第74話「山③」
――ね、寝れなかった。
正直に言う。あの夜、わたしはぜんっぜん寝れなかった。
山の夜は、想像してたより冷たくて、想像してたより暑かった。
左から押し寄せる「ゆはりん抱きつき攻撃」、右から感じる「しおりん観察モード」の視線。真ん中に挟まれたわたしは、寝袋の中で心臓だけがロックフェスみたいに鳴り響いてた。
そして朝。――ほぼ徹夜で迎えた。
*
「おーっし、今日も全力登山だーっ!」
先頭を行くひかりんの声が、山の朝に響いた。
タンクトップ姿でザックを担ぎ、髪をバッサバッサ揺らして登っていく。後ろ姿からして“太陽”って感じ。
奈々りんはそのすぐ後ろ。黒いキャップをきっちりかぶって、無駄のない歩幅で黙々と進む。彼女の背中は、なんか護衛兵みたいで頼もしい。
「ひぃ……しおりん……ちょっと待ってぇ……」
左隣からはゆはりんの情けない声。汗をぬぐいながらも、ピンクのキャップをずらさないで頑張ってる。その姿が妙に可愛くて、わたしの心臓がまた忙しくなる。
……いや、違う違う! 昨日のアレを引きずるな、わたし!
「かおりん、大丈夫? 顔赤いよ」
今度は右から。しおりんがちらりとわたしを覗き込んでくる。
汗をぬぐう仕草も優雅で、お姉ちゃんオーラ満載。……ただ、その目の奥が妙に鋭いのは気のせい? ぜったい気のせいじゃないよね?
「だ、だいじょぶ! 全然元気!」
口ではそう言ったけど、膝はもうガクガクしていた。
睡眠不足で登山なんて無謀すぎた。
*
昼過ぎ、やっと山小屋に着いた。
赤茶けた屋根から煙がのぼっていて、「文明!」って叫びたいくらいだった。
「着いたー! 腹減ったー!」
「……整列」
ひかりんはザックをぶん投げて大の字、奈々りんは淡々と軍隊モード。
ゆはりんは「やったぁ……」と小さくガッツポーズ、しおりんは「まずは荷物を片付けてね」と相変わらずの保護者っぽさ。
わたし? もう足が棒で、荷物を降ろした瞬間に崩れ落ちそうだった。
*
小屋の食堂で出てきたのは名物の山菜そば。
テーブルに湯気が立ちのぼり、だしの香りが鼻に飛び込んできた瞬間、わたしのお腹が大声で鳴いた。
「いただきます!」
みんなで箸を取る。
ひかりんはズルズル豪快に啜り、奈々りんは「塩分補給、適正」とか分析しながら食べる。
ゆはりんは「熱っ!」って舌を出して、しおりんは「ふぅふぅして食べなきゃ」と面倒見モード。
「……美味しい!」
わたしも夢中で食べた。睡眠不足も疲れも、だしの優しさが全部流してくれた気がした。
けど――時折、右隣からの視線に気づく。しおりんが、静かにわたしを見てる。目が笑ってるんだけど……ぜったい中身は笑ってない。昨日の夜のこと、根に持ってる。うう……。
*
午後、小屋の二階の広間に案内された。
窓を開けると山風が入ってきて、床板の上をスーッと通り抜ける。汗ばんだ体に気持ちいい。
「ここ最高じゃん!」
「うわ、ゴロンしたい!」
ひかりんとゆはりんが転がり、奈々りんは真顔で「体幹トレーニングに使える」と腕立てを始める。
わたしは窓辺に腰を下ろして、外の稜線を眺めた。オレンジ色に染まり始めた雲。少しずつ暮れていく山の景色。――その美しさに、胸が少しだけ落ち着いた。
「かおりん」
背後から名前を呼ばれて振り向くと、奈々りんが立っていた。彼女の目は真剣で、声は低い。
「今夜は、昨日みたいなことは……起こさないで」
「……っ!」
心臓がドクンと跳ねた。顔に出てた? いや、出てたんだろうな。
言い訳もできず、わたしは小さくうなずいた。
*
夕暮れ。
小屋の前で焚き火を囲んだ。木がパチパチと弾けるたび、火の粉が夜空に飛んでいく。
「マシュマロ焦げたー!」
「回転が遅い。もっと均一に」
ひかりんと奈々りんが口喧嘩みたいにやりとりし、ゆはりんはケラケラ笑っている。
しおりんは黙って火を見ていた。ときどき、ちらりとこちらに視線を寄越しながら。
その視線に焼かれるみたいで、わたしの胸はまたざわつく。
昨日の夜――腕に残る痺れ、耳元で囁かれた寝言。全部がまだ熱を帯びたまま残っている。
(……今夜は、どうなるんだろう)
山の風は涼しいのに、わたしの頬は火の粉よりも熱かった。




