第82話「ビー玉遊び」
二学期が始まった。
蝉の声が遠のき、代わりに鈴虫が鳴く季節。
校庭の木々は濃い緑で、夏の終わりを惜しむように風にざわめいていた。
朝の教室は、久しぶりの顔ぶれに賑やかな笑い声が飛び交っている。
――でも、わたしの胸の中は、ちょっとだけ落ち着かない。
理由は分かってる。
座道部の仲間、ゆはりんのことだ。
*
「……おはよ、かおりん」
ゆはりんはちゃんと笑顔で挨拶してくれる。
けれど、その笑顔が少し硬い。声のトーンが、ほんの少しだけ高い。
目を合わせてくれるんだけど、一瞬で視線を外す。
「おはよ!」
明るく返しても、前みたいにふわっと続かない。
胸の奥に、わずかなざらつきが残った。
(やっぱり、まだ気にしてるんだ……)
夏休みのキャンプ。あの夜のこと。
テントで寝ていたとき、寝ぼけたゆはりんがわたしに抱きついてきて――大騒ぎになった。
結局は“寝相”ってことになったけど、あれから空気がちょっと変わった気がする。
あのとき、わたしも動揺して、まともに返せなかった。
そのせいで、ゆはりんは今も気まずそうにしてるのかもしれない。
(どうしよう。このままだと、わたしたちの座道部、ギクシャクしたままだよ……)
*
放課後。部室に集まったわたしたちは、ちゃぶ台を囲んでいた。
その上にはビー玉がころころと転がっている。
「今日の練習は、座道式ビー玉遊び」
奈々りんが真顔で宣言した。
「は? それって練習っていうより遊びじゃない?」
「否。集中力と姿勢制御を鍛える。角度、力加減、呼吸……全部、座道に通じる」
……ほんとかなぁ。
でも、わたしもビー玉を一つ指先で弾く。
ころん、と小気味いい音を立てて、ビー玉がちゃぶ台の端まで転がっていく。
隣のゆはりんは、ビー玉を手にしたまま動きが遅い。
「ゆはりん、早く打ちなよ」
「あ、ごめん。いまね、考えてたの」
小さく笑ってごまかすけど、その笑顔はやっぱりぎこちない。
*
ビー玉の転がる音が部室に響く。
わたしはゆはりんの横顔を盗み見た。
すぐそこにいるのに、遠い。夏休み前より、はるかに遠い。
声をかけようか迷って、唇が動きかけたとき。
「……ゆはりん」
奈々りんが、ビー玉を弾く手を止めた。
「な、なに?」
「あなた、かおりんを避けている」
空気がピタリと止まる。
ビー玉も、わたしの心臓も。
「そ、そんなこと……ないよ?」
ゆはりんは慌てて首を振る。でも声が震えていた。
奈々りんは目を細め、淡々と告げる。
「表情と声の高さ。視線の動き。全部が“気まずい”サインだ。おそらく原因は、キャンプの夜」
やっぱり――。
ゆはりんはビー玉をぎゅっと握りしめ、俯いた。
「……ごめん。ちょっとだけ、恥ずかしくて。かおりんに甘えすぎちゃったなって。だから顔、ちゃんと見られなくて」
声は小さいけれど、ふわっとして、やんわりしてて。いつものゆはりんの声だった。
*
「なるほど」
奈々りんは短く言い、ビー玉をころんと転がした。
「謝罪と説明が済んだ。なら修復は可能。むしろ、もっと仲良くなれる」
事務的な断言。だけど、不思議と説得力があった。
わたしは思わず笑ってしまった。
「ほんと、奈々りんって鋭いんだから」
ゆはりんも、少し赤い顔で笑った。
「……ありがとう、かおりん」
ちゃぶ台のビー玉が夕日を反射して、きらきら光る。
その光に、さっきまでのギクシャクが少しずつ溶けていくみたいだった。
*
けれど、そのままでは終わらなかった。
「さて――ここからは本番」
奈々りんがビー玉を一列に並べる。
「誰が一番長く転がし続けられるか。姿勢の安定度と集中力を競う」
「結局ゲームじゃん!」
わたしは笑いながらも指でビー玉を弾く。
でも、奈々りんの目は真剣そのもの。まるで大会みたいな緊張感。
ゆはりんもおそるおそるビー玉を弾いた。ころん。
「わ、わたしのも、けっこう真っ直ぐ行ったよ!」
嬉しそうに笑うゆはりん。その笑顔に、胸のつかえがふっと軽くなる。
*
ビー玉は転がり、ぶつかり合い、ちゃぶ台の上でカラフルな音を奏でる。
笑い声も混ざって、部室はにぎやかになった。
「うわっ、かおりんのビー玉、飛んでった!」
「ちょっと、笑わないでよー!」
わざと大げさに騒ぐと、ゆはりんも奈々りんも吹き出す。
その瞬間、ほんの少し前までのぎこちなさなんて、もう忘れてしまいそうだった。
*
試合は最後、奈々りんの圧勝で終わった。
ビー玉を見事に一直線で転がし続け、わたしたちはただ呆然と拍手した。
「判定:わたしの勝ち」
「ちょ、つまんない! 奈々りん強すぎ!」
「合理的結果」
そのやりとりが面白くて、みんなで笑い合った。
――ゆはりんも、心から笑っていた。
*
片付けのとき、奈々りんがぽつりとつぶやいた。
「……結局、人は隠し事を長く続けられない」
わたしとゆはりんが同時に「え?」と聞き返す。
奈々りんはビー玉を袋に入れながら、淡々とした声で続けた。
「今日のゆはりん。言葉よりも仕草が雄弁だったよ。照れてる。距離を取ろうとして、逆に視線が泳いでる。かおりんを意識してる証拠よ」
「なっ……!」
わたしは思わず声を上げる。
ゆはりんは真っ赤になって俯いた。
奈々りんは小さく肩をすくめる。
「だから、気にする必要はない。むしろ、もっと話せばいい」
その一言で、わたしの胸に溜まっていた不安がふっと軽くなった。
「……ありがと、奈々りん」
「感謝不要だよ。分析の結果を述べただけだから」
でも、その声はほんの少し柔らかかった。
*
夕暮れの部室。
ビー玉の袋がカランと音を立てる。
窓の外には、二学期の始まりを告げるような赤い空が広がっていた。




