第80話「おはじき」
ちゃりん、と小さな音が畳に転がった。
透明や色付きの小石のようなおはじき。光を受けて、窓辺から伸びてきた陽射しの中できらっと光った。
指で輪を作り、狙いを定めて、息を詰める。
ぱちん。
指先が弾けて、おはじき同士がぶつかり合い、ひとつが輪の外へ飛んだ。
「うわ、しおりん、上手だね」
向かいに座るかおりんが、目を丸くして笑った。
その笑顔はいつもみたいに明るいけれど、よく見れば少し曇っている。
ここはわたしの部屋。夏休みが終わったばかりの放課後。窓からの風は生ぬるくて、少し湿気を含んでいた。机の上には麦茶のカップが二つ。氷が半分以上溶けて、カランと鳴った。
「ふふ、昔よくやってたからね」
「小学生の頃?」
「そうそう。かおりんは?」
「わたしはビー玉のほうが多かったかな……」
そんな会話で笑い合いながらも、わたしは気づいていた。
今日のかおりんは、少し変だ。笑顔の奥に、迷いみたいなものが隠れている。
(……やっぱり、何かあるんだな)
だからわざと、軽く問いかけることにした。
「……で、今日はどうしたの? 話したいことがあるんじゃない?」
おはじきを弾く音が間をつなぎ、沈黙を怖がらせない。
かおりんは一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから少し唇を噛んで俯いた。
「……バレてた?」
「かおりんの顔、すぐ出るから」
小さく笑ってみせると、かおりんは観念したように息を吐いた。
「……ゆはりんのこと」
指が止まった。
でも、動揺を悟られないように、わたしは別のおはじきを手に取って構える。
「この前ね、ふたりでカラオケ行ったんだ」
「へ、へえ~、楽しそうじゃない~」
ちょっと声が裏返った。
「うん、楽しかった……。でも、そのとき告白されちゃって」
ぱちん、と弾いたおはじきは狙いを外して、輪の外にすっ飛んでいった。
「……そう」
「“かおりんのことも、しおりんのことも、好き”って……」
スキュ――――――――ン!!
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に硬い石が落ちたような感覚がした。
わたしは声を出す代わりに、おはじきを並べ直すふりをして、呼吸を整える。
「……そ、そ、そ……それで、どうしたの?」
「返事、できなかった。どう答えていいかわからなくて」
かおりんは、膝の上で手を組み直し、麦茶のカップに目を落とした。
氷がカランと鳴って、ちょっと切ない音を立てた。
「だから……しおりんに相談したら、答えが見つかるかなって」
その視線は真剣で。
でも、わたしは胸の奥がちくりと痛んだ。
(……わたしに相談? 本当に、それでいいの?)
おはじきをひとつ、ぱちんと弾く。
今度は綺麗に当たって、二つが輪から飛び出した。小さな成功に、ほんの少し救われる。
「……まずは、か、かか、かおりんの気持ちじゃない?」
「わたしの、気持ち……」
「わたしがどうこう言うより、自分でちゃんと考えないと。ね?」
かおりんは頷いたけど、迷いは消えなかった。
*
その後もおはじきを弾きながら、取りとめのない会話を続けた。
でも、話題が少し逸れるたびに、かおりんの視線はまた元の場所に戻ってくる。
「ねえ、しおりんは……好きな人、いる?」
「わたし?」
「うん」
指が止まった。
「この前……告白したじゃん……」
わたしは、ほっぺたを膨らまして抗議。
「あっ……」
かおりんの顔が急に真っ赤になった。
「……あれ告白なんだ……ふーん」
と、平静に戻るかおりん。
おいおい、わたしの告白への返事は?
「……姉妹なのに……なんだろうね……いいのかな?」
「いいと思います!!」
さっきまで目を伏せていたかおりんの顔が、ゆっくりとこちらを向く。
潤んだ瞳でこちらを見る……。
「……うれしい」
かおりんが「……うれしい」と口にした瞬間、わたしはおはじきの上に乗せていた指を思いっきり滑らせてしまった。おはじきはものすごい勢いで飛んでいく!
