第84話「ビー玉転がし」
その日、家は不自然なくらい静かだった。
両親は朝から出かけていて、リビングにはエアコンの低い唸りと、キッチンから漂う麦茶の匂いだけ。わたし――しおりんは床に座って、うちの座卓にスーパーの特売チラシを広げたまま、ぼんやり扇風機の首振りを見送っていた。
「ねえ、しおりん。掃除機、もう一回かける?」
ソファの背にもたれていたかおりんが、顔だけこちらに出して聞いてくる。ポニーテールがふわっと揺れた。
「ほう……ポニーテール。わたしにそんな無防備なうなじを見せるなんて……さては、誘ってるな」
「何の話よ! そんな暇ないでしょ!」
「ほう……襲って欲しいと……」
「そんなことより掃除機! もう一回かけるの!?」
「そんなことより掃除機! もう一回かけるの!?」
かおりんが強気に返してきた瞬間、わたしは立ち上がり、わざと芝居がかった声を上げた。
「――ならば! 力づくで掃除機から守ってみせよう!」
「守らなくていいから!」
そのままソファに飛びかかる。かおりんは「きゃっ」と短く叫んで、背もたれに押し倒される。両腕を押さえつけると、彼女の目がまん丸に開いた。至近距離。睫毛がやけに長い。鼻先にかかる吐息が、くすぐったいくらい近い。
「な、何すんのよ! 離して!」
「いいや、もう遅い。掃除機より、わたしを選ぶんだ!」
「なにその二択!? 理不尽!」
必死に逃れようとするかおりん。だけど、わたしも本気で押さえてしまう。すると、わずかな力のせめぎ合いが、妙に熱を帯びる。
「くそう!現役高校生を舐めるな!!」
「うっ……つよっ! でもっ!お姉ちゃんの欲望を舐めるな!!」
じたばた暴れるうちに、わたしたちはソファからずり落ちて、床にごろん。チラシの上に転がった。
「ちょっと、痛っ……ほら見なさい、牛肉半額の文字が潰れてる!」
「こんなときに半額!?」
「重要なの!」
抗議しながらも、かおりんの声は少し震えている。顔は耳まで赤く、押し返す手にも迷いがある。
わたしは悪戯心に駆られて、ぐっと顔を近づけた。
「……本当に、掃除機だけで満足する?」
「しおりん、そういうの……卑怯だって……」
息が触れるほどの距離。目をそらしたかおりんの頬に、じんわり熱が広がっていく。
けれど次の瞬間、彼女は思い切り力を込めて、わたしをひっくり返した。今度は、わたしが下でかおりんが上。彼女のポニーテールがふわりと揺れて、頬に触れた。
「――こうやって形勢逆転!」
「ぐっ、座道部式返し技……!」
「部活で鍛えてるからね!」
押さえ込まれたまま、わたしは負けを認めるふりをして笑った。
でも心臓は、笑い声の何倍も大きく鳴っていた。かおりんの体温が伝わるほど近い。互いの呼吸が重なって、空気が妙に濃い。
しばし見つめ合う沈黙――
やがて、どちらからともなく吹き出す。
「……ああ、ほんと馬鹿みたい」
「うん。でも、楽しい」
チラシの上で転がったまま、肩を震わせて笑う。
リビングには、相変わらずエアコンの低い音。だけど胸の奥は、むしろ熱気でいっぱいだった。
そんなふざけた掛け合いをしていたら、ぴんぽーん、とチャイムが鳴った。
かおりんと目を合わせる。
誰だ?
「はーい!」
わたしが玄関へ走ると、ドアの向こうで小さな影が揺れた。
ドアを開けると、ふわっと甘いシャンプーの香り。小柄で、胸の前でトートを抱えたゆはりんが、控えめに手を振った。
「こんにちは、遊びにきちゃいました……」
ドアの前に立っていたゆはりんは、ふわっと控えめに笑っていた。胸の前で抱えたトートバッグをぎゅっと握っていて、なんだか小動物みたいに大人しい。
「えっ? ゆは、ゆは、ゆはりん!!」
思わず声が裏返ってしまった。だってさっきまで――いや今もまだ、リビングはチラシまみれの戦場で、かおりんはわたしの上から飛び退いたばかりなのだ。
「しおりん? どうしたの?」
リビングから、かおりんの声。彼女も慌てて姿勢を直してるはず。
わたしはゆはりんを中に招き入れるしかなくて、そろりそろりとリビングの戸を開けた。
視界に入った瞬間――かおりんと目が合った。
彼女はわざとらしく正座していて、その周りには散乱したチラシと転がった座布団。ポニーテールがまだ少し乱れている。
(……誤魔化せてない!!)
