かおりんを誰かに取られるくらいなら……」
(……っ!)
わたしは廊下で拳を握りしめた。
妹の名前まで出されて――心臓が刺されるように痛い。
「奈々りん……」かおりんの声が揺れる。
「答えは今じゃなくていい。伝えたかっただけだ」
沈黙。布団が擦れる音。二人が近づいたのが分かった。
(……ダメだ。これ以上は聞いていられない)
わたしは衝動に駆られ、ドアノブを回した。
*
「ちょ、ちょっとお邪魔します!」
乱暴に開けると、二人がこちらを振り返る。かおりんは驚きに目を見開き、奈々りんは冷静にわたしを見た。
「し、しおりん……盗み聞きしてた?」
「ち、違う! ただ……心配で!」
苦しい言い訳だと分かっている。でも、言わずにはいられなかった。胸が爆発しそうだったから。
空気が重く沈む。修羅場寸前。
「ね、ねえ! そうだ!」
かおりんが唐突に声を上げる。
「机にゴム鉄砲あるし、遊ぼうよ! こういうときは遊びで発散するの!」
……ゴム鉄砲?
*
数分後、部屋は戦場と化していた。
「くらえっ!」
「静止せよ!」
「ぎゃーっ!」
かおりんは机の陰から輪ゴムを乱射。
奈々りんは枕を盾に冷静に狙撃。
わたしは机の下に隠れ、必死に反撃するが、二人の集中砲火で追い詰められる。
「しおりん、弱すぎ!」
「数に押されるのは必然」
「ひぃぃぃー!」
輪ゴムが頬をかすめ、わたしは転がる。
すかさずかおりんが飛びついてきて、背中に馬乗り。
「捕まえたー!」
「ぎゃーーっ!」
床に押し倒されるわたし。さらに奈々りんも加わり、三人でぐしゃぐしゃに転がる。
「離せっ……! 息できないってば!」
「投降すれば助けてやる」
「そんな極意ないでしょ!」
笑い声と悲鳴と、輪ゴムの弾ける音。
部屋中に散らばった枕やチラシ。
テーブルは横倒しになり、わたしたちは汗だくで笑い続けた。
*
乱闘の末、全員が床に転がって息を切らす。
しばらくして、奈々りんが静かに言った。
「……やっぱり、わたし負けたくない」
笑っていたはずの胸が、またざわつく。
かおりんは困ったように笑いながら、「もう! 奈々りん!」と軽く肩を叩く。
わたしは天井を見上げて息を整えた。
けれど、耳の奥ではまだ奈々りんの声が響いていた。
“ゆはりんにも、しおりんにも負けたくない”
……その言葉が、何度も反響していた。