バシ――――――――――ン!!!!
――壁に刺さった。
「……ははは」
「……びっくりしたよ」
「……かおりんがそんな顔するから……」
わざと拗ねた声を出すと、かおりんは慌てて両手をぶんぶん振る。
「ち、違うよ! 別に深い意味は……」
「うそつき」
「……恥ずかしい」
わたしたちは目を合わせて、同時に小さく笑った。
おはじきがカラカラと転がる音が、やけに響く。
窓の外では、セミの声が夕暮れに向けて勢いを落とし始めていた。蝉時雨がふっと途切れた時、代わりに遠くの犬の鳴き声が聞こえてくる。放課後の空気は、どこか取り残されたようにのんびりしていて、だからこそ心臓の鼓動がやけに大きく感じられた。
「……で、どうするの? ゆはりんのこと」
わたしはおはじきを指先でくるくる回しながら、できるだけ自然に聞いた。
「どうする、って言われてもなぁ……」
かおりんは視線を落としたまま、畳に指で小さな円を描いている。その仕草が子供っぽくて、でもやけに切実で。わたしはふいに胸が詰まる。
「ゆはりん、真剣だったよ。あの子なりに、いっぱい勇気出したんだと思う」
「うん……。だから余計に……どう答えたらいいのかわかんないんだ」
かおりんの声は、風鈴の音みたいにかすかに震えていた。
そのあとのおはじきは、ゲームというよりリズム遊びみたいになっていた。ぱちん、と弾いては、転がるのを眺めるだけ。勝ち負けなんてどうでもよくて、その音に合わせて心の整理をしているような時間だった。
「……もし、わたしが“わからない”って答えたら、ゆはりん傷ついちゃうかな」
「さあ……でも、正直に言うのが一番だよ」
「……正直に、かぁ」
かおりんは小さく頷き、次に顔を上げたときは、まっすぐこちらを見てきた。
「じゃあ、しおりんはどうなの?」
「え?」
「……ゆはりんのこと、どう思ってる?」
どきん、と心臓が跳ねた。
そんなの、聞かなくてもわかるでしょ。
でも、口にしようとすると、喉が熱くなって言葉が出てこない。
「わ、わたしは……」
「わたしは?」
「二股で行こうと思う!」
思わず口を突いて出たその一言に、かおりんの目がまん丸になる。
「……はぁぁ!? なにそれ!!」
畳をドンッと叩いて立ち上がる。
「そんなのダメに決まってるでしょ!!」
「ダメじゃない!かおりんは絶対必須だし、ゆはりんだってかわいい。二股は正義よ!」
「……もう!」
ふくれっ面で座り直すかおりん。おはじきが跳ねて、ころころと部屋の隅に転がっていく。
「かおりんも二股しなさい」
「はぁ!? なに言ってんの!? そんなの無理だって!」
「無理じゃない。ほら、“バランス型二股”ってやつよ。わたしとゆはりんでちょうど両輪」
「何その体育祭の作戦みたいな言い方!」
かおりんは頭を抱えて、畳にごろーんと転がった。おはじきがはねて、カランカランと部屋の四隅に散っていく。
「拾ってよ、かおりん」
「やだ! 二股推奨する人の言うことなんか聞かない!」
でも文句を言いながらも、ちゃんと拾ってくれる。そういうところ、ほんとずるい。
「ねえ、ほんとに……二股って、正義なのかな」
半分ふざけて言ったのに、かおりんの声はちょっとだけ真面目で。
わたしは思わず息を呑んだ。
「……正義じゃなくても、わたしは欲張りだから」
「……しおりん」
しばしの沈黙。
「そういえば、最初に二股言ったのゆはりんだよね」
「……そういえば……」
「みんなで二股しあえば平和だよね」
「……うっ」
「……そうだけど……そうだけど!!なんか違うって言うか!!なんか!なんか!」
ぶんぶんと両手を振り回すかおりんの姿に、わたしはもう笑いをこらえきれなくなった。