「……なんか、楽しそうでした?」
ゆはりんが首をかしげて、きょとんとした顔をしている。声も小さいのに、核心を突くひとことだった。
「ち、違うの! 掃除機の取り合いしてただけ!」
反射で叫んでしまうわたし。
「そうそう! わたしは掃除機を愛してるから!」
かおりんのフォローが逆効果すぎる。
「……掃除機、三人で取り合うの?」
ゆはりんは小首をかしげたまま、ふわっと笑った。
その笑顔はいつもみたいに柔らかいのに、不思議と逃げ場を塞がれる。
わたしと妹は顔を見合わせて、同時にため息をついた。
「で……ゆはりんは、なんで急に?」
「えっと……二人が一緒にいるとき、わたしも混ざりたいなって……」
言葉の最後が消え入るくらい小さな声。なのに、耳の奥までじんわり響いてくる。
かおりんが咳払いをして、わたしの背をつついた。
「しおりん……これ、わたしたち、逃げられないやつだよ」
扇風機の首振りが、ゴォ……と背中に風を送ってくる。
それでも部屋の空気は冷えなくて、むしろ妙に熱を帯びていた。
*
三人並んで座卓を囲む。テーブルの上には、麦茶、コンビニドーナツ、ぶどう。
わたしは氷たっぷりのグラスを配りながら、心の中で深呼吸。――今日のわたしには“任務”がある。
そう、「知っているのに、知らないふりをする任務」だ。
きっかけは数日前の夜。かおりんが、おはじきをしながら告白してきたのだ。
――「ゆはりんにね、“二人とも好き”って言われた」
その一言で、胸の真ん中に落ちた石は、まだ少しひんやり重たい。
でも、ここで重さに飲まれるのが“姉”じゃない。わたしは笑う。いつも通りに、ちょっとだけ悪戯っぽく。
「ゆはりん、夏休みの宿題は?」
「終わりました……たぶん」
「たぶんって便利だよね」
「ね」
同時に相づちを打って、わたしとかおりんは顔を見合わせ、つい吹き出す。ゆはりんも遅れて、くすっと笑った。空気は悪くない。ここで、すぅっと一歩踏み込む。
「そういえばさ」
わたしはドーナツの粉砂糖を指で払いつつ、何気ないふりで切り出す。
「最近、かおりんがね、なんかよく赤くなるの。ね、かおりん?」
「えっ、い、今ここで振るの? ……なる、かな」
「なるなる。で、気になってたんだ。ゆはりん、何か“言った”?」
ゆはりんの手が、ストローの先でぴたりと止まった。
視線が、氷の中の気泡みたいにふわふわ泳ぐ。
「え、えっと……えっとね……」
「なにかな~?」
笑顔の角度は保つ。たぶん、今のわたし、すごく性格悪い。知ってる。でも、ここは“確認”が大事。
隣でかおりんがそわそわと体重を移す。
「しおりん、あのさ、これは、その……」
「うんうん。ちゃんと本人の口から聞きたいなって」
ゆはりんはトートの取っ手をぎゅっとつまんだ。
「……ごめんなさい。わたし……この前、かおりんに……」
声が、とても小さくなる。
「“二人が好き”って、言っちゃって……」
「うんうん、わかってるよ。わたしも含めて、みんなゆはりんが好きだよ」
「違うの、違うの、Likeじゃないの! Loveなの!」
――知ってる。
でも、今は初めて聞いたみたいに、少しだけ目を見開いて、息をのむ。
ここは優しく、歴戦のお姉さんっぽく……。
「そ、そ、そ……そっか」
短く返して、麦茶をひと口。氷がからん、と鳴った。
喉を通る冷たさが、熱っぽい胸の真ん中にすっと触れる。
「……わたしね、しおりんもかおりんも、大好きで……どっちかを選ぶって、まだ出来ないって思って……」
ゆはりんは、ストローの先を見つめたまま言葉を継いだ。声が、消え入りそうに小さい。
隣のかおりんが、落ち着かない視線でわたしとゆはりんの間を何度も行き来させる。両手を膝に置いたまま、こそこそ指先を動かしてビー玉を転がしているのが見えた。
(ああ、そうだ。こういうときは遊びを混ぜた方が、話がやわらかくなる)
「ねえ、かおりん、ビー玉貸して」
「え、あ、うん」
ビー玉の袋を受け取って、ちゃりん、と机に転がす。青いガラス玉が光に透けて、リビングの天井の白い明かりを反射した。
「座道部・家庭練習版。ビー玉で心を整えるのです」
わざと真面目な口調で言うと、かおりんが吹き出した。ゆはりんも、ふわっと笑ってくれた。
「ほら、こうやって……」
わたしは輪っかをつくって、ぱちん、とビー玉を弾く。
ビー玉はテーブルの向こうでくるんと跳ねて、ゆはりんのグラスのそばまで転がっていった。
「じゃあ、ゆはりんも。ビー玉ひとつ選んで」
「え、わたしも?」
「うん。好きな色でいいよ。これは“正直ビー玉”。転がした方向に、心の向きが出るんだよ」
「そんなの、しおりんが今つくったでしょ……」
ゆはりんが苦笑しながら、淡い緑色のビー玉を選ぶ。
