第77話「山⑥」
夜明け前。わたしたちのテントは、まるで嵐に襲われたあとみたいに中も外もぐちゃぐちゃだった。
寝袋はずれてるし、誰かの靴下が天井のロープにひっかかってるし、ポットのフタは転がってる。
そして全員――目の下にクマ。
(……笑えない。まさか本物じゃなくて“寝不足のクマ”で全員揃うなんて……)
テントを出ると、冷たい空気が肺の奥までしみ込んできた。空はすでに薄桃色に染まり、鳥の声が澄んでいる。あの夜のドタバタが嘘みたいだ。
でも体のだるさと、ちょっとズキズキする心臓の鼓動は、まだ現実を思い出させていた。
「おはよー……全然寝た気しない……」
ひかりんが目をこすりながら出てくる。髪はぼさぼさで、いつものイケイケ感ゼロ。
「自業自得でしょ……」
しおりんが呆れ顔で言う。けど、しおりんだって頬がほんのり赤くて、目を逸らしている。昨夜の“ねっとり攻撃”の余韻、残ってるよね……?
「全員、整列」
奈々りんが真顔で立ち上がり、背筋を伸ばして声をかける。
「……はぁい」
思わず小学生の登山みたいに返事して並んじゃった。
ゆはりんはまだ半分寝ていて、わたしの腕に寄りかかりながら「あさ……? もう降りるの……?」とぽそっとつぶやいた。
その寝ぼけ顔があまりに無防備で、わたしの胸がまたドキッとする。昨夜は大人しかったのに、逆に余韻で妙に意識してしまう。
片付けを終え、ザックを背負って山道を下り始めた。
朝の森はしっとり濡れていて、土の匂いと草いきれが混ざり合っている。鳥の声が交差して、風が葉を揺らすたび、昨日までのドタバタが少しずつ遠ざかっていく気がした。
「ひかりん、足取り重いね」
「うるさい……寝不足で視界が二重なんだよ……」
「二重視界で下山とか危ないから! 奈々りん、監視お願い!」
「任務了解」
奈々りんがひかりんの後ろにピタッとついて、完全に護衛みたいになっていた。
しおりんは先頭で地図を広げ、「このまま沢沿いを降りれば昼前にふもとに着くよ」と淡々と指示を出す。
さすが姉。頼りになる……けど、昨日の“笑ってた顔”が頭から離れない。
途中、小川で水を汲むため休憩したとき。
ゆはりんが石に腰掛けて、手で水をすくってぱしゃぱしゃやりながら言った。
「ねえ……またキャンプ、したいね」
全員が一瞬固まった。
昨日のあの修羅場を思い出したからだ。
「……反省点を整理してからな」
奈々りんがぼそっと返す。
ひかりんはケラケラ笑って、「次はもっと騒ごうぜー!」とか言ってる。懲りてない。
しおりんは「……テント広げる場所、もっと余裕あるとこがいいな」と苦笑い。
わたしは……思わず小さくうなずいていた。
だって。大変だったけど、心臓ばくばくで寝不足になったけど――なんだかんだで、楽しかったのも事実だから。
山道の終点が見えたとき、全員が自然に笑顔になった。
足元の砂利が舗装路に変わり、遠くに民家の屋根が見える。
現実の生活に戻るんだっていう安堵と、ちょっとした寂しさが入り混じる。
「しおりん、お風呂入りたい」
「わたしも……砂と汗でベタベタだもん」
「じゃあ駅前の温泉、寄ろっか!」
ひかりんの提案に、全員が「賛成!」と声を揃えた。
その声が森にこだまし、朝日を浴びたわたしたちは、ようやく山を下り切った。
*
山を下りきって最初に目に飛び込んできたのは、駅前にそびえる大きな温泉宿だった。
「登山者歓迎!」と書かれた看板が出ていて、ザックを背負ったわたしたちにはまるで「おいでおいで」しているみたいに見える。
「よっしゃ、ここだー! 湯! 飯! 睡眠!」
ひかりんが両手を天に突き上げる。
「食べる前にちゃんと洗えよ……」
奈々りんが冷静につっこみ。
わたしはただ、温泉の湯気が立ち上る屋根を見ただけで胸が高鳴った。
――昨夜の寝不足でクタクタな体も、心のざわざわも、全部溶かしてくれる気がしたから。
浴衣に着替えて大浴場へ。
脱衣所でザックを下ろすと、それだけで背中がふわっと軽くなる。
鏡に映る自分の顔は……やっぱり目の下にクマ。だけどどこかスッキリした気もする。
「かおりん、帯きつくない?」
しおりんが後ろから帯を直してくれる。背中に指が軽く触れて、なんだか妙に意識してしまった。
「だ、大丈夫……ありがとう」
「よし、行くか!」
ひかりんが一番に脱衣所の戸を開ける。
浴場の中は、湯気がふわっと立ち込めていて、ヒノキの香りが鼻をくすぐる。
お湯の表面が黄金色に照らされて、まるで夕陽が閉じ込められているみたいだ。
*
「よーし! まずは洗いっこでしょ!」
ひかりんがいきなり桶を掲げて宣言した。
「え、えっ!? ひとりで洗えばいいじゃん!」
わたしが慌てて拒否するも、彼女はにやにや笑っている。
「なに言ってんの、こういうのが友情を深めるんだよ! さぁ並べ~!」
真っ先に犠牲になったのはしおりん。
桶を持ったひかりんに背中を向けて座ると――
「よーし、いっくよ~!」
「ちょっと冷たっ……! あ、そこ強すぎ!」
ゴシゴシ……バシャーン!
