第79話「二人カラオケ」
新学期の教室って、ちょっと不思議な匂いがする。
夏の汗と、まだ抜けきらない日焼け止めの匂いと、新しいノートを開いたときの紙の匂い。全部が混ざって、2学期の始まりを告げていた。
窓から差し込む光は、もう真夏ほどギラギラしていなくて、どこか柔らかくて。休み時間に友達が「涼しくなったねー」って言ったとき、わたし――三宅ゆずは(ゆはりんって呼ばれてます)は小さく頷いた。
――でも、胸の奥はぜんぜん涼しくなかった。
なぜなら、放課後にちょっと大きな計画を立てていたからだ。
「ねえ、かおりん」
「なに?」
「今日さ……一緒に帰らない?」
わたしの声は自分でもわかるくらい小さくて、でも精一杯の勇気を込めた。
かおりんは一瞬きょとんとしたあと、すぐに笑顔を見せてくれた。
「うん、いいよ。どうしたの? 珍しいね」
心臓がドクンと跳ねる。やっぱり気づかれてる。わたしがいつもより少し落ち着かないこと。
「えっとね……カラオケ、行かない?」
「えっ、ふたりで?」
「うん。ふたりがいいなって」
わたしは笑ってごまかす。けど、それは本音だった。
かおりんは少し戸惑った顔をしたけど、すぐに「じゃあ行こっか」と答えてくれた。
(やった……!)
*
駅前のカラオケビルは、午後の光を反射してガラスがきらきらしていた。
エレベーターの中でふたりきりになると、なんだか変に緊張して、手に持っていたカラオケの会員カードを落としそうになる。
かおりんが「大丈夫?」と笑って拾ってくれて、その指がわたしの指にちょっと触れた。
(うわ……近い……)
たったそれだけで、頭がふわっと真っ白になる。
部屋に入ると、四角い小さな空間に冷たいクーラーの風と、ソファのビニールの匂いが充満していた。
大きな画面にカラオケの待機画面が映っていて、リモコンのボタンを押すたびにピッピッと軽い音が響く。
「どっちが先に歌う?」
「かおりんがいい」
「えっ、なんで!」
「……聞きたいから。かおりんの声、好きだから」
言ってから、しまったと思った。言葉がそのまま口からこぼれてしまっていた。
かおりんは一瞬目を丸くして、それから耳まで赤くなった顔で「……じゃあ一曲だけね」とリモコンを操作した。
*
画面にアニメの映像が流れて、イントロが始まる。
かおりんの声がマイクからふわっと広がった。
わたしは一瞬、聞き入ってしまった。
夏の光みたいにまっすぐで、透明で、でもどこか柔らかい声。胸の奥にすとん、と落ちてくる。
(やっぱり……大好きだな)
サビでちょっと高い音に届いたとき、かおりんが不安そうにわたしを見た。
わたしはすぐに頷いて、口ずさむように小さくハモる。
かおりんの顔がふっとほころんで、安心したみたいに歌い切った。
「ど、どうだった?」
「すごく、よかった。……もう一回聞きたいくらい」
「や、やめてよ! 恥ずかしいから!」
そう言いながら、かおりんは笑ってドリンクを飲んだ。氷がカランと音を立てる。
その笑顔を見ているだけで、胸がじんわり熱くなっていく。
*
そのあとは、わたしが歌う番になった。
選んだのは、ふわっとしたラブソング。
歌いながら、ついかおりんの顔を見てしまう。
かおりんは頬杖をついて、静かに聞いていた。
目が合った瞬間、わたしは歌詞をちょっと噛んでしまった。
「ふふ、緊張してる?」
「う、うん……少しだけ」
「ゆはりんらしいね」
そう言って笑うかおりんが、眩しくて。
歌い終わったあと、わたしは思わずソファに倒れ込んだ。
「疲れたぁ……」
「一曲で!?」
「だって、かおりんの前で歌うの、特別なんだもん」
わざと冗談めかして言ったけど、本当は心臓がバクバクで、もう体が持たなかった。
*
何曲か歌って、お腹もいっぱいになって、少し静かな時間が流れた。
カラオケの画面は待機状態に戻って、ぼんやりと映像が流れている。
ドリンクの氷もほとんど溶けていて、ストローでかき混ぜると小さな音が響いた。
「ねえ、かおりん」
「ん?」
「……夏休み、楽しかった?」
「うん。座道部のみんなとキャンプ行ったし、遊んだし……でも、ちょっと大変だったかな」
「そっか……」
わたしは自分の膝に指を置いて、くるくると回した。
言いたいことが喉の奥まできているのに、声にできない。
でも、このまま何も言わなかったら、またずっと胸の中でくすぶったままになってしまう。
(言わなきゃ……今日しかない)
心の中で何度も繰り返して、ついに口を開いた。
「……わたしね、かおりんにずっと言いたいことがあって」
「なに?」
かおりんの視線がまっすぐ向けられる。
逃げられない。
「わたし……かおりんのこと、好きなの」
言った瞬間、体の芯まで熱くなった。
けれど、それだけじゃ足りなかった。
「でも……しおりんのことも、好き。どっちかなんて選べないくらい、大事で……どうしようもなくて」
かおりんの目が大きく見開かれる。
わたしは慌てて続けた。
「困らせたいんじゃないの。ただ……黙ってるのは、いやで。伝えたかっただけ」
そう言って、わたしは両手でオレンジジュースのカップをぎゅっと握りしめた。氷がカランと揺れる。
*
かおりんはしばらく何も言わなかった。
ストローを指でいじりながら、視線をあちこちに泳がせて。
その頬が少し赤くなっているのに、わたしは気づいた。
「……ずるいよ、ゆはりん」