かおりんもひとつ、琥珀色のビー玉を手にした。
三人の手のひらに、ガラスの小さな光が集まる。
なんだか、秘密の儀式みたい。
「せーので転がすよ。転がしたビー玉が誰に近づくかで、今の“心の矢印”がわかるってルール」
「なにその座道占い……」
かおりんが呆れた声を出す。でも、目はちょっとだけ楽しそう。
「いくよ。せーの!」
ぱちん。
三つのビー玉が、テーブルの上でばらばらに跳ねた。
青いビー玉は、くるんと弧を描いて、かおりんのほうへ。
琥珀色は、迷うようにゆらゆら進んで、真ん中で止まった。
そして、緑は、まっすぐ……わたしの方へ転がってきた。
「おおおお……」
わたしが声を上げると、かおりんが「なにそのリアクション!」と笑う。
ゆはりんは小さく肩をすくめて、でもその頬がほんのり赤くなっていた。
「……ね、これが、ゆはりんの“心の矢印”?」
わたしがわざと首をかしげて聞く。
ゆはりんは、うつむいて、でもコクンと頷いた。
「……うん。しおりんにも、かおりんにも、嘘はついてないつもり。ほんとに、どっちも……好きだから」
――知ってる。
でも、今は知らないふりをして、ゆはりんの言葉をひとつひとつ受け止める。
「そっか」
わたしは、そっとビー玉を拾い上げて、指先で光に透かした。
「でもね、ゆはりん。好きって言葉って、言ったら終わりじゃなくて、そこからが始まりなんだよ」
「……始まり?」
「うん。相手の気持ちや、自分の気持ちが動くことだってあるし。怖いこともあるけど、だから面白いんだと思う」
わざと柔らかい声で言うと、ゆはりんは少し目を見開いて、またゆっくり頷いた。
かおりんも、ビー玉をくるくる回しながら、ふわっと笑った。
「ねえ、しおりん」
「なに?」
「……こうして三人でいると、なんか変に安心する」
「わかる。座道部の合宿の夜みたい」
「ふふ、ほんとにそうだね」
そう言って、かおりんがビー玉をわたしの手の上にそっと重ねてきた。
その指先は、ほんのり震えていた。
ゆはりんも、小さな声でぽつり。
「わたしね、三人でいるときがいちばん楽しい」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
でも同時に、なんだか甘い匂いがした。麦茶の香りでも、ドーナツの粉砂糖でもない。
三人の距離のあいだに漂う、見えない空気の匂い。
わたしはビー玉をひとつ、ゆはりんの手のひらに転がした。
「これは、わたしの返事」
ビー玉を転がして、ゆはりんの手に返した瞬間。
空気が、ふっとやわらかく揺れた気がした。
「これで、三人おそろいだね」
かおりんが笑う。その声が少し高くて、照れ隠しみたいだった。
次の瞬間。
「えいっ!」
かおりんがビー玉を指ではじき、わたしの額にコツンと当ててきた。
「ちょっ、なにすんの!」
「仕返し!」
笑いながら身を乗り出してきたかおりんを、わたしは咄嗟に押し返す。けれど、その勢いでソファから二人まとめてずり落ちた。
「きゃっ」
「わっ!」
床に転がったわたしたちの上に、さらにゆはりんが「わわっ」と慌てて覆いかぶさってきた。
結果――三人がごちゃごちゃに絡まって、床の上でくんずほぐれつ。
「ちょ、重い、重いってば!」
「ご、ごめんなさい!」
「わたしのせいじゃないでしょ!」
誰がどの腕かわからないまま、押し合いへし合い。ビー玉の袋がばらまかれて、床に転がる音がちゃりんちゃりん響く。
その拍子に――わたしの頬に、ゆはりんの髪がかかる。さらっとした感触と、シャンプーの甘い匂い。
息が一瞬止まった。
「……しおりん、近い……」
ゆはりんが小さな声で呟いた。頬がほんのり赤い。
「そ、そっちこそ! わたしの胸にひじ入ってるから!」
「ご、ごめんっ……でも、あったかい……」
ああもう、この子はずるい。ふわふわした声でそう言われると、抗議する気力が溶けていく。
横からかおりんが割り込むように抱きついてきて、さらに混線。
「じゃあわたしも! しおりん、これはお仕置き!」
「どこが!? これただの乱闘でしょ!」
「違うもん、好きだから!」
最後の一言に、思わず喉が詰まった。
かおりんは顔を真っ赤にしながらも、ぎゅっと腕に力を込めてきた。
両側から抱きつかれて、身動きが取れない。
なのに――嫌じゃない。むしろ、胸の奥が熱くて、どこか安心する。
わたしは観念して、二人まとめて抱きしめ返した。
「もう……わかったわかった。負けを認めます。二人とも、強すぎ」
「やった!」
「えへへ……」
笑い声と、麦茶の氷が溶ける小さな音と、ビー玉の転がる音。
ごちゃごちゃした床の上で、わたしたちは子どもみたいに笑っていた。