ひかりんの勢いに、しおりんの悲鳴が浴場に響く。
「ひかりん、手加減って言葉知ってる!?」
「愛情が強すぎただけ♡」
しおりんがタオルで反撃し、二人はすでに洗いっこを超えた水かけ合戦になっていた。
「次は……かおりん、こっち」
奈々りんがタオルを持って待機していた。
「え、ま、待って奈々りん……その顔、なんか怖い」
「規律を守れ。背中を出せ」
軍隊か!? と思ったけど、逃げられない。しぶしぶ前に座ると――
「……強っ!!」
ゴッシゴッシと規則正しいリズムで背中が削られていく。
「奈々りん! 背中が新品になる~!」
「汚れは完全除去だ」
真剣すぎて逆に笑いが止まらなかった。
「わ、わたしも……かおりんの背中、洗いたい」
おずおずと声を出したのはゆはりんだった。
「えっ!? い、いいよ自分で……」
「だめ。かおりん、がんばってたから……ご褒美」
そう言って、小さな手でそーっとタオルを滑らせる。
奈々りんとは真逆で、くすぐったいくらい優しい。
「んっ……ゆはりん、それ……くすぐったいってば!」
「ふふ……かおりん、かわいい」
あまりに素直で、わたしの顔が一気に真っ赤になる。
そのとき、背後から桶の水がザバーッとかかった。
「キャー!? だ、誰よ!」
振り向くと、ひかりんが満面の笑みで桶を掲げていた。
「友情の証、水かけフィニッシュ!」
「やったなぁー!」
しおりんとわたしが同時に反撃、桶で応戦。
奈々りんは「規律違反だ!」と叫びながら加勢し、ゆはりんは「きゃー!」と笑いながら逃げ惑う。
気がつけば、浴場全体がびしょ濡れで、洗いっこなのか水合戦なのかわからない大騒ぎになっていた。
最終的にみんなぐったり座り込み、泡だらけの髪をタオルで拭きながら笑い合った。
「やっぱり……洗いっこ、友情深まるね!」
ひかりんがドヤ顔でまとめる。
「いや、疲れ倍増だから!」
わたしが突っ込むと、全員で大笑いした。
(でも……ゆはりんの“ご褒美”は、ちょっとドキッとしたな……)
湯気に隠れながら、わたしはそっと胸の奥を押さえた。
*
「は~~~~……生き返る~~~!」
ひかりんが真っ先に肩まで浸かり、声を長く引き伸ばす。
ゆはりんはというと、ちょこんと端に座って足だけ浸け、「あつ……でも気持ちいい……」とほわほわ笑っている。
奈々りんは湯船の縁に背筋をピンと伸ばして座り、静かに目を閉じている。まるで温泉の守護神。
そしてしおりんは――わたしのすぐ隣に腰を下ろし、さりげなく肘が当たる距離感。
(わざとなのか偶然なのか……わからないけど……近い!)
「ねえねえ、こういうときこそまた恋バナじゃない?」
湯の中でひかりんがニヤッと笑う。
「また!? もう勘弁してよ!」
わたしは即座に反論する。
「だってほら、昨夜は途中でドタバタして終わっちゃったじゃん?」
「終わらせたの誰だと思ってるの……」
しおりんの冷たい視線に、ひかりんが「テヘッ」と舌を出す。
「……でも、温泉で話す恋のことって、なんか特別だと思わない?」
ゆはりんがぽそっと呟いた。その頬は湯で赤いのか、恥ずかしさなのか……。
その一言で、場がまた妙な空気になる。
「じゃあさ、順番に『温泉で一緒に入りたい人』を言おう!」
ひかりんが突然爆弾を投下した。
「はぁ!? なんでそんな質問!?」
わたしが慌てると、ひかりんは湯をぱしゃっと跳ね上げて笑った。
「だって妄想するだけで楽しいじゃん!」
「わたしは……一人ってきめられないですぅ……」
っと、ゆはりん。うーん、ゆはりんらしい。
「……わたしは、しおりん」
奈々りんが真顔で言う。
「え、なんで?」
「頼れるから」
短い返答に、しおりんは少し照れて視線を逸らした。
「わたしはね~……秘密!」
ひかりんがニヤリと笑って誤魔化す。絶対怪しい。
そしてみんなの視線がわたしに集まる。
「かおりんは?」
「……いないってば!」
必死に否定したけど、耳まで真っ赤になってるのを誤魔化せなかった。
*
湯から上がって、脱衣所で髪を乾かしながら。
「やっぱりさ、恋バナって疲れるよね……」
わたしがぼやくと、しおりんが笑って答えた。
「でも、こうやって話すのも悪くないでしょ?」
ドライヤーの風に混じって、わたしの胸の中まで熱を残していく。
(……やっぱり、ちゃんと向き合わなきゃいけないのかもしれない)
その夜、全員布団に倒れ込むように眠った。
山での寝不足と温泉の心地よさで、今度こそ誰もドタバタせずに――。
(……いや、ひかりんだけは怪しいけど……)