「じゃあ、仮にひかりんや奈々りんにも、好きって言われたらどうする?」
「……うっ」
かおりんは完全に言葉に詰まって、両手で顔を覆った。
「……そんなの、無理だってば……」
「無理じゃないよ。ほら、“五股”になったら星座みたいにきれいだよ」
「なにそれ!? 意味わかんない!」
畳に転がってジタバタするかおりんを見て、わたしはとうとう吹き出した。
「しおりん……ほんとそういうとこあるよね」
「え、いいとこ?」
「わかんない! でも、ずるいとこ!」
かおりんは頬を赤くしたまま、転がったおはじきをひとつ拾い上げ、指先でつまんでじっと見つめた。光が透けて、琥珀みたいにきらっと輝く。
「……でもね。二股とか三股とか、そういう言葉にするとややこしいけど……みんなのこと、大事って思っちゃうのは、わかる気がする」
「でしょでしょ! こういうのってハーレムエンドって言うんだよね」
「……なんだそりゃ」
……ほんとは、冗談じゃない。
かおりんも、ゆはりんも、両方大事で。両方を傷つけずに抱きしめられたらいいのに。
でもそれは、現実ではわがままな答えだ。
「……ほんとはさ」
おはじきを指でつつきながら、わたしは小さな声でつぶやいた。
「わたし、かおりんを独り占めしたいんだけどね」
かおりんの指がぴたりと止まった。
顔を上げると、彼女の頬がさっきより赤く染まっていて――でも、逃げずにわたしを見つめ返していた。
「わたしはね」
かおりんがかぶせるように言った。
「しおりんが誰を好きでも、応援したいって思うよ。でも……」
でも、のあとに言葉は続かなくて、代わりに指先でおはじきをひとつ弾いた。
カラン、と乾いた音が畳を跳ねる。
「……でも、やっぱり少しだけ寂しいかも」
ぽつりと落とされた言葉に、わたしは思わず口を閉ざした。
その寂しさが、ほんのりと甘く胸に沁みた。
かおりんは、わたしを見ないで俯いている。けれど、その耳が真っ赤なのは隠しきれていなかった。
わたしはゆっくりと、おはじきをひとつ指で押しやって、かおりんの手の甲にコトンとぶつけた。
「……なにこれ?」
「“返事”」
「返事?」
「昨日の告白、ちゃんと聞いてたでしょ」
かおりんはきょとんとした顔で、おはじきを拾い上げる。透き通ったガラスの中に小さな青が混じっていて、光に透かすと海みたいに見えた。
「それ……あげる」
「え、いいの?」
「うん。わたしの気持ち、ってことで」
わたしは精一杯、真面目な顔をして言った。
かおりんはしばらくそのおはじきを見つめていたけど、やがて笑った。
「……ズルいなぁ、しおりんって」
「なにが」
「こんなに小さいおはじきひとつで、胸いっぱいにさせるんだから」
その言葉に、わたしは思わず顔を背けた。
「……自分で言っといて照れるの、反則でしょ」
「ふふ、いいでしょ?」
わたしたちは笑い合って、またおはじきを弾き始めた。
だけど、もうゲームじゃなかった。ただ並べて、ぶつけて、転がして。転がるたびに、なんだか心の奥の迷いが少しずつ軽くなっていくのを感じた。
やがて陽が落ち、部屋に橙色の影が伸びてきた。
カーテンの隙間から差し込む夕陽は、おはじきを赤や金色に染めて、畳に宝石みたいな模様を散らした。
「……ねえ、しおりん」
「ん?」
「ありがとう。今日、ここに来てよかった」
かおりんがそう言って微笑んだ瞬間、わたしは思わず――この手を伸ばして抱きしめたい衝動に駆られた。けれど、ぐっとこらえて、代わりにおはじきをひとつ、彼女の手のひらにそっと乗せるだけにした。
ちゃりん、と最後のおはじきが転がる音。
それが合図みたいに、今日の時間はゆっくりと幕を閉じていった。