「えっ?」
「そんなふうに言われたら、わたし……どうしたらいいかわかんない」
でも、その声は震えていなくて、優しくて。
そして、袖をつまんだわたしの手を、振り払わなかった。
「迷惑じゃない?」
「……迷惑じゃないよ」
それだけの返事で、胸がいっぱいになった。
*
画面ではまた新しい曲のイントロが流れ始めていた。
けど、わたしたちはマイクを手に取らなかった。
ただ並んで座って、溶けかけた氷の音を聞きながら、それぞれの鼓動に耳をすませていた。
(伝えられた。それだけで、今日は特別な日だ)
部屋の空調はひんやりしているのに、わたしの体は熱くて仕方なかった。
告白の言葉を口にしたあと、かおりんと視線を合わせられなくなって、ストローの氷をカランと鳴らして誤魔化す。
「……そろそろ、もう一曲入れる?」
かおりんの声。少しだけ震えていた。
「うん……じゃあ、これ、一緒に歌わない?」
リモコンに映ったのは、アニメの有名なデュエットソング。画面に歌詞が流れはじめると、わたしたちは一本のマイクを両手で支えた。
顔が、近い。
マイクに唇を寄せるたび、かおりんの息が頬にかかる。
歌声が重なる瞬間、わたしは思わず目を閉じてしまった。
(やだ……心臓の音、マイクに拾われてるんじゃ……)
サビに差し掛かると、わたしの声が震えて、かおりんが小さく笑う。
でもその笑顔も、マイクを通して重なる声も、全部が甘くて、くらくらした。
*
曲が終わると、ふたりで同時に息を吐いた。
「つ、疲れたね」
「ね……でも、楽しかった」
ソファに深く座り直した拍子に、かおりんの肩とわたしの肩がぴたりと重なる。
離れようとしたけど、かおりんが動かないから、そのままじっとしてしまった。
静かな時間。
モニターの待機画面の光だけが、ぼんやりと部屋を照らす。
「……ゆはりん」
「なに?」
「手、貸して」
そう言われて差し出した手を、かおりんはためらいもなく握った。
指先まで熱くて、どっちの鼓動かわからないくらい速いリズムが、手のひら越しに伝わる。
「昨日から……なんか、ゆはりんってずるい」
「ずるい?」
「まっすぐで……逃げられなくなる」
かおりんの声が、耳のすぐ近くに落ちてきた。
わたしは息を呑んで、ただ頷くことしかできなかった。
*
ジュースのグラスを取ろうとしたとき、ふたりの手が同時に触れた。
指先が重なったまま、しばらく動けなかった。
「……あ」
「い、今の……」
間接的に触れたストロー。重なった手。
その全部が、まるで恋人同士みたいで。
わたしは思わず笑ってしまった。
「ねえ、これって……間接キス?」
「や、やめてよ……言わないで……!」
かおりんの耳まで真っ赤になっていて、わたしの胸の奥は甘く痺れた。
*
店を出て、夜風に当たる。
少し冷たい風が、火照った頬に心地よかった。
駅までの道を歩く間、わたしたちはずっと手をつないだままだった。
行き交う人に見られてもいい。むしろ、この瞬間を誰かに証明してほしいくらい。
夜風に当たりながら歩いているうちに、駅の明かりが近づいてきた。
でも、かおりんとつないだ手を離したくなくて、わたしはわざと歩幅をゆっくりにした。
「ゆはりん、遅くなっちゃうよ」
「……うん。でも、もう少しこのままでいたい」
素直に言ったら、かおりんがびくっと肩を揺らした。
それでも手を振りほどかず、少しだけ握り返してくれた。
(ああ……嬉しい……)
わたしたちはそのまま、駅を通り過ぎて商店街の裏道に入った。
人通りが少なくなって、街灯のオレンジ色がやわらかく路面を照らしている。
*
「ここなら……誰も見てないね」
かおりんがぽつりと呟いた。
わたしは思わず立ち止まり、かおりんの顔を見つめた。
暗がりでも、赤くなっているのがわかる。
「かおりん……」
言葉より先に、指が自然と彼女の頬に触れていた。
柔らかくて、温かい。
かおりんは驚いたように目を見開いたけど、すぐに伏し目がちになって、そのまま逃げなかった。
指先から伝わる体温が、胸の奥までじんじんと染み込んでいく。
*
「……ゆはりん、なんか……ずるい」
「ずるい?」
「だって、そんなことされたら……わたしまで……」
最後の言葉は聞き取れなかった。
でも、かおりんの視線が、わたしの唇に吸い寄せられるみたいに落ちていったのは、はっきりとわかった。
鼓動が速くなる。
夜の空気が、熱くて重い。
(このまま……近づいてもいい?)
答えは聞かなくてもわかっていた。
かおりんの手が、わたしの袖をぎゅっとつまんでいたから。
*
――ほんの数センチ。
吐息が触れ合う距離で、わたしたちは固まった。
誰もいない裏道。
夏の終わりの匂いと、かおりんのシャンプーの匂いが混ざって、頭がくらくらする。
触れそうで、触れない。
そのぎりぎりの境目に、時間が溶けていく。
「……ゆはりん」
かおりんの囁きに、わたしは答えられなかった。
ただ、唇をほんの少しだけ、近づけた。
*
その瞬間――遠くで電車のベルが鳴った。
二人同時にハッとして、慌てて顔を離す。
でも、袖をつまんだ手だけは、最後まで離れなかった。
「……電車、行っちゃうよ」
「うん。でも、今日は……ありがとう」
わたしは、かおりんの笑顔を見て、胸がいっぱいになった。
触れなかったけど、それ以上に特別な夜になった気がした。




